天の園 地の楽園 第2部 第27話
「これをどうぞ」
メイド長が出した白い錠剤を、恵美は黙って飲んだ。もうこのメイド長が貴明を引き入れたのだと察しがついている。
「……どうしてこんなことするの?」
「お答えできかねます」
恵美は、かっとして怒鳴った。
「冗談じゃないわ! 圭吾に言いつけるから」
「されないほうがよろしいかと。圭吾様はほかの男性の影を感じると、その女性に興味がなくなる方です。貴女でも同じようにお見捨てになるでしょう」
それはメイド長の嘘だったが、ベッドの端に座っていた恵美は、自分を見下ろすメイド長の顔をぎくりとして見上げた。今の恵美にとって、圭吾は、何よりも大切で愛しい存在だ。
「……一体何を考えているの?」
メイド長はそれには答えず恵美を窓際の椅子に座らせ、無言でぐちゃぐちゃになっているシーツを剥がし、手際よくベッドメイキングをしていく。あっという間にベッドは綺麗になり、その頃になって他のメイド達が現れて掃除を始めた。
息詰まる空間に耐えきれず、恵美はよろよろとバスルームに入った。シャワーを浴びボディーソープでごしごし擦る。擦っても擦ってもあの貴明という男の匂いが漂ってくるような気がする。圭吾に初めて犯された時も同じような行動に出たのを、今の恵美は知らない
「いや……こんなの!」
自分の身体を抱きしめて恵美は泣いた。
今日は貴明が大学に行く日だった。徹夜していた割には貴明の顔は晴れ晴れとしている。愛しい恵美を抱けたのだから当然だとは思うが、あすかは怒っていて、食事をしている貴明に給仕しながら責めた。
「恵美様、泣いていらっしゃったそうです。やりすぎでは?」
「かまうものか。生温い方法で記憶が戻るわけがない」
記憶を戻す為にレイプしている貴明に、あすかは納得がいかない。
「圭吾様にばれたらどうなさるおつもりですか?」
「かまいやしない。殺されたって僕は困らないよ。いっそいなくなってしまいたいね」
「…………」
衝撃的な言葉に、あすかは心を抉られる心地がした。大きく目を瞠ったあすかに気づいて、貴明は苦笑した。
「ナタリーがいるかぎり、親父は僕の命を奪う事も押し込める事もできないよ。この間の怪我でもかなり大事になってしまったからね。今後そういう事はない」
骨折のギプスは二週間前に取れたばかりだ。大学も休みの分を取り戻さなければならないので、ここの所毎日のように行っている。
「ごちそうさま」
「もうよろしいですか?」
「うん」
貴明の食事は異常に早い。まだ五分と経っていないのにあっというまに平らげて、置かれていたお茶を飲んでいる。飲み終わると貴明が言った。
「恵美も親父も僕に怯えたらいい。恵美が妊娠したら楽しみだね……。金髪の子供が産まれたら最高だ。言う事はないよ」
「貴明様は、恵美様を不幸にされたいのですか?」
ジャケットに片腕を通した貴明が、あすかに振り向いた。その表情はとても冷たくて、あすかは顔には出さなかったものの、衝撃を覚えていた。自分ならこんな氷のような冷たさの中ではとても生きてはいけない。
貴明はジャケットを着て、呟いた。
「不幸と幸せは表裏一体。どちらにしても僕は恵美を不幸にするんだ……」
「貴明様?」
「幸せを願ったら恵美は不幸になった。不幸せを願ったら幸せになるかもしれない」
「そんな……」
貴明の顔に自嘲する笑みが浮かんだ。
「僕は許せない。恵美も親父もナタリーも……」
「貴明様、何度も申し上げますが、恵美様の事故は自殺未遂です」
「どちらにしても僕は今のままだ。あの三人の前では無力だよ。それなら多少あがくぐらい許されるんじゃないの?」
かばんを抱えた貴明にあすかはキスをされた。
「じゃあね」
一人部屋に残されたあすかは、白い手をぎゅっと握りしめた。自分は貴明を裏切っている。あすかは中量ピルを、メイド長には貴明から恵美に飲ませるように言われた薬だと嘘をついて渡した。
今の貴明は、自分をとことん傷つけて追い詰め、破滅したがっている。ナタリーと圭吾の二人は、巻き添えをくらっても当然の事をしたのだから自業自得だと思う。しかし恵美は違う。あの自殺未遂は、自分さえいなければすべて元通りになると、思いつめてやったのではないだろうか。貴明から聞いていた彼女の性格を思うとそうとしか思えない。
まるでお気に入りの玩具を取られて、自暴自棄になる幼子だ。幼子なら親がしっかりと抱え込んでやれば治まるが、青年の貴明にはどうしてやる事もできない。癒せるのは恵美だけだが、今の彼女ではとても止められない。
貴明を救えるのは、この家の重みと貴明の重過ぎる愛情に負けない心の持ち主だけだ。
「新しく愛する方が現れたら……」
そうすれば貴明は幸せになれる。
あすかはそれが自分ではない事も、メイド長でもない事も知っていた。そして恵美でもない事も。あすかはその存在が現れるまでは絶対に貴明のそばを離れないと決めている。頼りない藁の自分だが、無いよりは絶対にましだ。
今はできうるかぎり恵美の味方をしようと、あすかは自分に言い聞かせて食器を片付け始めた。
恵美にとっては最悪な事に、圭吾はあの夜からしばらく札幌に滞在する為屋敷に帰ってこない。連日に続く貴明のセックスで恵美はくたくただった。逃げようにも逃げられずどうしたらいいのかわからない。電話で圭吾に訴えたいが、捨てられるのが怖くて言えないままだった。今夜はもういい加減になんとかしたいと思い、クローゼットの中に隠れた。隠れてしばらく経ってから、貴明が部屋の中に入ってくる気配がした。
貴明は恵美を探しているようだった。あちこちを手当たり次第に開ける音がする。
「恵美、早く出てきた方が身の為だよ?」
楽しんでいる貴明の声に寒気がして、恵美は身震いした。
「すぐに出てきたら? 今日は何もしないから出ておいで?」
そんなのうそに決まっていると恵美は思い、よけいに身を縮めた。しまいに貴明はいらいらしだしたようで、乱暴にバスルームを開ける音がした。
(怖いよ圭吾。どうして帰ってきてくれないの?)
とうとうクローゼットが開けられてしまった。
「こおんなところにいた……」
含み笑いをする貴明に、恵美はクローゼットから引きずりだされた。
「いやいや! もういや」
恵美はか細い腕で、必死に貴明の腕から逃れようとした。唇を奪われて必死に貴明の胸を押し返す。だが貴明の腕は恵美の身体に固く絡み付き絶対に離れない。
「ん……ううーっ!」
そのまま床に押し倒された。恵美は照明の影になって見える貴明の美しい顔が、悪魔に見える。
「今日は隠れたから、お仕置きが必要だね」
「そんなのいらない! あんたなんか嫌い! 大っ嫌い!」
恵美の言葉に、貴明の薄茶色の瞳が怒りに燃えた。
「どこまでも僕を拒否するのか!」
「私は圭吾のものよ」
「黙れ!」
いきなり貴明のしなやかな指が、恵美の細い首にからみついた。
「あ……っ……く!」
息ができなくなり、恵美は苦しさに喘いだ。
「もう終わりにしようか。あいつを愛するお前なんか見たくない」
「圭……吾」
「まだ言うのか!」
絞め上げる貴明の指に力がこもる。その時、恵美の頬になにか生暖かいものがぽたぽた落ちた。霞んで見えるのは悪魔が悲しそうに顔を歪めて涙を流す姿。
ぶるぶる震える恵美の手が、貴明の腕にかかった。
「……な……んで、?」
掠れた声で恵美は言い、目を閉じた。もう力が入らない。
世界が暗闇に包まれた。
暗闇の中で恵美は貴明と笑って歩く夢を見た。優しい微笑みを浮かべて貴明が手を差し伸べ、恵美はその手を握って花が咲き誇っている美しい庭を歩いている幸せな夢。
『恵美、愛してる……』
その夢の中の貴明の声がとても懐かしく、優しく響いた。