天の園 地の楽園 第1部 第09話(完結)

 貴明が一人暮らししているマンションに帰ると、義父の圭吾に依頼していた書類がファックスに届いていた。義父の手を借りるのは不本意極まりなかったが、この件については彼の手を借りるしかなかった。

「全く早くすべてを掌握したいな。嫌いな奴に頭を下げるなんてストレスが溜まる」

 書類をキッチンのシンクでライターで火をつけて燃やして落とし、灰になったところで水道の水で流した。

「だけど、すべて恵美の為だ……」

 再びファックスに戻り、貴明は受話器を取り上げて電話をかけた。

 その深夜、貴明は高いビルの一室にいた。獰猛な獣を胸の内に潜ませていそうな、怖い目つきの中年の男と対峙している。

「それは、うちの組を辞めた二人だな」

 黒革のソファの上で中年の男はふんぞりかえり、煙草を吹かしながら言った。一方の貴明は浅く腰掛けているだけだった。

「いつ?」

 義父からの書類で詳細を知っていたが、敢えて貴明は男に聞いた。男の人間性を確かめるためだった。

「つい先日だ。会社を興したいと言っていたが」

「……なるほどね」

 冷たく茶色の目を光らせた貴明を眺めやりながら、中年の男は部屋の隅に控えているうだつが上がらなそうな小男に、電話を持ってくるように言った。

「君の大事な女に傷をつけたのが奴らの運の尽きでしょうな。本来なら放っておくんだが君相手ではそうはいかない。馬鹿息子め、死んでからも親を困らせる。事故についても親である私から謝罪する」

「……貴方が悪いのではない」

 貴明は、頭を下げようとした男を止めた。

「同じ事だ」

 中年の男は小男が持ってきた電話のダイヤルボタンを押し、やがて乱暴な言葉遣いで話し始めた。

「林田、辞めた下川と高橋を例の場所へ連れて行け。そう、A地区だ。大事な取引先を一人紹介してやるとでも言えば良いだろう。24時きっかりだ」

 受話器を置いた中年の男は、小男が電話を持って部屋を出て行くのを見送ってから言った。

「素人のお嬢さんの、それも大勢の人間が見ている前で奴らがやった行動は、うちのメンツにも関わる事だ。その金は返させてもらおう。ただ、家は元に戻せないのが申し訳ないところだな」

「もうあの土地は誰かに買われているようですね」

「……一般人だから手が出しにくい」

 中年の男が申し訳なさそうに言ったが、貴明は首を横に振る。

「買い取った客は無関係ですから。本人も土地だけなんていらないと言うでしょう」

 もうこの男に用はない。貴明はソファから立ち上がって男に一礼した。

「お金は専用口座に振り込んで下さい。では僕はこれで」

「いつでも役に立つ事があれば、連絡して下さい」

「はい」

 貴明はほとんど明かりが消えているビルを出て黒いサングラスをかけた。それは光を遮るものではなく、夜でも昼間のように周囲が見える様に特別なレンズ加工がしてあるものだった。

 数十分後、貴明は東京港の近くにあるカビ臭い倉庫の中に居た。部屋の中は頼りない照明しかないせいでかなり薄暗い。コンクリートの柱に二人の男が縛り付けられている。それは恵美の両親の葬式に乗り込んだ、あの二人だった。金髪が下川で赤毛が高橋という名前らしい。

「話が違うじゃないですか! 林田さん。顧客名簿を売ってくれるっていうから来たんですよ」

 下川が林田という中肉中背の少し小柄な男に言っている。林田という男は、一目でただ者ではないという事がわかるオーラをまとっている男だった。左の頬に銃創がある。

「ちっとも違わねえよ。こちらの方が売って下さるそうだ」

「あ?」

 下川は、黒ずくめの男数名と歩いてきた貴明を見た。

「ガキじゃないですか。学生名簿でもくれるって言うんですか?」

「昔話なら、まあ閻魔大王の名簿をね……」

 貴明はくすりと笑った。それを合図に林田は貴明に会釈して倉庫から出て行った。下川と高橋の顔が蒼白になっているのが、薄暗い中でもよくわかる。貴明はサングラスを外した。

「あんたたち、ガキの僕におびえてどうするの?」

「お前……佐藤グループの」

 高橋がつばを飲む音が聞こえた。

「へえ、ただのガキの事よく知ってるね。でもこの間大金をせしめたお嬢さんの事は知らないんだ」

「さ、佐藤様があの女の子と……」

「恵美はね、僕の大事な女なんだよ。そしてその家族もね。ご両親の命を奪った馬鹿はその命で罪をつぐなったけれど、お前達はどうする?」

 二人共がたがた震え出した。

「す、すみません! 金は必ず返しますからっ」

「もう遅い。それだけじゃあ満足できない。……なあ? 新しい靴を履くのと、山奥で洞穴見るのとどっちがいい?」

 それは恐ろしい選択だった。だが下川と高橋はキョトンとした。

「えっと……靴、でしょうか」

「そ、じゃあ支度に時間がかかるね。待ってろ」

「支度?」

「そ、船とコンクリートの調達にね」

 二人は青ざめた。用意をしに出て行った男一人を見送り、貴明は再びくすりと笑う。

「日本海と太平洋、どっちに沈みたい?」

 恐ろしい事を言っているのに、貴明は汚れなき天使の笑みを浮かべていた。

 

 数日後、恵美は自分の銀行口座に途方も無い金額を振り込まれて仰天した。その事を正人に話すと彼は深刻そうな顔をしたが、多分あのやくざが振り込んだのだろうとだけ言った。やくざの事務所らしき電話番号が領収証にあったので恵美は電話してみたのだが、現在は使用しておりませんとアナウンスが流れるだけだった。

「なんで? だってあれは借金だったんでしょ?」

「怪しいもんさ。あんな借用証いくらでも作れる。だから俺は警察に行った方がいいって言ったんだ。あの二人組、調子に乗ってぼろでも出したんじゃねえの?」

「そうかな……でも一億円も入ってるよ。私こんなの持ってるの怖い」

 銀行にも問い合わせてみたのだが、誰から振り込まれたのか聞かないでくれと取り合ってくれない。それどころか資産運用を考えてはどうかと商売を始められ、恵美は慌てて退散した。

「そーだなあ。父ちゃんも金に関しては弱いから、佐藤にでも聞いてみたら?」

「貴明に?」

「ああ、あいつ大学はどっかの経済学部らしいし俺たちよりは詳しいんじゃないの?」

「そっか」

 ところがその肝心の貴明は、会社勤めが始まっていて一向につかまらなかった。頻繁に来ていた電話もメールも来なくなっている。

 一度だけ来たメールには、卒業式には行けそうも無いというそっけないものだった。

 

「……す……ごい」

 恵美は佐藤グループの支社の一つの大きなビルの前で目を回していた。その手には卒業証書の筒がある。卒業証書を貴明に渡してくれと担任に頼まれ、軽く引き受けた事を恵美は後悔していた。

 マンションの管理人に渡すからいいよねと貴明にメールを送り、それなら会社に持ってきて欲しいとこのビルの名前と住所を告げられ、恵美は何も考えずに来てしまったのだ。

 入り口には制服の警備員が二人も居て、出入りする人に鋭い視線を投げ掛けている。

「こんなところに来いって……、入れるわけ無いよ貴明のバカあ」

 ビルに入るのを止めてきびすを返した途端、その行動を怪しんだ警備員の一人が恵美に声をかけてきた。

「なにか当社に御用ですか?」

「いえっ、あの、なんでもないんです! ごめんなさい!」

 やっぱり郵送しようと心に決めた恵美に、警備員が言った。

「でも何が御用がおありなような、それは?」

 卒業証書の筒に警備員は目をつける。そして恵美の制服にも気づいたようだ。

「もしや、佐藤秘書のお知り合いの方ですか?」

「は、はい。これをこちらまで届けて欲しいと言われて、でも」

「そうでしたか、伺っておりますからどうぞお入りください」

 警備員は、断ろうとする恵美を強引にビルの中に招き入れたのだった。

 受付嬢はじろじろと恵美を見てロビーの横にある待合のソファの一つを指し、そちらにおかけくださいと冷たく言った。フルメイクのものすごい美女で気後れしてしまう。貴明は今、会議に出席中で終わるまで待っているようにとの事だった。明らかに場違いな制服姿の恵美を通り過ぎる社員達がじろじろと見ていく。恵美はソファの隅で小さくなっていた。

「ねえ……まさあの子、佐藤秘書の恋人とかじゃあないでしょうね?」

「まっさか! あんな平凡なの釣り合わないわ」

 こそこそと話す女性たちの声が響き、恵美はハッとしてそっちを見た。スーツを華麗に着こなした数人の女性社員達が、遠巻きに自分を見ている。視線がばちっと合ったが彼女達は逸らす事無く、それどころか好戦的に見つめ返してきた。

 一人がわざと聞こえるように言った。

「将来の社長夫人にはなれそうもないわね」

 恵美はかあっと顔を赤らめた。そんな事は考えてもいなかった。ざわざわとした好奇に満ちた視線が突き刺さり始め、恵美はさっきよりいたたまれなくなってくる。受付嬢に卒業証書を貴明に渡してくれるように伝言して渡し、そそくさとビルを飛び出した。

 恵美は正人の家に帰り、居間でテレビを見て笑っていた正人の胸に飛びついた。

「お、おい? そんなに感動的な卒業式だったっけ?」

「うん…………、すっごくよかった!」

 恵美はそれだけ言って、温かい正人の胸の中で泣いた。

 やっぱり正人は安心すると恵美は思う。

 甘いものもドキドキするものも無いが、穏やかな暖かさがある。

 正人の存在は、家族にとてもよく似ていた。

「まあ大学は俺の職場も近いし、しょっちゅう会おうぜ?」

「うん……」

 ひしとしがみついて離れようとしない恵美に、正人が苦笑しながらからかった。

「……抱きつくのはもう佐藤だけにしておけよ?」

「ちょっとだけ」

「しょーがねえ甘えんぼな妹だな」

 ぶ正人は恵美の背中をやさしく撫でてくれた。

「恵美は僕の恋人なんじゃなかったっけ?」

 貴明の声が響いて心臓がひっくり返り、恵美はますます正人にしがみついてしまった。おそるおそる振り返ると、スーツを着た貴明が腕を組んで戸口に凭れている。正人がぽんぽんと恵美の頭を叩いた。

「卒業式になんで来なかったんだよ、お前」

「仕方ないだろ、緊急に会議が入った社長についていったんだから。それより恵美、なんで僕に会わずに帰っちゃうんだよ?」

「え……と」

 恵美は正人にしがみついいたままだ。それを見てムッとした貴明に乱暴に正人から引きはがされて、恵美が住んでいる客間に引きずり込まれた。貴明は恵美のカバンから恵美のスマートフォンを取り上げ、自分の番号とアドレスが着信拒否にされているのを見つけた。

「やっぱりね。何回電話しても駄目なわけだ。どういう事? 恵美は僕の彼女になったんじゃなかったっけ?」

「だ、だって……。貴明は……あんなすごい会社の社長さんになるんでしょ? が、が、学生時代はいいけど、もうこれから大人になるんだし……付き合いは考えないと」

 貴明に睨まれて、恵美はだんだんと語尾が小さくなっていく。しばらく黙って貴明は恵美を見ていたが、やがて唇を魅惑的に歪めた。

「ふうん、そうやって僕から離れようとしてるわけ?」

「だって……、貴明の周りにはたくさん綺麗な女の人やお嬢様が……」

 強く抱きしめられて恵美は一瞬息が詰まった。

「離さないから……」

「でも」

 唇が重なり直ぐに舌が絡み付いてきた。そのまま恵美は畳の上に押し倒されていく。逃げようとしたが貴明の腕は外れず、二人は畳の上を転がった。

「貴明、あのね」

「離さないよ」

 恵美は両手を貴明に押さえつけられ、動けなくなった。そして自分の上に覆いかぶさっている貴明の顔を見て戦慄する。

 甘さも暖かさもみじんと感じられない、ぞっとするほど冷たい氷のような微笑み。それでもやはり天使のように彼は美しいのだ。背中が冷たく冷えて身体が小刻みに震え出した。

「あ……、たか……あき?」

「駄目だよ、僕の彼女になったんだから」

「でも」

「会社と僕は関係ない。卒業したから別れるなんて、僕は絶対に許さないからね」

 貴明がそのまま恵美の肩に顔を埋めた。恵美は貴明の肩越しに天井を見上げながら、今更のように動揺していた。

 貴明と自分とでは、違う意味で生きる世界が違うのではないか。

 御曹司とか姿形が問題なのではない。そういうものを超越した、本来の貴明の得体のしれない恐ろしさが問題なのではなかろうかと。そして自分は貴明の底知れぬ妖しい魅力に決して逆らえず、虜になって溺れるしかない……。

 怖い……と恵美は震えた。

「ねえ恵美、愛してるよ」

 貴明が恵美の頬に口づけながら甘くささやく。彼は何かが変わった。つい最近までなかった闇のようなものが感じられる。だがそれも彼の甘い魅力の一部になって恵美を甘く蕩かせていく。

 今は逆らってはならないと恵美は思う。

「私も……好きよ」

「好き?」

「うん、愛してる……」

 再び熱い口づけを受けながら、恵美は心の蓋を閉めていった。

 それからまもなくして、恵美は隣の県のアパートに引っ越した。大学が近くにあるそのアパートはとても小綺麗で恵美は満足していた。

 貴明は卒業式の夜を最後にとても多忙になり、そのうえ恵美が遠くに移り住んだ為逢えなくなった。しかしメールや電話はしょっちゅう来て、恵美はそつなく対応していた。

 いつものように、夜遅くに電話してきた貴明が言う。

「愛してる、恵美」

「私も愛してるわ」

 恵美は貴明に夢中だというような声を出す。これでいいのだ。こうやって逢えなくなっていけば、電話もメールも少なくなるだろう。

 そしてだんだんと遠ざかっていけばいい。

 自分は貴明にはふさわしくない。早くそれに貴明が気づいてくれればと恵美は思う。恋が始まったばかりの今ならばそんなに傷つかない、今のうちならばあっさり別れる事ができる。

 貴明はマンションの部屋のベッドでごろりと寝転がり、ベッドランプだけの明かりの中でスマートフォンをそっと置いた。

「……気づいてないと思ってるの? 恵美」

 恵美は別れたがっている。愛しているという声には真実の響きはあるが、熱がない。

「僕からは逃げられないよ。君にはとても残念な事だけれどね」

 天使のように微笑んでスマートフォンを突き、貴明は美しい茶色の目を妖しく煌めかせる。

「愛してるよ、君だけを」 

(天の園 地の楽園 第1部 終わり、第2部へ続く) 

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