天の園 地の楽園 第2部 第29話

 恵美の記憶が戻らないまま、また数ヶ月が過ぎた。専門の医者に圭吾が受診させたりしたが効果はあがらない。しかし、恵美は献身的に協力してくれる周囲の人間に励まされたおかげで、今が幸せならいいのではないのかと思うようになっていた。

 むしろ、時折圭吾が表情を陰らせるほうが、気がかりだった。

「三十八度近くあるな……旅行は止めておこう」

 六月の上旬、滋賀へ旅行に行く当日、恵美は熱を出してしまった。三月の決算やその後の株主総会などで忙しくしていた圭吾が、やっと落ち着いてきたからと計画してくれた旅行だっただけに恵美は残念だった。

「大丈夫よ。少し熱があるくらい……」

「駄目だ。旅行先で病状が変わったらどうする? 旅行などいつでも行けるのだから今回はあきらめろ」

「行きたかったのにな……」

 熱っぽくて頭がぼうっとするのを自覚しながら、恵美は再びベッドにもぐりこんだ。とても天気のいい日で旅行日和だというのに、寝ていなければならないのがつまらない。圭吾の大きな手が優しく頭を撫でてくれたが、用意されている旅行カバンが見て、さらに気が落ち込んだ。

「今週に入ってから調子が悪かったろう? どのみち取りやめようかと思っていたんだが、お前が行きたそうにしていたから言わずにいたんだ」

「ばれてたの?」

「お前の考えている事などすぐにわかる」

 おかしそうに笑う圭吾に恵美はふてくされたが、少し経ってから微笑した。圭吾のこういう気の使い方が大好きだ。忙しいくせにいつも自分を見ていてくれる優しい男なのだ。だからこそ記憶を取り戻したい……。

「風邪だろうから三日も経てば良くなる。旅行は七日間を予定していたから、残りの四日で近場で泊まりに行こう」

「本当?」

「ああ。どのみち私は一週間フリーだ。ずっと一緒だからわがままを言え」

「えーと、じゃあ、ジュース頂戴」

 そんな事かと圭吾は笑ったが、恵美がしてほしい事はいつもそんなものばかりだった。簡易キッチンへ入っていく圭吾を見て、恵美は幸せに包まれている自分がうれしいと思った。

 昼過ぎ、圭吾に急な来客があり恵美は一人になった。病気の時に一人ぼっちというのはどことなく寂しい。また喉が渇いてきたので、恵美は仕方なく自分でお茶でもくもうかとベッドから起き上がり、ベッドの足元のスリッパを探した。すると、ベッドの足の内側の奥入った場所にきらりと光るものが目に入った。

「……なんだろ?」

 恵美は屈み込み、手探りでその光るものを指先でつまんだ。冷たい金属のようだ。

「指輪……」

 中央に一カラットほどの大きなダイヤが煌いている。指輪には英語でTAKAAKI TO MEGUMIと書かれていた。

「……たかあきって、あの怖い人? あの人こんなものまで」

 ぞっとするのと同時に頭に痛みが走った。違う、この指輪には見覚えがある。どこかで……、そうだ、どこかの部屋に自分は居て……そこで……自分は何をしていた?

 心臓がばくばくとにうるさく鼓動し、恵美は立っていられなくなってそのままカーペットの上にしゃがみ込んだ。耳鳴りもひどい。不意に男の声が響いた。

(アメリカに行ったら、僕と結婚してくれる?)

(恵美、大好きだよ)

 脳裏にふいに浮かんできたのは、優しい笑みを浮かべた貴明の顔だった。高校の時の煙草を吸ってふてくされていたり、大きな木の下でキスをされたりした。とても幸せだったが自分は……。

「……私、……捨て子だ。育ててくれた人も……事故で死んで…………」

 突然の事故で義理の両親に死なれて呆然としている自分を、貴明が僕が居るからと抱きしめて慰めてくれた。でも自分はどうしてもきらきらの御曹司の貴明に釣り合うと思えなくて、別れようとして、そのたびに貴明が想いを訴えてきて……。

「や……だ……っ!」

 初めて圭吾に犯された時の恐怖が甦った。このベッドに連れ込まれて、恐ろしい顔をした圭吾に押し倒されて……。

「監禁されて……逃げて」

 それはまるで水中の奥深くに沈められていた空気が、一気に水面へ浮かんでくるような感じだった。穏やかだった水面は、記憶という空気の珠に揺れて弾け小波立ち、やがて大きな波になって恵美を押し包んだ。恵美の心の中は一気に嵐で吹き荒れて彼女の幸せを蝕み、居ても立ってもいられない気持ちに駆り立てた。

 記憶を失っている間の記憶は消えないままで、優しい圭吾と恐ろしい圭吾が交差する。

「起きていたら駄目だろう」

 いつの間にか立ち上がっていた恵美は、圭吾の声に驚いて振り向いた。圭吾の後ろには見覚えのある医師とナタリーが居た。

「恵美さん大丈夫?」

「え……と」

 圭吾の妻のナタリーが優しく微笑みかけてきて、恵美はとまどった。そう言えば記憶をなくしてから、彼女は妙に優しい。何故なのだろう。息子の結婚の邪魔だからと嫌われていたはずだったのに。そして今は配偶者の愛人なのに。

「ずっと調子が悪そうだったと聞いて、圭吾を叱っていたところよ。何か悪い病気が隠れているかもしれないから診察しましょう」

「いえ! 私病気じゃ」

「とにかく診てもらったほうがいいわ。その方が圭吾も安心するし。まったく、貴女に関しては、圭吾は子供のように感情的になるんだから」

「子供はないだろう」

 二人は姉弟だと恵美に嘘をついていた。どうしてそんな嘘をついたのだろう……。記憶を失った自分は一体何に利用されるのか。恵美は震えを懸命に抑え、二人に言われるままにベッドに戻って医師の診察を受けた。とにかく何もかもすませて一人になりたい。恵美が事故で怪我をした時も診察してくれた初老の医師は、恵美にいくつか問診をした後、何故か検尿をさせた。何の病気だろうかと恵美が案じていると、医師はにこにこ笑った。

「おめでとうございます。恵美様は妊娠されておいでですよ」

 記憶を失ったままであったなら幸せな福音だったはずなのに、今の恵美には死刑の宣告だった。愛人が妊娠したのに嬉しそうにしているナタリー。優しく自分を抱き寄せる圭吾。一体なにがどうなっているのだ、どうなるのだ、この先の自分の変化が恵美の顔色を青くさせていく。

「……気持ち悪い」

 恵美の顔色に気づいた三人は、慌てて腫れ物を扱うように恵美をベッドに寝かせた。ナタリーが言った。

「今どれぐらいなのかしら?」

「おそらくまだ二ヶ月ほどでしょう……。社長は恵美様の生理周期をご存知ですか?」

 医師が圭吾に聞くと、圭吾は長めの髪をかき上げた。

「そうだな、それ位になる。それにしてもそんなに早くわかるものなのか?」

「人によりますが……ともかく、妊娠を自覚した途端につわりが酷くなる方もいらっしゃいますのでお気をつけください。恵美様は初めてですし、まだお若いですから」

「私は四ヶ月に入るまで気づかなかったわ……。つわりもなかったのよ」

 ナタリーが言うと、医師がうなずいた。

「ええ、ですから個人差があります。ともかく不安になっておいでですのでお大事になさってください」

「わかった」

 また圭吾の大きな手が恵美の頭を撫でた。びくりとしたのを気づかれなかっただろうか。恵美はじっと目を瞑り、三人が部屋を出て行くのを待った。しかし、ナタリーと医師は出て行ってくれたが圭吾は出て行ってくれない。当然だろう、ずっとそばに居ると朝に約束したのだから。

「心配するな。何があっても護ってやるから……」

 嘘だ。大学も夢も奪って監禁したくせに。

「子供はどちらに似るだろうな。お前に似た女の子のほうがいいが」

 自分と同じ運命を負わせたくない。

「家族が増えるのはいいものだな」

 貴明は一体どうなる?

(怖い。怖い。誰か助けてお願い。どうしたらいいの? どうすればいいの? 貴明には縋れない、だって私はあんなに愛してくれた彼を捨てたんだもの)

 どうして自分はあの時死ねなかったのだろう。あの時死んでいたらこんな目に遭わずにすんだのに。あの日は大風が吹いていて、軽い恵美の身体は風圧で石畳の上に直接は落ちずに、雪が積もった木の上に一度落ちてから石畳の上に落ちたのだと聞いている。圭吾は自殺ではなく事故だったのだと恵美に言ったのだが……。

(言えるわけがないのよ。私が自殺未遂しただなんて)

「つわりの症状に効くハーブティーをいれさせたわ。どうかしら?」

 出て行ったはずのナタリーが戻ってきた。恵美は上掛けに頭までもぐったまま顔を出す気にもなれない。今自分はどういう顔をしたらいいのだ。身動きしない恵美の代わりに圭吾が言った。

「落ち着いたら飲むだろう」

「そうね……突然すぎたものね。驚くのもわかるわ。私もそうだったもの」

「そういうものか?」

「男にはわからないわ」

 圭吾とナタリーのやり取りは気持ちが通じ合ったもので、契約結婚の冷たさを微塵も感じさせない。嫌いあっていないのなら、二人が真実に結ばれればいいのにと、恵美は自分がひどく惨めになった。

 午後はほとんど寝て過ごし、恵美は夕食すら拒絶した。圭吾が心配したが顔を合わせるのがとにかく辛い。取り戻してしまった記憶が恵美の中で荒れ狂い、極端な変化についていけなくておかしな事を口走ってしまいそうな気がする。

 貴明が居なくなってから部屋には鍵がかからなくなった。必要ないのだ。記憶がない恵美は逃げないのだから。

 夜も深くなると圭吾は恵美と同じベッドに入り、照明を消した。恵美は反対側を向いたまま、圭吾が眠るのを待った。恵美は再び逃げようとしていた。本当の事を言うと死んでしまいたいが、小さな命を思うとできない。恵美は子供が好きだった。自分を生んだ親と同じように、何もできない子供を殺そうとするのは彼女には不可能な話だ。

 恵美は圭吾が定期的な寝息を立てるまで、じっと動かなかった。幸せなはずの男の体温は、ひどく自分をいらつかせるものに成り変っていた。しんと静まり返った部屋にやがて圭吾の静かな寝息が聞こえ始め、恵美はそっとベッドを抜け出した。

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