天の園 地の楽園 第2部 第01話

 そこは狭いワンルームで、明らかに単身者が住むに適したアパートだった。近くに大学があり、そこへ通う学生を目当てに立てられたアパートやマンションがあたりに点在していて、そのアパートもその一つだった。
「……ただいま、って言っても誰も居ないのよね」
 恵美は小さく微笑み、ドアを閉めて鍵をかけ、ロックした。
 部屋の中に物は少なくとてもすっきりしていた。かといって殺風景なわけではない。花が花瓶にいけられていたり、かわいい雑貨がそこかしこに飾られていて、ほっとするような空間が広がっている。
 手を洗ってエプロンをつけた恵美は、自分のためだけの夕食を用意する。つい最近まで正人の家族と同居していたので食事の用意がとても楽しかったのだが、今では自分の分しかつくらないので、その楽しみは半減していた。それでも恵美は料理するのが好きだったので、それなりに工夫を凝らして楽しんでいた。
 春キャベツのコンソメスープは母親が好きだった。ポークピカタは父親が好きだった。青紫蘇を混ぜた特製ドレッシングは、正人の母に教えてもらった……。
 料理の一つ一つがやさしい思い出に繋がっていて、それが恵美の孤独を紛らわせてくれる。
 四月に始まった大学生活は全て始めてづくしで最初は戸惑ったが、すぐに友達は出来たし、講義にもついていけそうだった。サークルは勧誘に最初に捕まった歴史サークルに入った。バイトを始めてしまったため、ゼミには入らなかった。どちらにしろ学年が上がったらさらに目標がはっきりしてくるだろうから、その時入るかどうかを選べば良いだろうと恵美は暢気に考えていた。
 食事をしていると、テーブルの上の携帯がメールの着信を告げ、その着信音に恵美は顔を曇らせた。本来物事を明るく考える恵美だったが、どうしても明るく考えられない事もある。  Time 20XX/ 4/20 13:47
 From 佐藤貴明
 Sub 元気にしてる?
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 最近ちっとも電話に出てくれないね。
 メールも返事がないから寂しい。
 一度そちらに行きたいんだけど、住所を教えて。

 大学の入学式の前の日、電話で別れ話をした。大企業の御曹司の貴明と、普通のその辺の家の恵美では明らかに社会的地位が違うし、住んでいる世界が違うからつきあうのは止めようと。もちろん貴明の事は好きだが、もう高校生ではないから子供のように好きだけでは付き合えないと。だが電話の向こうの貴明は認めなかった。
『家なんて関係ない。絶対に別れない』
『関係あるの。お願いだからわかって』
『昨日まで愛してるって言ってて、今日いきなり別れるなんておかしい』
『……嫌いだから別れるんじゃないの。お互いのためにならないから……。貴明にはもっとふさわしい女の人がいるわ。私みたいなのじゃ駄目なの』
『それを決めるのは僕だ。他人じゃない!』
 王者の威圧感すら漂う最後の言葉は、恵美にまた恐怖を抱かせた。やっぱり貴明は自分とは違う女性と恋したほうが良い。相手の言葉に萎縮してしまう関係では自分は振り回されてしまうし、貴明は暴走して道を外しかねない。
『とにかく別れるわ。電話もメールも出ないから』
『恵美!』
 卑怯なやり方だとは重々承知していた。しかし直接逢ったりしたら決心は鈍るだろうし、強引な貴明に流されるのがわかりきっている。こうするしかなかった。

「…………どうしたらわかってもらえるのかしら」
 ただの友達ならおそらくつきあえる。周囲も渋い顔をしながらも許してくれるだろう。貴明が嫌いではないだけに恵美は当惑していた。貴明は自分の家族の事をいつも話してはくれなかったが、あの家賃が一ヶ月百万程するマンションに住んでいる事から相当な資産があると予測は付くし、高校の噂では、実家はお城の様な豪邸で、母親が外国の貴族の家系だと聞いていた。そんな血統書つきの御曹司と、両親が居ない上、何も持っていない平凡顔の自分ではとてもつりあいそうもない。
 しかし、それ以上にあの美貌と強引さが最近は恐ろしい。
 最初はわがままなだけだと思っていたが、最後に逢った日に見せたあの冷たい微笑が忘れられない。あの微笑を思い出すたびに恵美の心は冷たくなって、いいようのない恐怖に襲われてしまうのだ。それでいてむせかえるように甘い貴明の熱にがんじがらめになる自分も怖い。
 とにかく甘美で、それでいて猛毒の様な恋なのだ。淡い初恋しか経験していない恵美には、佐藤貴明という男は手に余りすぎる。
 着信履歴とメールを削除し、恵美はため息をつきながら携帯端末を閉じた。地道かつ消極的な意思表示だが続けるしかない。そのうち貴明もあきらめてくれるだろう。貴明のマンションから恵美のアパートまでは高速で一時間かかる距離だし、もうひと月近く会っていない。貴明も東京の大学と会社の秘書のバイトで多忙を極めているし、恵美も大学とバイトで明け暮れている毎日なので、この調子で行けば自然消滅するだろう。
 ひとりきりの食事が終わると、恵美はコーヒーを淹れてテレビをつけた。

 翌日、講義を終えた恵美は大学の門の前近くまで歩いてきて、ぎくりと足を止めた。遠目にも姿かたちに見覚えのある人間が、帽子を被って門に凭れている。
 隣を歩いていた友人の美樹が言った。
「うわ。すっごい美形」
 恵美はそのままきびすを返した。帰ろうとしていたのにいきなり恵美が反対方向に行くので、美樹が追いかけてきた。
「どーしたのよ? 忘れ物?」
「う……ん。悪いけどちょっと先に帰っててくれる?」
 恵美は不思議そうにしている美樹を残し、そのまま大学内にあるカフェに入った。とりあえず貴明が諦めて帰るまで、ここで時間を潰すしかないだろう。とはいえ、大学までやってくるくらいだからそう簡単に帰ってくるとは思えない。注文したアメリカンを飲んでいるところへ、携帯端末が着信した。当然相手は貴明だ。出るべきか、電源を切るべきか悩んだ末、恵美は仕方なく通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『貴明だけど、どうして学校に戻ったの?』
 どうやらしっかりばれていたらしい。恵美はごくりと唾を飲み込んだ。
「忘れ物……した、から」
『それにしては遅いよ。美樹って人に聞いたよ』
 内心で恵美は舌打ちした。おそらく美樹がペラペラ話してしまったに違いない。貴明が誘導尋問が上手だった事を思い出す。おそらく恵美が彼氏などいないと言っていた事も話してしまっただろう。
 コーヒーに自分のゆれる目が映った。しかし、ここで引き下がってはいけない。
「もう逢わないって言ったでしょう」
『僕は別れるとは言ってない』
 ああまたこの繰り返しだと恵美は思い、コーヒー代をテーブルに置いて席を立った。別に出口はあの門だけではない。他の門から出ればいいのだ。しかし、振り返った途端に誰かにぶつかってしまった。
「ごめんなさ……」
 言いかけて恵美は携帯を床に落とした。その携帯をかがんだ貴明がゆっくりと拾って閉じ、恵美に差し出した。恵美はやけになったようにそれを奪い取り、じっと見ている貴明に背を向けて歩き出した。もう駄目だ、負けてしまう。何故か恵美は泣きそうになりながら、そう思った。
「どこへ行くの恵美、そっち恵美のアパートじゃないだろ」
 大学の門を出て、わざと反対側に歩いていく恵美に貴明が言った。何もかも調べつくしていそうだなと恵美は頭に来た。
「こっちよ!」
「越してきて一ヶ月になろうとしているのに、迷子なんてありえないだろ」
「家には帰らないわ。ここでいいの」
 恵美が足を止めたのは、まだ夕方時でちらほらと子連れの母親達がいる、静かで広い公園だった。