天の園 地の楽園 第2部 第23話

 圭吾が銀座にある宝石店の前で車を止めさせ、一時間後に迎えに来るように言い置いて恵美と二人で入店した。
「これはこれは佐藤様。早速おいでくださいましてありがとうございます」
 宝石店の店長自らが笑顔で現れ、圭吾と恵美を特別室に招きいれた。恵美はどうして宝石店に来たのに、宝石が並んでいる店内ではなく別室に入れられるのか不思議だった。その部屋はまるで格調高いホテルの一室のようで、圭吾と並んで座った恵美は何気なく周りを見渡した。コーヒーや美味しそうなお菓子も出されてきたが食べる気もしない。
 やがて先ほどの店長がノックの音と共に部屋へ入ってきて、もう一人のスタッフと共に指輪を数点並べた。いずれも石が大きくきらきら輝いていて、高級な品だとわかった。
「佐藤様のご希望はこちらだったと思いますが」
 一番恵美が気になったブルーダイヤの指輪を、店長が丁寧に指した。他の物に比べて装飾が少なく石も小さいが、とにかく澄んでいて色が懐かしく落ち着いて見える。圭吾が恵美の左手薬指にはまっているエメラルドの指輪を抜き取って、そのブルーダイヤの指輪をはめた。指輪は恵美の小さな手にとてもよく似合っていて、圭吾が満足げな笑みを浮かべる。
「……これにしよう」
「ありがとうございます」
 恐ろしい値段がしそうだと恵美は思ったが、圭吾はこうと決めたら変えないとわかっていたので何も言わなかった。ただ、場違いな場所にいるという思いだけが心を支配している。

 恵美にはつい最近までの記憶がない。自分が何者なのか何をしていたのか……。知識は確かにあるのに、家族構成や知人達だけがどうしても思い出せない。ただ、何故かこの佐藤圭吾という人間だけが強烈に脳に焼け付いていて、彼を愛して彼だけを頼りに今生きている。圭吾はとても優しいし大切にしてくれるが、心の一部分が何故か猛反発しているのが気にかかる。
 先日テレビの占いで、西洋占星術家が「コンジャクション」という言葉を使っていたのを恵美は思い出した。それは西洋占星術に使われる星と星との角度の事で、天動説が主体となっている出生図に惑星を書き込み、惑星同士の角度で相性などをみて性格や未来を見る方法だ。コンジャクションというのは星と星が0度でつまり重なっている状態だ。それは星の性格が最大限に発揮される角度であり、良いところも悪いところも同じように引き出されるという……。
 恵美にとって佐藤圭吾とはそういう存在だ。強烈に惹かれるのだが、同時に同じぐらいの強さで心の一部分が反発するのだ。
 自分は一体何者なのだろう。本当に圭吾は信用できるのだろうか、自分はどう考えても贅沢には慣れていないと思う。オーダーメイドの服も、小物も、使用人がたくさんいる屋敷も、何もかも違うといつも思う。
「………………っ」
 また激しい頭痛が襲ってきて、恵美は考えるのを止めた。抑えた左手の薬指に填まっているブルーダイヤが、何故か妙に重く感じる。

「恵美、どうかしたのか?」
 支払いを終えた圭吾が言ったが、恵美は黙って首を左右に振った。店長と圭吾は話があるからと言い、恵美は店内に展示されている宝石を一人で見る事にした。ついて来た店員は遠巻きに自分をにこにこ見ている。やはり展示場は高級な雰囲気と品で満ち溢れていて、自分は絶対にこういう場所には来なかったと恵美は思う。遠くでピアスを選んでいる美しい女性を見て、あのように美しければ、こんな劣等感とも無縁だろうにとうらやましくなった。
「これにするわ、あら……?」
 その女性は、恵美を見るなり目をまん丸にした。記憶にない恵美にはなんの事かわからず、周囲を見回したが客は美しい女性と自分だけだ。女性は包装をしてもらっている間に恵美に話しかけてきた。
「久しぶりね、ふふ、私が思ったとおりになったわ」
「……思ったとおり?」
 
 この人は自分を知っているのだろうかと思ったが、恵美は何やらご満悦な女性にそれを聞けないでいた。
「幸せ?」
「え……ええ」
「そう、それは良かったわ。でも御曹司君や正人君を忘れちゃだめよ」
「…………?」
 御曹司君と正人君とは誰なのだろう。しかし、その時に女性は店員に話しかけられて支払いに行ってしまい、それ以上を聞く事はできなかった。そこへ、話を終えた圭吾が店内にやって来た。
「待たせたな恵美……」
 圭吾の視線は、その美しい女性に行った。女性はすぐに圭吾に気づいて挑戦的に微笑む。
「こんにちは佐藤さん」
「……ああ」
「恵美ちゃんとお幸せに」
 また意味深に微笑み、女性は店を出て行った。恵美の心の中に灰色の暗雲が立ち込めだし、なんだか居てもたっても居られない気がしてきた。やがて圭吾のキャデラックが店の横につけられたので乗り、佐藤邸へ帰った。

 佐藤邸ではいつもと変わらず、メイド達がかいがいしく世話をしてくれる。しかし、湧き上がった暗雲は抑えようも無く、恵美は不安でたまらなくなった。
「圭吾……」
「どうした?」
「私、本当は一体誰なの?」
 シャワーを浴び、ソファでコーヒーを飲んでくつろいでいた圭吾が優しく笑った。
「何を考えているかと思えば。お前は私の恋人だろう?」
「……御曹司と正人って誰?」
 一瞬だけ圭吾の目の色が変わった。が、すぐに元に戻り、圭吾に恵美は抱き寄せられた。
「私も知らない。お前が誰であったのかは私達も知らない。今の生活に何か嫌な事があるのか?」
「……ない……けど」
「それなら今の事を考えろ。昔の事を、それも忘れてしまった事を考えても仕方あるまいよ」
「でもっ」
 そこで圭吾にキスをされ、胸を弄られた。様子を察したメイド達は黙って部屋を出て行く。ひざの上に乗せられた恵美は話がしたいのに、圭吾がそれを許してくれず服の隙間から胸の先を摘まれた。
「は……ぁ」
「私がお前を愛しているだけでは不満なのか?」
「ちが……あの……やあっ……今そんな……ん、んっ」
 口付けられて何度も舌を吸われると、いつも何もかもわからなくなる。気持ちがいいと現実を考えるのを放棄する自分が嫌になるけれど、圭吾に抱かれると恵美ははいつもどろどろに溶かされてしまう……。
 快感に喘いでる恵美に、熱っぽく圭吾が囁いて耳に口付けた。
「愛してる、恵美」
「ん……あん……あ、あ……」
 頬を包み込む温かな圭吾の手が好きだ。胸をやわらかく愛撫する手も愛おしい。恵美は我慢ができなくなって圭吾のバスローブを剥がし、その首に両腕を回してひしとしがみついた。
「好き、圭吾……好き!」
「……そんなに、好き、か?」
「うん……。は、や……、そこは……」
 すぐに足の付け根を撫でられて、恵美は震えた。沼地のようにぬかるんで熱いそこは、圭吾の指を何本も飲み込んでいく。
「愛しているか?」
「ええ、愛して……る! ああっ! 圭吾ぉっ」
 いつに無く早く挿入されて、恵美はうれしくて声を上げた。熱い楔が気持ちよくて、懸命に腰をゆすってその先を圭吾にねだる。そうだ、自分は馬鹿だ。こんなに愛しいのに何を躊躇うのだろう。微かに香るコロンも、心の熱さを思わせる声も、力強い腕も、自信たっぷりに輝く黒い目も何もかも慕わしいのに……。


 恵美が果てた後、黒髪を乱れさせて眠っている上気した頬を、圭吾がいつものようにゆっくりと撫でた。
「何も考えるな、何も見るな、お前の目には私だけが映っていたらいい」
 愛される喜びを圭吾は知らなかった。ナタリーから返ってくるのは潔癖な友情ばかりで、圭吾が欲しい愛情は与えられず、ずっと圭吾は孤独だった。その心の隙間にいつの間にか住み着いた恵美を、圭吾はどうしたらいいのかわからないまま浚って愛人にした。恵美から返ってくるものはナタリーよりひどく、憎悪と嫌悪と怯えだったが、ひたむきにまっすぐに生きる優しい存在がどうしても手放せなかった。
 自殺未遂から目覚めた恵美が、愛おしさを込めた目で自分に抱きついてきた時、圭吾は狂喜した。それこそを彼は遠い昔から求めていた。
「忘れたままでいろ、そうしたらきっと……」
 勘違いしている恵美の自分への愛も、いつしか本物になるのではないかと圭吾は思うのだった。