天の園 地の楽園 第2部 第03話

 恵美はレストランの裏口から出た瞬間、やられたと思った。駐車場に駐車していたのが正人の車ではなく、貴明の紺色の外車だったからだ。足を止めた恵美に正人が言った。

「お前、別れ話ばっかしてるんだってな。あいつかなり悩んでるみたいだぜ」

「……正人には関係ないでしょ」

「あいつが何かひどい事したのか?」

「それはないけど……」

 貴明は、個人的な悩みを人に相談するようなタイプではない。恵美を引っ張り出したくて、正人に相談したに決まっていた。恵美は貴明と別れたいと正人に言っていない。一番二人を知っているのは正人だったし、幼馴染に相談する気恥ずかしさの方が勝っていた。しかし、やはり言っておくべきだったと恵美は後悔した。

 だがどう説明したら良かったのだろう。貴明のあの得体の知れない冷たさを……。

 車から貴明がうれしそうに降りてきた。

「恵美、今日は恵美の大好きなシフォンケーキ買ってきたよ」

「…………」

 無視してそのまま駐車場を出ようとした恵美だったが、その腕を貴明がやんわりと掴んで耳元に囁いた。

「正人、今日は徹夜明けだって。あんまり心配させるもんじゃないよ」

「だったら帰りなさいよ。別れると言った筈よ」

「それ、正人の前で言える?」

 卑怯者! と恵美は貴明を睨んだ。二人の後ろで正人が心配そうにこちらを伺っているのが気配でわかり、それ以上は恵美も強い態度に出られなかった。誰も頼る人間が居ない今、まさしく正人が恵美の最大の弱点だった。精神的な支えであり家族の様な存在である正人を、恵美はとても大事に思っている……。

 立ち止まったまま動かない二人に、正人が言った。

「おい、取りあえず恵美のアパートに行こう?」

「ちょっと、なんで私のアパートなの!」

「だって俺んち男子寮だし……」

「だからって」

「お前は佐藤の彼女だろ。意地悪しないで住所ぐらい教えてやれよ」

「でも」

 恵美達が車の通路を塞いでいたので、駐車場に入ってきた車がクラクションをけたたましく鳴らした。どうしようかと迷っている間に、恵美は貴明に腕を引っ張られて助手席に押し込まれてしまい、気づいた時にはもう車が発進していた。正人が駐車場で手を振っているのが、バックミラーに見える。

「……家は教えないわよ」

「別に構わないさ、このまま僕のマンションに行きたいのならね」

「そっちもお断り」

「じゃあホテルに行く? 僕は別にかまわないよ、初めての相手は恵美が良いし」

 にんまりと微笑む貴明に恵美は腹を立てたが、もう後の祭りだ。ホテルなど冗談ではないので、恵美は仕方なくアパートの住所を言った。しかし言わなくてもそちらへ向かっていた事から、貴明が知っていて言わせたのだと察しがつく。結局こうなるのかと恵美はがっくりとした。

(どうしよう)

 ちょっと情けを見せてつきあったりしたら、相手は死んでもあんたを離さないよと言った公子の言葉を思い出し、恵美は途方にくれた。もっとつっぱねたほうが良かったのだろうか。

「どうして正人は一緒に来ないの?」

「馬に蹴られるような人間じゃないだろ、あいつは」

「家族なのに」

「初恋の人だったよね」

 貴明の声の温度が下がり、恵美は首を横に振った。

「……もう、お兄さんとしか思えないわ」

「どうだか。だったらなんで別れたいなんて言うのかな」

 車は駅前にあるアパート近くのコインパーキングに止まり、恵美は貴明の前を歩いた。恵美の知り合いは誰一人として通りかからず、アパートの前にあっさり着いてしまった。

 階段を昇って三階の角部屋に着いた恵美は、鍵を出さずに貴明に振り向いた。

「ここまでで十分でしょう?」

 困ったように貴明が笑った。

「……強情だな恵美は」

「当然よ」

 二人がドアの前で言いあいをしていると、誰かが階段を昇ってくる足音がした。歩いてきたのは隣の部屋のキャバ嬢で、今日も男受けするミニ丈のミントブルーのスカートと派手な化粧をしている。しょっちゅう男を連れ込んでいる彼女が、恵美は理解できなくてとても苦手だった。夜にいたしている声まで時々聞こえてくるのだから……。

 キャバ嬢がちらりと恵美達を見た。

「あら、こんにちは」

「……こ、こんにちは」

 つきあいたくない人間に挨拶をされ、恵美は早く部屋の中に逃げ込みたくなった。貴明が居るのを忘れ、大慌てでバッグから鍵を出してドアを開けてしまう。部屋に駆け込んで、初めてとんでもないミスを犯した自分に気づいた。ばたんと音をたててドアが閉まる。

「やあねえ逃げなくてもいいのに……」

 外でキャバ嬢が言う声が聞こえた。目の前に見えるのは、ドアを閉めて鍵を掛けている貴明の後姿だけだ。

 どうしたものかと突っ立っている恵美に、貴明がにこりと笑って振り向いた。

「降参して。僕を部屋に入れたんだから」

「友達としてならいいわ」

「仕方ないな」

 どうにもならないと諦めた恵美は、靴を脱いで部屋に上がった。せまい部屋の壁のフックにバッグをかけて、入ってきた貴明にラグの上の座布団を勧めた。大人しく座った貴明に恵美は安心し、小さなキッチンの冷蔵庫から麦茶を取り出して二つのグラスに注いだ。そして貴明の前のミニテーブルにグラスを置き、恵美はグラスを持ったまま部屋の隅の机の椅子に座った。

 隣のキャバ嬢の部屋に誰か入ったのか、にぎやかに騒ぐ声が壁越しに聞こえる。いつもはうっとうしくて嫌なのだが、今日はありがたい。それにしても、貴明がじっと自分を見ているのが気になる。

「……何よ」

「恵美、また綺麗になったね」

 お茶を吹きそうになり、恵美はグラスを落とす前に慌てて机の上に置いた。貴明はいつもこうなのだ。普通の男なら口に出来ない気障な台詞をあっさり口にする。アメリカ帰りだからだろうか。しかしいくらハリウッドの俳優が気障っても、アメリカ人が皆そうとは限らない。

「口がうまくなったんじゃない? 会社に綺麗なお姉さんが沢山居るものね」

「妬いてくれるの? うれしいな」

「妬いてなんかない」

 何もかも貴明の思い通りに事が運んでいる気がする。とにかく静まり返るのが嫌で、恵美は音を求めてテレビをつけた。今の時間帯はくだらないバラエティが多いのでいつもは観ないのだが、このさいそんな贅沢は言えない。

 意識的にテレビを観ている恵美に、貴明がにんまり微笑んだ。

 

 深夜、実家に戻った貴明を一人の若いメイドが出迎えた。

 貴明の実家の佐藤邸はホテルの様な規模の豪邸で、彼の家族だけではなく、佐藤グループの社員達まで住んでいたりする。当然人手が全く足りないので、ホテル並みに使用人が居た。プライベートが無い様に思われるが、佐藤の親族が住んでいる一角は完全に隔離されており、限られた使用人しか入れないようになっていた。

「おかえりなさいませ、貴明様」

「うん……、あすかも律儀に待っていなくて良いんだよ。仕事だからって」

 機嫌がいい貴明からネクタイや上着を受け取り、貴明と同じ年のあすかが甲斐甲斐しく世話をする。貴明が部屋に備え付けになっているバスルームに入っている間、彼女は夜食の準備をした。しばらく経ってタオルで髪を拭きながら出てきた貴明は、テーブルについて夜食に手を伸ばしながら、給仕をしてくれるあすかに微笑んだ。

「今日、なんとか恵美と仲直りできたよ」

「よろしかったですね」

 心底うれしそうに言うあすかに貴明はうなずき、彼女がよそってくれたスープを口に運んだ。そして夜食を全て食べ終えると、同じテーブルの上に積まれているファイルに目を通し始めた。恵美には秘書はバイトなどと言っているが、実際は跡継ぎ教育の様なもので、断じて軽いバイト感覚で勤める事などできない。義父である社長のスケジュールを全て頭に叩き込み、今日の取引内容を見ながら経営学を覚えていく……。

 読み終わってファイルを閉じた貴明に、あすかが封筒を差し出した。

「旦那様がこれを貴明様に見ていただくようにと」

 貴明は顔を顰めた。しぶしぶ中身を取り出すと、やはりそれはお見合い写真のアルバムだった。高校を卒業してから降る様にこの手の縁談話が舞い込んできて、貴明は甚だ迷惑だった。

「……どれもこれもプライドが高そうだな。この女もおとなしそうにみせかけてるけど、中身はとんでもなさそう」

 一瞬だけ写真を見て、貴明はすぐにアルバムを封筒に戻してあすかに突き返した。

「でも親父に恵美の事がばれるとまずいからなあ……」

「そうですね」

 しばらく頬杖をついて考え込んでいた貴明は、はっとしてあすかに言った。

「夜晩くまでごめん。君はもう下がって」

「……はい。おやすみなさいませ」

 あすかは丁寧に頭を下げた後、静かに部屋を出て行った。その目には貴明に対する思慕がありありと浮かんでいたが、いつも貴明はそれに気がつかない振りをしていた。自分は恵美を愛しているのだから……。

 大学に入った恵美は、相変わらず無防備に笑顔を振りまいているようだ。恵美の友達だと言う美樹という女から聞いた話は、貴明を焦らせるのに十分だった。恵美が気づいていないだけで、僅かひと月の間に男の影がいくつも彼女に近づいているのだ。しかし恵美は貴明を拒絶する。強引に突っ切っても良かったが、それでは恵美が可哀想過ぎてどうしたらいいものかと悩んでいたところへ、正人から連絡が入った。どうやら今まで恵美が無事だったのは、正人が目を光らせていたからなようだ……。

 鞄に入れておいたスマートフォンにメールが着信したので開けてみると、先ほど送ったメールに恵美からの返信が来ていた。久しぶりの返信に貴明の心に温かなものが広がった。

 今日も恵美は貴明を跳ねつけていたが、貴明が何もしないとわかると最後には打ち解けてくれた。それでもやはり最後まで「友達のままで」のスタンスを崩してはくれない。しかし、メールに返信してくれるようになったのは進歩だ。

「……釣り合いの取れたお嬢様……ね」

 恵美の指摘は正しい。母も義父も会社に有利な家柄の令嬢との結婚を、強く希望している。恵美と交際しているのがばれたら、猛反対されるに決まっていた。それでも恵美の前ではどんな令嬢もつまらない女に下がってしまうのだから、仕方が無い。

 母と義父のように、会社の為に愛のない結婚をしてお互い好き放題するという手もあるが、恵美を日陰者になどしたくない。とはいえ、遊び放題の義父に比べて、母は死んだ夫以外には興味ないらしく男の影など全くないが。

 義父はまだ三十歳で男盛りだ。自分と一回り違うだけの男など兄にしか見えない。よく母も八歳も年下の結婚できたものだ。会社の利益の為という冷酷さがひどく母から温かさを奪ってしまっており、社員達も取引相手も怖い女だと思っているようだった。

 面倒くさい境遇に生まれてしまったなと貴明は思う。正人の様な普通の家庭に生まれていたなら、恵美はきっと自分にしがみついてくれるだろうに……。そんなふうに思っている貴明は、恵美が家柄よりも貴明の本性の方に怯えて別れようとしている事実に全く気づいていなかった。そうそう冷酷な自分は現われないし、恵美にそんな態度で接するわけがないからだ。

「悩んでも仕方ない。やる事をやろうか」

 大学の勉強も大変だが、一方で仕事を覚えるのも大変で多忙を極めている貴明は、恵美のために消費した時間を、睡眠時間を短縮して埋め合わせをするしかなく、今晩も徹夜だなと思いながら机に向かった。

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