天の園 地の楽園 第2部 第18話

 ベッドで目覚めた恵美は心配そうに貴明が自分を覗きこんでいるのを見て、ああ、大丈夫、自分はまだ捕まっていないと安心した。

「恵美がいきなり倒れるから心配した。持病があった?」

「……そんなのはないと思うけど」

 なんだか圭吾の手がすぐ身近に迫っているようでとにかく逃げたい。一刻も早く日本を飛び出したいとわけも無く思う。どことなく落ち着きが無い恵美の右手を、貴明がそっと握った。

「恵美、アメリカに行きたくないんだってね?」

「え?」

「瑠璃さんにさっき聞いた」

 余計な事を言うと恵美は内心で腹を立てた。瑠璃が恵美を思って言ったのではないのはわかりきっているだけに余計にいらいらいする。瑠璃はいちいち人の事に首を突っ込んでかき回したがる困った性分だ。彼女が好んで話すのはスキャンダルが圧倒的に多く、特に有名人の不祥事が大好きだ。恵美はこの手の話題が何より嫌いで、真実に似せた嘘満載の女性週刊誌などもっとも嫌いな類だ。

 だが貴明と瑠璃は、今は協力関係にあるので我慢するしかない。乗り気で無くても監禁されるのに比べたら、今を我慢するほうが絶対にましなのだ。

「……前にも言っていたけど、イギリスに留学したかったの。でも、今はそんな事言っていられない。私、わがままだからそれが出ちゃったの。ごめんなさい……」

「恵美、そんな事言わないで。僕が配慮足りなかったよ、あちらへ行ったらなんとかなるなんて軽く考えすぎてた。恵美が最近言わなくなったからもういいんだなとか思ってた」

 貴明が申しわけなさそうに言い、握った恵美の右手に口付けた。最近の貴明はまたどことなくやつれていて、恵美は自分の事ばかり考えていた自分が恥ずかしくなった。おそらく恵美を隠す苦労や、圭吾たちにばれないようにひっそりとするアメリカ行きの用意、向こうでの住まいなどの手配でくたびれきっているのだろう。プラス大学の勉強や秘書の仕事までこなしている。

「いいの。ただ……」

 恵美の言葉を貴明が強くさえぎった。

「駄目だ。とりあえず日本のどこかでほとぼりが冷めるのを待とう。ずっと隠れて暮らすのは恵美に良くない。あいつの手が届かないところにいくつも心当たりはあるから」

「でもアメリカ……」

「アメリカなんていつでも行ける。恵美がそんなに弱っているのに強行するのは良くない」

「大学はどうするの?」

「数年のブランクなんてすぐ取り戻すさ」

 恵美を安心させるように貴明が微笑み、そうとなると新しい計画を立てなくてはと言った。恵美はあっさりと計画を捨てようとする貴明に慌てた。これは貴明ではない。貴明はもっと強引で憎らしいぐらいわが道を行って……。

「駄目よ。アメリカに行きましょう。あともう少し、」

「恵美」

「貴明はエリートなんだから、ブランクなんて駄目だわ」

 貴明が恵美の両手を自分の両手に重ねた。

「何を勘違いしているのか知らないけど、好きな女を犠牲にした未来なんて僕は要らないんだよ」

 絶句した恵美に貴明は続けた。

「恵美が幸せでいてくれないと僕は幸せになんてなれない。とにかく明日病院へ行こう。心臓の病気かもしれないからね」

 真摯な貴明の言葉に、恵美は温かさと共に絶望を感じた。自分はとうとう貴明の未来まで潰そうとしている。リビングの方で貴明のスマートフォン端末が鳴り、貴明は部屋を出て行った。入れ替わりにジュースを持った瑠璃がにこにこ笑いながら入って来た。

「良かったですわね、アメリカ行きが中止になりそうで」

「……余計な事をしないでっ!」

 感情的になりすぎていた恵美は、思わず瑠璃に怒鳴っていた。感謝されると思っていた瑠璃の顔は一瞬呆気にとられ、直ぐに嫌悪に歪んだ。

「どうしてそんな言い方をなさるの? 私は恵美さんの事を思って貴明様にお話ししましたのよ?」

「私は貴明の未来を潰したくない。それだけなのに、今計画を中断したりしたらどうなるの! 日本で隠れて暮らすなんてとんでもない話よ」

 生意気な、と瑠璃の目が尖った。

「ええそうでしょうね。貴女みたいな平凡女に恋したあの人が愚かなのよ。よーっくわかりましたわ。人の好意をこれほど残酷に踏みにじるなんて、貴女ほどわがまま勝手で強情な女はろくな末路がないでしょう。もう顔も見たくありませんわっ!」

 これ以上はないと言うほど怒った瑠璃が、ジュースをグラスごと恵美に投げつけた。恵美はジュースと氷の冷たさにとんでもない八つ当たりをした事に気づいたが、もう何もかも遅い……。瑠璃が玄関で戸を閉める音がした。

 ぽたぽたとオレンジのしみが上掛けに落ちていき、恵美はそれを枕元に置いてあったタオルで拭いた。耳をすませると、英語で会話をしている貴明の声が聞こえる。その話口調はとてもネイティブなもので、西洋人顔の貴明だけを見た人なら、だれも彼が日本人だとは気づかないだろう。

 やがて通話を終えた貴明が、アメリカ行きは無しにしたよと言いながら部屋に入ってきて、ジュースに濡れている恵美を見てびっくりした。恵美は瑠璃を怒らせてしまったと謝った。貴明はこうなる事をどこかで予測していたのか全く動じなかった。

「僕がうまく言っておくよ。ごめん、それも僕が悪いんだ。恵美があの瑠璃さんと仲良くなんて無理だったよね。辛くなかった?」

「……そうじゃなくて、貴明に何かあったらと思うと。今から謝りに行くわ」

 恵美はいまさらながらに自分のした事に後悔した。どうしてあと少しのところが我慢できなかったのだろうと情けない。しかし貴明は本当に必要ないと言い切った。

「僕から言ったほうが多分まし。恵美はもう彼女の事は忘れたほうがいい。何か仕返しがあるんじゃと心配してるんなら杞憂だよ。僕だって彼女の弱点を握ってるんだから」

「本当にごめんなさい」

「さあもういいじゃないか。ねえ、ここなんか素敵だよ。道東だけど」

 貴明がノートパソコンで美しい景色を見せた。近くに大学があり、外国語科もあるのだという。

「……寒くない?」

「冬はね。でもあちらは寒冷地仕様になっていると聞いたよ。それに北海道は佐藤グループも提携している会社もないんだ。寒いのは嫌?」

「家が寒くないのならいいわ」

「ふふ、恵美は暑がりだったっけ?」

 貴明が心底幸せそうに笑い、やわらかく恵美の頬を撫でた。恵美の好きな無邪気な笑いだ。くしゅんと恵美がくしゃみをすると、ジュースに濡れていたのを思い出した貴明がお風呂を恵美にすすめ、恵美はそれにおとなしく従った。シャワーの湯はジュースの汚れは落としてくれたが、圭吾に汚された過去は絶対に落としてはくれない。リビングで貴明が次の行く先を捜している間、恵美の心は別の世界を彷徨っていた。

 

 深夜。

 恵美はぐっすり眠っている貴明の横からそっと抜け出した。暖房が切れた室内はとても寒い。リビングは月の明かりが入っていてとても明るく、恵美はテーブルの上に置かれているメモ帳に、月明かりを頼りに貴明へ手紙を書いた。そして少ない所持金を手にし、コートを着た。そのまま玄関へ行って靴を履き、オートロックになっているドアから廊下へ出て、エレベーターで階下へ降りて行く。

 胸にあるのは、これ以上貴明の未来を汚してはならないという一点だけだった。とにかく自分さえ消えればなんとかなる。その時の貴明の悲しみを思うと罪悪感が胸を苛んだが、邪魔な自分がいつまでも貴明のそばにいるからいけないのだ。もっと早くこうするべきだった。恵美はマンションの前に停まっていたタクシーに乗った。

「……東京駅まで」

 タクシーが緩やかに動き出し、不意に恵美はマンションを車の窓から仰いだ。

 どうか貴明には幸せになって欲しい。きっと彼にはとても素敵な女性が待っていて、皆に祝福される幸せな未来があるはずなのだから……。

 高速を降りたタクシーが、東京駅とは反対方向へ向かっているのに恵美は気づいた。ここは右に曲がらないといけないのにどうしてまっすぐ進むのだろう。

「あの、道が違いませんか?」

「こちらのほうが近道です」

 タクシードライバーが事務的口調で返してきた。しかし、ハンドルはまた左にきられ、どんどん東京駅へ向かう主要道路から離れていく。恵美はひとつの嫌な可能性に気づいた。まさか、とは思う。だがよく考えれば、呼んだわけでもないのに深夜にタクシーがマンション前で待っているのはおかしい、何故気づかなかったのだろう。

「降りるから止めてください」

「駄目です。このまま目的地へ向かいます」

「佐藤邸には帰らないわ!」

「あの時と同じですね」

 よく見ると運転手は、滋賀から佐藤邸へ帰って来る時にキャデラックを運転していた男だった。恵美は目の前に美しい佐藤邸を見て気が動転した。見事に嵌められたのだ。当の昔にあのマンションに恵美が居るのはばれていたに違いない。

「圭吾様がお待ちですので、どうかおとなしくしていて下さい」

 冗談ではない。恵美はドアロックされて開かないドアにしがみついた。

「絶対に戻らないわ」

「ずいぶんな事をおっしゃる」

 見覚えのある裏門に車が停まった。恵美は正人に車の構造について詳しい話を嫌になるほど聞かされていたので、運転席に乗り上がるなりロック解除した。そして後部座席のドアを開け外に飛び出した。

 背後から、聞き覚えのある圭吾の声が恵美に向かって叫んだ。

「危ないっ! 止まれ恵美!」

 自由と監禁の狭間で止まる人間などいない。恵美は制止を振り切って道路へ飛び出した。しかし、そこで目も開けていられないまぶしさと共に恐ろしい衝撃が身体にぶつかってきて、恵美は捨てられた空き缶のように道路へ転がった。

(貴明……ごめんなさい)

 すさまじい頭の痛みとがんがんと鳴り響く耳鳴りの中で、恵美はまた貴明に謝った。力が入らない手で頭を触ろうとすると赤い血で滑った。とにかくまぶしくてたまらない。その中から会いたくもなかった圭吾が駆け寄ってきて、手早く指示を始めた。止血をされてさらに身体がきしむ。

「恵美、もうすぐ救急車が来る」

 漆黒の闇が包む寸前、圭吾の声が妙に優しく響いた。

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