天の園 地の楽園 第2部 第04話

 結局もとさやのようになってしまったが、恵美は絶対に甘い雰囲気にならないように努力をしている。しっとりとした空気が流れてもわざと話題を変え、美樹と居るような軽い雰囲気に戻してしまう。友達ならいいと言った恵美に貴明はうなずきはしたが、隙あらばより近くに入り込もうとするので油断ならない。

「あんな超美形御曹司なのに、一体何が不服なのよ。佐藤グループの跡継ぎでしょう? どんだけの資産持ってると思うの、玉の輿よ玉の輿!」

と、美樹は言うが、恵美は面食いではないしお金はそこそこあればいい。とにかく付き合うのなら、正人の様な普通の家庭の男が良い。貴明は結婚など考えていない口ぶりだが、真面目すぎる行動や、隙あらば接近してくるのを見るといずれはそういう話が出てきそうだと思う。とてもではないが、自分は大企業の重みになど耐えられそうもない。

 サークルの部室で、恵美は本のページをめくった。

 今日は勧誘されて入ったサークル……、歴史研究会の活動のため、恵美は日本の城を調べていた。他の大学との合同サークルなので、二十名ほどの男女が入り乱れて話に花を咲かせている。ひょっとして出会い目的なのかと疑いたくなるメンバーも居て、一緒に入った美樹などは特にその傾向が強い。熱心だなとあきれ返るばかりだ。

「小川さんは今度の歴史ツアー、誰とペアを組むの?」

 リーダーの佐野が声をかけてきたので、恵美は顔を上げた。美樹がめぼしをつけた男子とペアを組んでしまい、恵美はこのさい単独でも構わないかと思っていた。デート感覚で歴史建造物は見れないし、同じような熱心さを持っているのはリーダーの佐野くらいだ。

「いえ、今は特に誰と組むとは……」

 ゴールデンウィークに、サークルの旅行で滋賀の彦根へ行くのだ。オンシーズンによくホテルが取れたなと思うが、出資してくれる人物が何人か居るらしい。

「そうなの? そうそう、星京大学がサークルに入れて欲しいって言ってきてさ、そっから何人か入るから」

「そうなんですか」

 星京大学はかなり難関の大学だ。偏差値が七十くらいないと入れない。恵美は自分の偏差値を思い出して、そんな賢そうな人達と話が合うのか謎に思った。星京を落ちてこの大学に入った佐野は面白くなさそうで、ため息をつきながら言った。

「笹川教授の教え子が星京の出身で、そのつながりらしいよ」

「そういえば、笹川教授はそこからこちらにいらしたんでしたよね」

 笹川教授はサークルの指導を担当している定年間近の穏やかな人柄の男で、恵美はその人柄に惹かれてこのサークルに入った。人望がある教授なので、卒業してからもやってくる卒業生が絶えず、教授の歴史研究に出資する者も多いらしい。

「このサークルに出資してくださる方って、どんな方なんでしょう」

「さあ? 物好きだよな。あ、その本の三巻が教授の部屋にあるから取ってきてくんない?」

「はい」

 佐野は二週間前に恵美に告白してきたのだが、誰とも付き合えないと断ってから面倒な用事を言いつけるようになり、なんだか冷たい。恵美はいささか暗い気分で部室を出た。

 教授の部屋がある三階はとても静かだった。恵美は一番端にある笹川の部屋のドアを何度かノックしたが、返事がない。しかし鍵はかかっていないのでゼミやサークルのメンバーなど誰かしらいると思い、静かにドアを開けた。

「誰だ」

 入ってすぐの応接セットに、あきらかに部外者の男が我が物顔で煙草を吸っていて、その手に恵美の目当ての本があった。この男以外誰も居ないようだ……。

「……教授ならいないが」

「え……と」

「ここの学生か」

 男は切れ長の目を細め、恵美を頭からつま先まで視線で一撫でした。こんなに鋭い眼光を持つ男は、恵美が知る限り貴明しか居ない。しかし、貴明ですらこれだけの帝王然とした雰囲気は持っていない。きっちりとブランドスーツを着こなしている姿は、素晴らしい美男子ぶりといえた。

「あの、私……」

「何だ?」

 艶を帯びた低い声は、その通りにしなければと思わせてしまう響きがあったが、恵美はあんまりにもびっくりしたせいで、その通りにしようとしてもできないまま足を床に縫いとめられてしまった。まるで男の存在が恵美をその場に釘つけにしてしまったような、そんな感覚だった。

 男は苦笑しながら本を閉じて煙草を灰皿で押し消し、ゆっくりと立ち上がった。

「そんなに怖がらなくてもいい。私は教授の教え子で、たまたま用があったから来ただけだ。講義中だとはわかっていたんだが……」

 恵美が怖がっていると、男は勘違いしているらしい。

「あの、その本」

「この本に用があったのか。すまなかったな」

「……ありがとうございます」

 恵美が男から本を受け取って頭を下げた時、講義を終えた笹川が部屋に入ってきた。

「ん? 小川君何をそんな所に突っ立っているのかね……」

 笹川は男に気づき、これはこれはと相好を崩した。

「圭吾君、わざわざ来てくれたのか……いつもありがとう。留守にしていて悪かったね」

「いえ、時間が出来たので」

「そうかね。小川君、ラッキーだったね。この圭吾君がサークルに出資してくれているんだよ」

「……ありがとうございます」

 ラッキーなのかどうかはわからないが、日頃からサークルに出資してくれたり、今回の歴史ツアーの料金を無料にしてくれた相手だ。とても若そうなのに大金持ちなのかと思いながら、恵美は再び頭を下げて礼を述べた。そういえば貴明の家も桁違いのお金持ちだった。その類だろう。

 二人がソファに座って話を始めたので、恵美は二人にコーヒーを淹れた。静かにソーサーを置くと、圭吾が礼を言いながらじっと自分を見つめるので、面食いではなかったはずなのに恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。

「……小川恵美というのか」

 胸のサークルメンバーのプレートを見ながら圭吾が言った。黙ってうなずいた恵美に、教授がからかうような口ぶりで注意した。

「小川君気をつけたまえ。彼はとても女に手が早いからね。大学時代はとても人気があって、そりゃあ物凄いものだったそうだよ」

「教授、その話は」

「けん制のつもりで言っているのだよ。僅か十八歳で結婚した君なのに遊び放題。よく細君が文句を言わないものだ」

「教授」

 ため息混じりに言った圭吾の声は、悲哀とも呆れとも取れるようなものだった。恵美の目にはそんな嫌な男には見えなかったが、確かに圭吾の全身から溢れ出る男性特有の雰囲気には、強く惹かれるものがある。特に漆黒の目などは見つめられたら視線をはずすのに苦労しそうだ。このまま居たら部室に帰れなくなりそうだと思い、恵美は教授の部屋を早々に退散した。

「はあ……」

 部屋を出た途端、何故か身体中の力が抜けて座り込んでしまいそうになる。息を深く吸い込んで、意思に関係なく震える身体を抱きしめた恵美の脳裏に浮かんでくるのは、やはり圭吾の端正な顔立ちだった。

(圭吾さん……か。上の名前はなんて言うのかな)

 ひどく印象に残る男だ。恵美はその余韻にひたりながら部室に戻り、その余韻が吹き飛ぶ衝撃を受けた。

「あー、来た来た恵美。彼氏が来たわよ」

 美樹がにやにや笑いながら呆然としている恵美に言った。周りが冷やかす中、恵美はなんでこんなところに貴明が居るのかわからなくて、頭の中が真っ白けだ。サークルに入っているとか、こっちに来るとか、そんな話は全く聞いていなかった。説明を求めて佐野を見ると、佐野はそっけなく言った。

「今日は、歴史ツアーの計画を立てる日だからね。だから遠いけど打ち合わせの為に、星京大学歴史研究会のリーダーである佐藤君に来てもらったんだよ」

「星京……リーダーって、貴明の大学って星京だったの!?」

 貴明が言ってなかったっけとふざけたものだから部室に笑い声が渦巻いたが、恵美はまったく笑えなかった。この徹底した秘密主義が嫌なのだ。貴明は驚くくらい恵美をよく知っている。恵美に嫌われそうな事、警戒されそうな事はなるべく口にしないのだ。

「佐藤君は小川さんの彼氏なの? 加藤(美樹)さんが言ってるけど」

 佐野の質問で、恵美の頭にさあっと血が上った。どういう事だそれは、約束が違う! 貴明は聞こえているくせに、同じ大学のメンバーと話をしている。否定しない辺りが腹が立つし、やりきれない。

「……恋人なんかじゃないです」

「やーねー。喧嘩しているだけでしょ? 仲直りしなって」

 嫌味でも冷やかしでもなく、美樹が本気で言っているのは表情からわかる。しかし恵美は納得がいかない。じわじわじわじわ、貴明の思うように自分の周りが塗り替えられていくのが許せない。恵美に視線を戻した貴明がひどくご機嫌そうで、それがさらに恵美の怒りに油を注いだ。

「恵美、ペアがいないんだってね……」

 乾いた音がそれに続いた。部室がしんと静まり返り、貴明の頬を張った恵美に視線が集中する。

「旅行に行かない私には関係ないわ! 勝手に行けば?」 

 自分の手提げ鞄を持って、恵美は部室を飛び出した。

(何よあれっ、何よっ)

 がんがんと自分の足音だけが廊下に響く中、恵美は先ほどの道順と逆を走っていた。教授館の向こうに一人になれそうな庭があるのでそこに行きたい。時々すれ違う学生が不思議そうに振り返るのがわかるが、気にしてなど居られないくらい顔はぐちゃぐちゃになっていて、涙が流れていた。

(貴明の馬鹿! いっつも突然すぎてわけわかんない。サークルだってもう止めるっ)

 猛然と走っていた恵美は、廊下の角で思い切り人にぶつかり、そのままぶつかった勢いでひっくり返って尻餅をついた。

「す……、すみませんっ」

 相手を見上げて、恵美の胸の音が高鳴った。

「いや、かまわない。お前こそ大丈夫か」

 そこに居たのは圭吾だった。

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