天の園 地の楽園 第2部 第24話

 三月に入った頃、圭吾は社長室の自分の席で新聞を読んでいて、気になる記事を見つけた。貴明の見合い相手の鹿島瑠璃が、自宅マンション近くのラブホテルで遺体となって発見されたとある。遺体は死後一週間ほど経過、全身に暴行の跡があり死因は急性心臓麻痺と書かれていた。

「……お前がやったのか?」

 圭吾は、左斜め前で仕事をしている貴明に新聞を手渡した。貴明は仕事の手を休めてその記事を見、うっすらと笑った。それはよほど注意深く見ていないとわからないほどの一瞬だった。

「まさか。まあいいのではないですか? 鹿島の会社はつい先日粉飾決算が発覚して、どう断ろうか考えていた所です」

「…………」

 貴明は沢山いる瑠璃の恋人の一人に、人を使って一言言わせたただけだった。その男は愚かにも自分だけが瑠璃の恋人だと思っていた。束縛が非常に強いそのやくざの若頭は、瑠璃が他の男とラブホテルでまぐわっているところに押し入って、感情が赴くままに瑠璃を犯し、助けを請う彼女を残酷に嬲り殺したのだ。今頃になって瑠璃と貴明が付き合っていたと知ったその若頭は、嫉妬心からかご丁寧にその状況を納めたUSBを貴明にわざわざ送ってきた。それを証拠に組をつぶしてやってもよかったが、面倒くさいので放置している。

(当然の報いだ。豚女め)

 さぞかし恐ろしい目に遭ったかと思うと、胸がすく思いだった。父親の会社は裏ルートからじわじわと傾けさせて、瑠璃に父親の会社の倒産と襲い来る没落と借金の恐怖を味あわせていたところの事件だ。父親は何の罪が無いかもしれないが、あんな娘を持ったのだから悪い。どのみちあの会社は腐っていたのだ、その手の情報からは内部告発させただけだとある。

 スマートフォンに、あすかからのメールが入った。

『例の人の件でお伝えしたい事があります。あすか』

 ポーカーフェイスを崩さないまま貴明はスマートフォンを片付け、仕事を再開した。その貴明を圭吾はじっと見ている。

 

「……どうぞ、鍵です」

 メイド長こと本木綾花は貴明に恵美の部屋の鍵を手渡した。微かにその手は震えている。代わりに貴明は二千万円の小切手をメイド長に渡し、くすくす笑ってその頬にキスをした。綾花は圭吾と同じ歳で、長い間圭吾の愛人をやっていた。

 しかし今、彼を裏切ろうとしている。

 原因はあすかや公子と同じで親の借金だった。綾花の親も小さな町工場を経営していたのだが、不景気で先月潰れてしまった。借金は沢山あったが、銀行はお金を貸してくれない。両親は闇金融でお金を借り、あっという間に利息は膨らみ首が回らなくなった。両親から金を搾り出せないと分かった借金取りは、ついに娘の綾花の職場である佐藤邸まで押し掛けてきたのだ。

 人目につかない所で応対していたのに、貴明からメイド長の弱みを握れと言われていたあすかに見つかった。

 その夜、綾花は貴明に呼び出された。

 貴明に呼ばれる事など初めての事だったので、綾花は当然緊張した。正直な話、綾花は貴明が苦手だった。いつも冷たい表情で、何を考えているのかわからない不気味な存在だと思っている。圭吾はおっかないがすべてに置いて明るく、貴明に比べると余程人間味に溢れている。

「いくらだ?」

 綾花が自分の前に立つなり、貴明は腕を組み椅子にふんぞり返った。彼女はすぐに貴明が借金の額を聞いているのだとわかった。しかし知らぬ振りを押し通さなければ、唯一の収入先が途絶えてしまう。

「な……なんの事をおっしゃってるのか、私には……」

「木下商事」

 ずばりと借金先の消費者金融の名前を言われ、綾花はぎくりと貴明の顔を見上げた。貴明はにっこり笑っているが、それは威嚇以外の何ものでもない。先手先手を押さえられ、なんて恐い坊やだろうと背筋が凍りついた。この様子だと何故借金ができたか、家族の現在の状況、借金の額も知っているだろう。

「親父は知っているのか? 」

「いえ……」

 とうとう彼女は認めてしまった。やはりねと貴明がふんぞり返るのを止め、机を指先でトントンと叩いた。

「親父は借金は大嫌いだからなあ……。ばれたら即刻クビだ。長年相手にしていた君でもそうなるだろうね」

 縋る様に綾花は貴明を見た。クビになどなったらますます借金が返せなくなる。このままでは一家心中になってしまうだろう。

「お願いします。この事は社長には内密にして下さい……!」

「ふうん……君でもそんな顔するんだ。いつもお固い女だと思ってたけど」

 綾花は泣きそうになっていた。十一も年下の男に情けないとは思うが、どうにもならない。圭吾は恵美に夢中で、もう自分には振り向いてもくれない。興味を失った自分などあっさり切るだろう。遊び相手なら、三十路前の女より二十歳前の女の方が良いに決まっている。

 貴明はそんな綾花をじっと見ていたが、やがて言った。

「借金の残高は八百七十六万円だったな、それも膨大な利子が毎日加算されていく一方……。うーん、中途半端だから一千万円と言った所か」

 何を言っているのだろうかと綾花が顔を上げると、貴明がにやりと笑った。

「僕が返してやろう。これでお前は安泰だ」

 狐につままれたように綾花は貴明の顔を見る。……見ようとしたら貴明は目の前に立っていた。びっくりしている綾花の腰を抱き、顎を人差し指で上向けて貴明が言った。

「もちろんただではやらないよ。条件が二つある」

「二つ?」

 貴明がくすくす笑い、綾花は顔を赤くした。なんて美しい顔をしているのだろう。こんなに澄んだ茶色の瞳は見た事が無い……。

「一つは今日僕の相手をすること。もう一つは……恵美の部屋の鍵をよこせ。親父が居ない時にな。親父のプライベートはお前が一番把握しているだろう。動向を詳しく報告するんだ」

「な……!」

 それは圭吾への裏切りだ。怯えて綾花は逃げようとしたが、貴明にぐっと腰を抱き寄せられた。

「恵美をさらったりしないから安心していいよ、ただ一緒にいたいだけなんだ。お前は僕たちの逢瀬を知らないふりするだけでいい」

「でも……」

 ためらいだした綾花に、貴明が天使の微笑を浮かべた。

「木下商事が臓器売買に手を出している事を知ってる?」

 綾花はまた顔を青くした。

「借金を返せないとわかると、臓器をよこせっていうんだってさ? 君だとまず水商売に売りに出されてすべてしゃぶりつくされ、病気にかかりそうになった所で殺して臓器をいただくってところかなあ……」

 恐ろしい話を見惚れる美貌で話す天使に、綾花は先程から足の震えが止まらない。それどころか全身にまで及んできた。

 

「さあ……どうする?」

 逆らえるわけがない。圭吾よりも恵美よりも家族が大事だ。貴明の手を借りるしか無い……。綾花は項垂れながら頷いた。

 その返事に満足した貴明に再び抱き寄せられて、唇を奪われた。長い間圭吾に触れられていなかった綾花は、その唇の感触にうっとりとした。服を脱がされてベッドで全裸になった綾香は、ネクタイを緩める貴明を見上げた。

「もう一千万上乗せしておこうか? 君も割に合わないだろうし、親の工場もそれで立て直したら? なんなら僕が再建に手を貸すけど?」

 そんなことをされたら、家族も自分も貴明に一生頭が上がらなくなる。綾花にもわかっている、今日貴明が自分を抱くのは、裏切らせないためであることを。口約束だけの契約は脆い。しかし書面は危険過ぎる。

 若いだけあって貴明の愛撫は性急だった。

 それなのに綾花は何の不満もなかった。性急さを補って余りある若さと瑞々しさが、己の不安を払拭していく。きっと貴明は、自分たちを助けてくれるだろう。

 貴明のもたらす甘美な毒に満たされた綾花に、恵美や圭吾への後ろめたさはほとんど消え去っていた。

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