天の園 地の楽園 第2部 第12話

 貴明は歴史ツアーから開放されて東京へ戻ってきたが、マンションへは帰らず恵美がいる佐藤邸へ行った。しかし、執事はそんな娘は知らないとはぐらかし、メイド長も愛人が屋敷へ住むなどとんでもないとはぐらかした。ようするに恵美の存在は世間一般から隔離されてしまったのだ。

 メイド長を追い出した貴明は、深いため息をついて窓際のレースのカーテンを開けた。貴明は圭吾という人間をよく知っている。あの男なら自分への嫌がらせの為に絶対に恵美を自分から離さないはずだ。そしてそれとなく見せ付けて意地悪く貴明の反応を見ているに違いない。

 大嫌いなお互いが、一番お互いの事を知っていた。

 ノックの音と共にあすかが飲み物をトレイに載せて部屋に入ってきた。その申し訳なさが垣間見える目つきで、貴明はあすかが恵美の事を告げた張本人である事を悟った。

「……お前が言ったのか」

 あすかは、貴明の鋭い視線に射抜かれて竦みあがっていた。だがこの日が来るのは予測していたので、取り乱したりせずハッキリと頷いた。

「はい、私が恵美様の事を奥様に申し上げました」

「何故だ」

「……それは言えません」

「だろうな、お前はそういう女だ」

 憎しみを込めて言われたならまだあすかにも救いがあった。だが、貴明は哀れみの含みすら持たせてため息をつく。窓際にもたれた貴明は、もう顔も見たくないとばかりに手をあすかに向けて払った。しかし、いつも言う事を聞くあすかが、今日は聞かなかった。

「貴明様。恵美様は……っ!」

「言わなくてもわかってるさ。恵美は親父の手に落ちた。愛人になって毎日遊ばれてるってんだろ?」

 言いにくい事をずばずばと言う貴明に、あすかは胸を突かれた。冷たいその美貌に温かみは一片も感じられない。数日前はあんなに幸せそうに恵美との幸せを語っていた男は、今は何も感じない男になってしまった。あの日、貴明が恵美のアパートから一泊して帰ってきた日、貴明が何も言わなくても恵美と結ばれた事をあすかは知った。うまく言えないのだが、「男」になった気がしたのだ。家の事情でナタリーの命令を断れないあすかは、その事を正直にナタリーに言った。かなりのためらいがあったのだが、その時はこんなひどい事件に発展するとは思ってもいなかった。そんな自分をひどく責めているあすかをわかっているから、貴明は責めない。

「……恵美はどこにいるんだ?」

「圭吾様の部屋です」

「…………」

 貴明はカーテンを静かに閉めた。やはり恵美の誘拐は明らかに自分に対する当てつけなのだ。こんなふうにならないようにと思っていたのに、恵美をやすやすと渡してしまった自分を殴りたい気分だ。

 あの夜、貴明が恵美がいない事に気づき、近くにいた笹川教授に恵美はどこに行ったのかと聞くと、彼は穏やかに笑って、サークルのメンバーの一人と自分の荷物を取りに行ったと言ったのだ。メンバーは女性だったので貴明は安心していたのだが、その女が一人で現われた時貴明は自分の失策を知った。そのメンバーは貴明が恵美はどこに言ったかと聞くと、自分は自分の忘れ物を取りに帰っただけだと言ったのである……。

 笹川を問い詰めると、彼は相変わらず穏やかに言った。

「彼女は君の義父さんと東京へ帰ったよ」

 貴明は軽蔑しきった目で笹川を見据えた。少し向こうでは、サークルのメンバーがにぎやかに話しながら北側の堀の周辺へ向かっていた。

「……教授は、一人の学生の人生を売ったのですね。ご自分の研究費の費用の為に」

「世の中、綺麗ごとでは済まない事もある。私も聖人じゃない、君もだ」

 この男も佐藤圭吾の犠牲者かと貴明は思った。しかし、この笹川のやった行為は恵美の信頼に対する手ひどい裏切りであり、大人として許される行為ではない。貴明はそれ以上は何も言わず、ツアー中ずっと笹川と口を聞かなかった。リーダーの佐野は不思議そうにしていたが、理由など言えるはずもなかった。皆、恵美は急用で先に帰ったというのを信じていたのだから……。

「……恵美は元気か?」

「わかりません。圭吾様のお部屋はさらに特定の人しか入れなくて。しかも誰が入っているかわからないようにされています」

「かわいそうに」

 貴明はうなだれ、恵美の不運を思った。やっと両親の事故から表向きは立ち直りかけたところだったのだ。それなのに今度は誘拐されて愛人生活とは。恵美はとても愛人などという穢れた境遇に耐えられるような精神は持ち合わせていない、とてつもない苦行のはずだった。

 なんとしてでも救い出してやらなければならない。貴明は恵美の為に決心をした。

「あすか」

「はい」

「どうしたらお前は僕だけの命令を聞く?」

「…………っ」

 レースのカーテン越しに見える部屋の外は、眩しいほどの光で溢れていた。ホテル仕様の佐藤邸には大勢の佐藤グループの従業員が寮として住んでいる。その一角に佐藤の親族が住むプライベートスペースがある。貴明は親族だったがほとんどマンションに住んでいたので、従業員と同じ領域に住んでいた。メイドたちもランクがあり、プライベート区域に立ち入る事ができるのは、ほんの一握りだった。あすかは入れない事もないのだろうが、まだ入社したばかりで堂々と入るのは不可能そうだ。

 だが、入ったとしても特に怪しまれない。

 貴明は恵美に対する後ろめたさを感じながらも、自分を好いているあすかの恋心を利用する決心をした。自分への愛がないとわかっていたとしても、あすかは貴明の表面上の優しさを望むのだろうと……。貴明があすかの滑らかな頬に優しく触れると、あすかは驚いて目をまん丸にするのと同時に頬を赤くさせた。その大きな黒い目がある種の期待に満ちているのを確認して、貴明の冷たい心が満足げに微笑んだ。

「僕をお前にあげたら、お前は僕の言う事が最優先になる?」

「……え? それ、は」

 細い腰をぐっと引き寄せられたあすかは、突然雰囲気が変わった貴明にどぎまぎしているようだ。

「何もナタリーの言う事を聞くなって言ってるんじゃないよ。ただ、恵美に関する僕の行動は僕の言うとおりに報告する事、わかるよね?」

「はい……」

 あすかに自分の顔を近づけて、貴明はさらにけぶるような天使の微笑を浮かべた。その魅力を貴明はよく知っている。

「なんとか恵美のいるところへ入って、恵美を連れ出せるようにするんだ。多分鍵が掛けられていると思うからそれを探して。そうそう……メイド長の弱みを握るのが一番てっとりばやいかもしれないね」

「貴明さ……っ」

 恋焦がれていた貴明に口付けられて、あすかの身体の熱が上がった。一旦唇を離した貴明は、息を乱しているあすかにダメ押しの一言を放つ。

「あすかがいて良かった。お前がいるから僕は幸せだ」

 その手は、あすかのメイド服の前ボタンをつぎつぎ外している。肌蹴た部分に貴明の手が侵入してゆっくりと背中を撫で、また貴明はキスをした。

「……あ、たか……ん……」

 ソファに倒れた二人は淫靡に触れ合いながら絡み合った。

「ねえあすか。僕とナタリーとどっちが大事?」

「もちろ……たかあき、さ……あんっ……あ、あん!」

 

 執拗に首筋を舐められたあすかは、こみ上げてくる快感に悶えながら言った。愛する貴明がようやく自分を抱いてくれる……それはあすかの夢だった。まさぐる貴明の唇も指も何もかもが愛おしい、それが偽物だとわかっていても、今だけは貴明は自分の物なのだから。

「大好きだよ、あすか……」

 甘い毒はてき面に効果を発揮し、あすかが夢中で貴明に抱きついた。くすくす笑いながら貴明はそのあすかを更に深く愛撫して、彼女をとりこにしていく。あすかの恵美を意識して伸ばした長い黒髪は、いやでも恵美を思い出させた。そうだ……あすかを恵美だと今は思えばいい。

(恵美……)

 貴明はあすかを組み敷きながら恵美を想い、彼女がどうか笑顔を忘れないようにと願った。圭吾と関係して本性を知った恵美の心が幸せを忘れないようにと。それはあすかを思いやっていないひどく身勝手なものだったが、恋というのはもともと身勝手なものなのかもしれなかった。

 午前中をあすかと過ごした貴明は、午後に出社した。秘書の仕事をしている貴明は跡継ぎとして常に圭吾の仕事ぶりを学び取る必要があった。今は秘書だが、そのうち各課を順に回る予定になっている。貴明が通るだけで女子社員たちはうれしそうにひそひそと話し合い、少しでも近づけないかと挨拶するのだが、恵美以外に興味のない貴明はいつもそっけなく笑うだけだった。氷の御曹司というあだ名までついている。

「おはようございます」

「おはようございます」

 貴明は室長に挨拶し、今日の圭吾の予定をすべてメモに記録し、必要な手配を頭に組み立ててから、改めて室長の確認を取る。圭吾も貴明と同じように午前はプライベートにしているらしかった。初老の室長は貴明に言った。

「一応の予定ですが、ひょっとすると午後も出社されないかもしれません」

「……そうですか」

 そりゃそうだろう。新しい玩具が手に入ったばかりなのだから。そう思いながらも貴明の氷の表情は変わらない。

「もし出社されない場合は、この水野コーポレーションの社長との会談は橋中専務になる予定です。もともと橋中専務が水野社長との会談の方をご希望でしたが、佐藤秘書はどう思われます?」

「あまりいいとは思えません。専務は常日頃から社長のやり方に不満をいだかれておいでですし」

「だからこそ……でしょう?」

「専務も社長もわかっておいでなのに、あえてされると?」

 ガス抜きかと貴明は思い、橋中専務の専属秘書の赤城秘書が外出から帰ってくるのを捕まえなければと思った。橋中専務は佐藤グループの前身の佐藤工務店になる前の橋中工務店の社長で、株を買い占めて乗っ取った佐藤ナタリーと圭吾を眼の敵にしている。一体何を企んでいるのやらと思ったが、まだ新米の貴明がどうこう言う事ではない。

(そう言えば……)

 滋賀のホテルで出会った公子の隣に居たのは、橋中専務の兄の長男ではなかったか。公子の家の工場は水野コーポレーション傘下の建築会社に住宅用の木材を納品している……。そして橋中専務は兄との仲が悪かった。

(そう言う事か)

 橋中専務をおとなしくさせるか追い出したい圭吾の意向を感じ、今日の午後、圭吾は出社しないだろうと判断した貴明は、自分の予定を変更して別の仕事を始めた。その貴明を室長は満足げに見やり、秘書室は少しのざわめきと共に時間が過ぎていった。

 とても近い場所にいるのに、恵美と貴明は逢えなくなってしまった。お互いを思っていてもそれを幾多の人幾多の壁が阻んでいる。

 まるで越えなければならない山がいくつも立ちはだかり、二人を引き離しているかのように見えるが、それは誰の前に現われる山であって、二人が特別に神に試されているわけではない……。

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