天の園 地の楽園 第2部 第17話

 圭吾は書類の決裁を終えた後、いらいらとする心を持て余しながら珈琲を飲んだ。旅行先で恵美が消えてからこのいらいらがずっと続いている。ホテルの近くのがけの下から恵美のパンプスが見つかったり、誰かが似たような人物が近くの道路を歩いているのを見たとの報告が入っているが、そこから先は何も情報が掴めない。それらを耳にしながら、圭吾は貴明が恵美を隠していると確信していた。義父の手が付いた女に興味はないなどと言っているが、もともと女嫌いの貴明が、好きな女をその程度で諦めるとは思えない。
(化かしあいだけは、血の繋がりもないのにそっくりか……)
 メイドのあすかはどう見ても恵美つながりだし、最近つきあいだした鹿島瑠璃にも本気だとは見えない。男の目で見ると鹿島瑠璃は確かに魅力的な令嬢だが、恵美に比べると世慣れているしすれている。おそらく長続きはしないだろう。

「いい加減にその仏頂面は止めてくれる? 貴方らしくないわね」
 隣の机で別の仕事をしていたナタリーが言った。
「ずっと笑っている社長がいいのか?」
「聞いていないの? 貴方らしくないと言ったの。愛人の一人が消えたぐらいで何をいらついているの? さっさと次を見繕えばいいじゃない」
「……お前は本当に私の妻なのか」
 あざける笑みを浮かべ、圭吾はナタリーから回された書類を受け取った。目を通してから秘書を呼び、決済書類を手渡す。秘書が出て行くとナタリーが言った。
「今夜は遊びにいかないでちょうだい。飯田様のご令嬢の婚約パーティーがあるわ。ああ……最近はずっと遊んでいなかったかしら」
「……何が言いたい」
「浮気に本気になられると困るわ」
「本気? あの小娘に私が? 馬鹿な」
「じゃあなんでそんなにいらいらしているの。あの子にいろいろ貢いでいたようだけど、捨てさせていないそうね。短期間で三千万近くも使ったりするのは正気の沙汰じゃないわ」
「誰から聞いた」
 ナタリーはめがねを外しながら、さあ誰かしらと言いながら立ち上がった。まだ三十八歳のナタリーは女神のように美しいが、今日も氷のような冷たさでいつも圭吾を拒絶する。
「とにかく義理の息子の恋人にそこまでする必要があるかしら?」
「好き勝手な事を言う」
 くすりとナタリーは母のような笑みを浮かべた。その上から目線な態度がひどく圭吾の癪に障った。憎くて仕方がない貴明を思い出すからだ。
「恵美さんは貴方を愛さないわ。諦める事ね」
「何を言っている……」
「彼女は普通の男が良いのよ。貴方や貴明のような野望に満ち溢れている男には、猛獣のような怖さを感じて安心できやしないの」
 今度は圭吾が笑った。
「ああそうだな。お前の死んだ男は至って普通の男だった。お前のような女郎蜘蛛に絡めとられて気の毒な事だ」
「……言い返しているつもりなら、貴方は雅文を見誤っているわ」
 ドアに向かって歩いていたナタリーが振り返った。その目には怒りが浮かんでいる。
「雅文はその女郎蜘蛛を殺せるような猛毒を持っていた。あの男の望みは私を破壊して骨まで粉々にする事。今もきっと地獄で私を待っているでしょうね」
 圭吾はそこにナタリーの亡き夫に対する愛情を感じ取り、一瞬少年のような顔を透けさせた。しかしそれは直ぐに消え、いつもの圭吾に戻った。
「……おまえは恵美をみくびっている。あの娘は普通の娘じゃない。あの甘さに触れたらどんな男も虜になるだろう。あれほど自分を正しく理解しているのに、他人のために自分を捧げる女はいまいよ。お前とは正反対だ」
「…………」
「貴明はあの女を諦めていない。気をつけろ」
 椅子から立ち上がって部屋を出る圭吾に、ナタリーが何を言っているのか聞いてきたが、圭吾は無視してそのまま社長室を出た。本社ビルの隣の佐藤邸の自分の部屋に帰っても恵美は居ない。
 圭吾を拒絶しながらもどこか受け入れていたあの目が良かった。流されているようでいて、絶対に流されない真っ白な部分を太く残している稀有な存在に、圭吾は憧れにも似た感情を持っている。おそらく貴明もそんな部分に惹かれて夢中になっているのだろう。恵美を思うと温かな忘れていた何かを思い出しそうになる。幼い頃に持っていた希望のようなもので、思い出すまいとして封印していた切ない気持ちだ。
 手をつけていたメイドが一人で休んでいる圭吾に擦り寄ってきたが、全くその気にならない圭吾は眠った振りをして追い払った。大体時間が全く足りない。言い訳がましく思いながら圭吾は自分に苦笑した。時間がないのではなく、もう恵美以外欲しくないのだ。確かにナタリーはよく自分を見ている。
「今のうちに覚悟を決めるんだな……。次はもうない」
 圭吾のスーツのポケットにはエメラルドのネックレスが入っていた。恐ろしい値段がする高価なものだったが、圭吾はそれを恵美にやろうと考えてそこに忍ばせている。これを彼女の首にかける時は、彼女が完全に逃げ場を失った時だ。漆黒の目は貴明の想像通りに恵美を諦めてはいなかったが、その理由はもはや別の物になっていた……。


 季節はさらに過ぎ、十二月に入った。恵美はアメリカに行く準備を瑠璃に手伝ってもらっていた。
 瑠璃はアメリカで暮らしたいらしく、しきりにうらやましがった。
「いいなあ。私、いちどマンハッタンとかシカゴで暮らしたかったの」
「そうなんですか?」
「ええ、最終的にはアメリカからモナコに移住して暮らすの。うっふふ。貴明様なら全部叶えられそう」
 確かに可能だろうが、恵美はどの都市にも惹かれない。未だにマンションを抜け出して日本のどこかに行こうかとか考えている。しかしそれをするとあっさりと圭吾に見つかるだろうし、第一貴明への裏切りだ。プロポーズは頑なに断っているが、どこかで折れなければならないと最近思い始めていた。
「ぜんぜんうれしそうじゃないのね? 本当に貴女、貴明様の恋人なの?」
 ぼうっとしていた恵美は、いきなり瑠璃に核心を突かれてはっとした。瑠璃の目は疑心と好奇心に満ち溢れていてとても危険な色だ。恵美は本心を知られまいと衣類を畳んだ。
「……瑠璃さんは、貴明が好きなの?」
「はあ? 何ですの突然。そりゃあまあ貴明様はあの通りの素敵な方ですけど、私のタイプじゃありませんわ。だって私に見向きもされませんもの。私が好きなのは私を好きと言ってくれる男性です」
 天性の美貌に自信がある、瑠璃らしい意見に恵美はあっけにとられた。
「実のところ、私は本当は海外の身分のある方に興味があるの。ふふふ。伯爵夫人なんて素敵じゃない」
「伯爵って……爵位なんてどうするの?」
「まあ恵美さんにはわからないだろうけど、地位がある男性はいいわ。ねえご存知? 貴明様はドイツの伯爵家の血筋の方だって」
「……あの国はもうそんなの役に立たないんじゃ」
「わかっていますわ。でも素敵じゃありませんこと? 貴族の血を引いてるのって」
 恵美にはさっぱりわからない感覚で、頭を本当に横に傾げてしまった。選民意識が強い瑠璃は、平民(だと思っている)の恵美に馬鹿にされたと思ったらしい。きっと恵美を睨んだ。
「何よ。私がふさわしくないというの?」
「いえ、そういうのではなくて……」
 参ったなと恵美は思った。恵美の中で貴族だの伯爵だのはただのつけたしのようなもので、なんの得があるのか、どういうすばらしさなのかさっぱりわからないのだ。
「もうっ、はっきりおっしゃったらいかが! そんなんじゃアメリカではやっていけませんわ!」
「……私はそういうのはいらないんじゃないかと思うんです」
「ええ、ええそうでしょうね。貴女みたいな一般人にはわかりっこないわ。話した私が馬鹿でしたわ」
 完全につむじを曲げた瑠璃に恵美は困ってしまった。お嬢様というのは皆こんなものなのだろうか? 爵位という地位や名誉が一体どう必要なのだろう。毎日幸せに暮らせていればそれでよいではないか。と、恵美は言いたかったが、おそらくそれを言うとさらに瑠璃が怒りそうなので恵美は黙っていた。ふいに瑠璃が意地悪く笑った。
「……ねえ? 本当にアメリカに行きたくないのなら私が変わってあげてよ?」
「え?」
「だって、どう見たって貴方行きたくなさそうですもの。なんなら佐藤圭吾さんに連絡して迎えに来ていただいたら?」
「止めてください!」
 恵美は顔色を変えた。
「あら? 楽しいじゃない」
「絶対に止めて!」
 圭吾から逃げてきたのに、アメリカに行きたくないだけで、どうしてまた戻らなければならないのだ。瑠璃は必死に拒む恵美をおもしろそうにからかった。
「うっふふ。圭吾様、かなり貴女に執心らしくてまだ探しておいでよ?」
「うそ……!」
「そんなに嫌わなくたっていいじゃない。圭吾様だって素敵でしょう? 第一貴女贅沢だわ。あんな美しい男性二人に愛されて貢がれて一体なにが不服なの?」
 恵美には瑠璃が何をうらやましがっているのかわからない。もともと話が合わないが、今日ほど合わないと思った事はない。玩具にされて監禁されて自由を奪われた生活の何が素敵なのだ? 恵美は再び圭吾に連れ戻されるのを想像して気持ちが悪くなってきた。胸が痛み、そこから冷えが生まれて身体全体に広がっていく……。
「私だったら二人を……あら? どうなさったの恵美さんお顔の色が……」
「…………」
 嫌だ。嫌だ。あの檻に戻るのは。それくらいならアメリカの方がましだ。貴明と結婚して悪口を言われているほうが絶対に…………。
「恵美さん? あ、貴明様ちょうどいいところへっ」
 瑠璃が慌てる声と、貴明の金髪が見えたような気がしたが、恵美は自分が圭吾に絡めとられた幻影にとらわれ、絶望しながら気を失った。