天の園 地の楽園 第2部 第14話

 残暑がまだ残る頃、圭吾が恵美を旅行に連れ出した。行き先は信州の蓼科で、圭吾のお気に入りの避暑地らしい。とはいえ恵美の気は晴れないまま、ぼんやりとキャデラックのガラス越しに流れる風景を眺めているだけだった。

 しかし、避暑に来たのに蓼科は残暑が厳しく、東京と大して暑さは変わらなかった。恵美は圭吾とホテルに入り静かなレストランで食事をしたが、またいつもの様に人々の好奇の視線を浴びた。

「佐藤圭吾氏よ」

「相変わらず素敵。……今回はずいぶんしょぼい子ね」

「そうか? 可愛いじゃないか」

「あれくらいごまんといるわ」

 また始まったお決まりの男と女のひそひそ話に、恵美はうんざりする。二メートル近い長身の美男子の圭吾に比べて、恵美は百五十センチに満たない身長の平凡女だ。傍目にはさぞ滑稽だろう。無理やり同行させられて嫌な視線を浴びるのはむかむかが募る。正直かなり馬鹿らしい。

 食べないと圭吾が不機嫌になるので、恵美は食事を無理やり口に押し込んだ。圭吾はとっくに食べ終えている。なんとか食べ終わって紅茶を飲もうとして砂糖壷を取り上げた恵美は、圭吾の背後に現われた人間を見て、壷をテーブルの上に落としてしまった。砂糖壷はガチャンと音を立ててテーブルの上に落ち、砂糖が零れた。

「御くつろぎの所を失礼します。社長、児玉建設の社長が挨拶をしたいとおっしゃっていますが、いかがされますか?」

 ダークブラウンのスーツで現われたのは、なんと貴明だった。しかし貴明は恵美を視界に入れても、表情は氷のように冷たいままだった。

「構わない。十五時から十七時の間にセッティングしてくれ」

「わかりました。場所はこちらのホテルでよろしいのですか?」

「ああ。但し別の部屋を」

「はい」

 きっちりとお辞儀をして貴明はレストランを出て行った。唖然としている恵美の横で、ウェイターがテーブルを掃除して新しい紅茶とセットを手際よく用意した。圭吾は恵美を見てにやりと笑う。

「……どうだった? 久しぶりに見る恋人は」

「最低だわ、あなた」

 恵美は怒りをお腹にためて立ち上がった。圭吾の顔を平手打ちしたかったがどうせかわされてしまうだろうと思い、そのままレストランを出た。あとから直ぐに圭吾が追いかけてきて恵美の腕を掴み、エレベーターに押し込んだ。恵美は圭吾を睨んだが切れ長の目は余裕を多分に含んでおり、恵美程度の睨みでは動じない。宿泊する部屋がある階に着くと、恵美は腕を振り払おうとしたがかえって強く握り返され、その階の奥にあるスイートの部屋まで引きずられた。

「はな……離して!」

「黙れ」

「どういうつもりよ! どうして貴明がここにいるの」

「今回の旅行に必要だっただけだ」

 恵美は部屋に連れ込まれた後圭吾の手を振り切り、窓際まで歩いてカーテンを思い切り開けた。目も覚めるような新緑の美しい風景が広がったが、その中を歩いていく人影にカーテンを開けなければ良かったと後悔した。貴明が見知らぬ美人と歩いていて、先ほどまでの氷の表情がうそかと思えるようなやさしい笑顔だったのだ。

(だれ、あれは)

 指先がすうっと冷えていく心地がする。明らかにどこかのお嬢様という感じの女性だ。遠目にも品があるように見え、貴明と並んでも見劣りしない。

「どうした?」

 急に黙り込んだ恵美に圭吾が言った。

「別に」

 恵美は圭吾にショックを受けているところを見られたくなかったので、硬い表情のままそばにあった椅子に座った。そして本を読もうとして、ここは宿泊する部屋ではない事に気づいた。

「勝手に入って大丈夫なの? ここは誰のお部屋?」

「ん? ああ……念のためにいつも二部屋借りているから、今回もそのようにしたんだろう。お前がいるというのにな」

「女と寝る専用の部屋って事ね。別にかまわないわよ、呼べば?」

 圭吾は咥えていた煙草を離し、含み笑いをした。

「そうだな、お前が子供を孕んだらそうしてもかまわない」

 恐ろしい言葉に、全身が凍りつく心地がする。女好きがする微笑を浮かべたまま圭吾が近づいてきて、恵美の頤を人差し指でくいと上げる。

「私の子をお前が生んだら……、あの貴明はどうするだろうな?」

「あなた、狂ってるわ」

 圭吾の指に口紅が塗られていない唇をゆっくりと撫でられていく。恵美は化粧を許されていなかった。

「狂っているのは貴明親子だ。特にナタリーに比べたら、私の所業など子供の手遊び程度のかわいいものだ」

「私をこのように監禁する事が?」

「ふ……、世間から見たら私が明らかに悪人だとわかるだろう? その程度の悪人ぶりだ。だがあの女は自分をさも立派な会長様に見せかけて、世間をだましている、悪人のレベルで言ったらあちらの方がはるかに上だ」

 唇を撫でていた指が頬に移った。圭吾の漆黒の目に、得体の知れない冷たさが侵食していた。

「ナタリーはな……、あの女はな、結婚式をあげた夜に自分を抱くのは許さないと言ったんだ。それまでこちらの気を持たせておいてな」

「それは……」

 どういう事だ。

「夫を亡くした女が、有力なコネをいくつも持っている若僧を誘惑したんだ。若僧は施設育ちだが頭と容姿が良かったから、金持ちの女を幾人も利用して海外の高校や大学をスキップで進級し、十九歳で大学を卒業した。ただの偶然で目の前に現れた金の卵を逃すまいとあの女は若僧を誘惑し、若僧は女になれているくせにあっさりだまされた。あの女のほうが上手の悪党だったというわけだ」

「…………」

「あの女の生きがいは自社の発展と、息子がその会社を経営する事だ。私の幸せなどこれっぽちもない」

 指が離れ、圭吾は煙草に火をつけた。紫煙がゆっくりと立ち上り、恵美はその向こうにいる圭吾が口を開くのを待った。

「それでも馬鹿な若僧はいつかは振り向いてくれると信じて、がむしゃらに仕事をした。会社はみるみる大きくなって大手ゼネコンに加えられられるほどになったが、女はますます冷たくなっていく……。耐え切れずにある日想いを吐露した若僧に女は言った。ほかの女に手を出してもいいし、子供を生ませてもかまわないと言っているのに、いったい何が不満だ。金も好きなように使えばいい。ただし自分と息子にマイナスになるような付き合いはするなと……」

「ひどい……」

 煙草の灰が落ちかけ、圭吾は灰皿に灰を軽く落とした。恵美の心の動きを察したのか、圭吾が自嘲気味に笑った。

「そうか? まあ、悪いやつの上にはさらに悪いやつがいるものだ。そしてお前のように犠牲になるやつもいる。可哀想にな……、本妻のあてつけのために憎らしい男の子供を孕まねばならんとは」

 作り話めかせて圭吾は話しているが、真実の香りが極めて強かった。ああそうか……だから自分はこのような目にあっているのだ。恵美はナタリーという圭吾の本妻に会った事はないが、おそらく貴明に似て美しい女性であるのは察しがつく。

「……じゃあ、子供を生んだら私は自由なの?」

 恵美の問いに圭吾は答えず、黙って恵美を抱き寄せた。煙草を灰皿に押し消し、いつもと同じように髪をするすると梳いて口付けた。

「貴明が三十五歳になったら私は社長職をあいつに譲る事になっている。おそらく名誉会長とかいう類の閑職にまわされてしまうのだろうな」

「そんなのほかの社員が納得するわけないじゃない」

「彼女の方針で会社は回っている……、表向きは私だがな。あがいでも無駄だ」

 さびしそうに言う圭吾に恵美は少しだけ同情したが、そんな話を聞かされたところでこの男にされているひどさは変わらない。それに圭吾は同情をひきたくて話しているのではなく、自分の立場を話して、恵美の立ち位置を知らせたいだけのようだ。

「肝が小さい男で安心したか?」

 帝王のようなオーラを放ったまま、圭吾が恵美の目を覗き込んだ。恵美は安心どころかますます佐藤圭吾という人間がわからなくなった。圭吾が自分について話したのは今回が初めてだ。だがそれはほんの一部分に過ぎず、水面からわずかに出ている氷山の一角に過ぎない。しかもそれは夜の灯台の明かりが一瞬だけ照らし出したようなもので、圭吾の恵美に対する感情は何一つわからないのだ。

 ただひとつわかったのは、ナタリーに対する圭吾の報われない深い愛だ。深く愛しているのにも関わらず振り向いてもらえず、それを悲しみ、憎しみ、復讐のために恵美を利用している……。

「そんな事して誰が幸せになれるの……?」

 恵美が悲しそうに言うと、圭吾は髪を梳く手を止めた。

「私はみんな幸せになるためにがんばるんだと思ってた。でも、貴方もナタリーさんも、不幸になるために生きているようにしか、見えないわ」

「…………」

 いつも恵美の言葉に容赦ない反論を叩きつけていた男が、初めて絶句した。恵美はじっと圭吾を見つめた。圭吾の漆黒の目の中で自分が揺れているのが見える。

「貴方の幸せを願う人はいなかったのかしら。絶対いたと思う、そうでないと社長職なんて絶対無理。きっと、公子さんもあなたを愛していたと思うわ」

「自分を貶めた女をかばうのか」

「かばってないわ。ただそう思うだけ……」

 圭吾のスマートフォンが鳴り、恵美は口を噤んだ。なんだか身体が熱っぽい。おそらく疲れているのだろう。恵美は圭吾の腕からすり抜けてベッドに入った。

 私生活はめちゃくちゃだが、公人としての圭吾はとても優秀で人に認められている。それは数少ない外出のたびに出会う人々の視線でわかる。普通、愛人などをとっかえひっかえしていたら軽蔑されまくっているはずだし、あんなふうに羨望のまなざしを送ってくるわけがない。おそらく仕事場では一切私生活をちらつかせないのだろう。

 人の幸せは、やはり家に入ってみないとわからないのだ。貴明が家の話を一切しなかったのも、佐藤邸に入ってみれば納得できる。過度な期待を寄せる母親、自分を憎む義父、人に話せるわけがない……。

(普通の幸せがほしい。ついこの間までは確かにあったんだから、手に入れられるはずなのに……)

 現実は、氷でできた美しい檻の中の小鳥でいるしかない恵美だった。

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