天の園 地の楽園 第2部 第31話

 時計は夜の二十三時を回っていた。貴明は伝票入力を全て終えて保存し、必要なデータだけ上司にメールで送付してパソコンの電源を切った。他の社員達は皆とっくに帰っていて、貴明の席だけに照明がついている。最近の貴明は、仕事の合間に大学へ行っているような生活を送っていた。学年が進んで必要なゼミを取った為、提出しなければならないレポートが激増しているというのに、仕事まで激増している貴明は以前のように睡眠時間を削って全てをこなしていた。

 秘書課は室長が優秀な人間であったのでうまく行っていたが、総務二課は閑職と言われているだけありろくな人材がいなかった。女子社員は御曹司の貴明に取り入ろうとしてくるし、男子社員は潰そうにかかってくる。普通なら跡継ぎというだけで表向きだけでもちやほやされるものなのだろうが、佐藤グループの理念が力なき者は去れというものだったので、やる気がない社員のたまり場であるこの課の社員は、それをしごきと言う名のいじめに変えて、貴明をいじめぬいているのだ。
『将来社長様になるんなら、これっくらい一人でやれるよな?』
『お前、星京入ってるくせにこんな事も知らないのか? これじゃあこの会社も先が知れてる』
 今日は支社との伝票のやりとりミスだった。貴明が社員の一人から聞いた事を書面つきで伝えたのに、聞いた社員がそれをいい加減に受け取って間違った処理をした為、支社の課長が電話で怒鳴りながら苦情を言ってきた。しかし間違えた社員は全て貴明のせいにした。味方する者は無く、貴明は間違って処理された伝票の山を押し付けられ、今やっとそれらの処理を終えたところだった。貴明だからこそ深夜までの残業ですんでいるが、他の者なら明後日ぐらいまでの時間がかかる修正だった。  部屋の照明を落とし、貴明はエレベーターを使わず階段で階下まで下りた。タイムカードはいつも定時に先に押すように言われている。会長のナタリーは経費節減から残業を許さない方針だ。残業をしている社員は詳しく調べ上げられ、能力に応じた部署に回される。しかし閑職の総務二課でそれが起こると、いよいよ首を切られる事になる為、皆先にタイムカードを押すという小細工をしている。
 貴明から見れば、総務二課の社員には効率よく仕事をしようという意欲が見受けられない。意欲があっても、二課の課長が就業中にパソコンゲームに興じているような恥知らずだ、とてもその意見は通らないだろう。おまけに何かうまくいけばその課長が功績を横取りしている、こんなところでまともに働くほうが馬鹿を見ると、社員がさじを投げても仕方がない。ナタリーと圭吾がなぜこんな連中を会社に残すのか、貴明にはさっぱりわからなかった。

「最近ずっと遅いですが、大丈夫ですか?」
 社屋を出るところで、顔なじみになった深夜勤務の警備員が頭を下げる貴明に声をかけてきた。
「……いろいろあってね。貴方も毎日ご苦労様です」
「私は深夜専属ですが、佐藤さんは違うでしょう? 連日深夜残業では今に倒れてしまいます。マンションまでここからタクシーで帰っても一時間かかるのに……」
「心配ありがとう池中さん。でも若いから大丈夫だよ」
 どう見ても疲れきっている貴明が、中年の太った警備員は心配だった。だから時々自分の妻に言って、貴明のために弁当を作らせている。そして今日も弁当箱が入った紙袋を差し出した。
「これ、うちの奴が自信作だって言うから食べてくれませんかね?」
「自信作……? へえ、池中さんの奥さんが言うんだからさぞかし美味しいんだろうね」
「すんませんね、あいつ料理が死ぬほど好きだから」
「ふふ、僕も好きだけど奥さんみたいな味になるのに何年かかるのかな。いつもありがとう」
 めずらしく貴明が微笑み池中はほっとした。同じ年の息子が居るからわかるのだが、どう見ても貴明はかなりの背伸びをしている。この年代はこういう笑みがあってしかるべきだ。池中は心配そうに未来の社長の背中を見送った。

 タクシーの中で仮眠を取ってマンションに帰ってきた貴明は、自分の部屋の窓に明かりがついているのを見て舌打ちした。池中からもらった弁当を食べて、すぐ眠りたいと思っていたのだができそうもない。
 鍵を開けると、案の定母親のナタリーが迎えに現れた。
「おかえりなさい貴明」
「何の用です? 僕は明日一限目から講義があるんで早く寝たいんですが」
「ご飯を食べていないそうね」
 食べたくもない夕食を食べさせられるのかとうんざりする。しかし、早く母親を追い返したい貴明は池中からもらった弁当を冷蔵庫に入れ、無言でリビングのテーブルにつき、用意されていた夕食を口に押し込んだ。ナタリーがそんな貴明を向かい側からじっと見ていて、気が散って仕方がない。あっという間に食器は空になり、貴明はそれを自分で片付けてシンクで洗った。
「……貴方はなんでもできるのね」
 ナタリーが感心したように言うので、貴明はますます面倒くさくなった。
「ずっと寄宿舎でやらされていたんですから当然です。それより用は?」
 蛇口を閉め、最後の皿を水切りに置いた。ナタリーは用を言いに来たくせに言いにくそうに口ごもった。いつも容赦がない母にしては珍しいので、貴明の右眉がわずかに上がった。何か余程言い難い事なのだろう。しばらく押し黙っていたナタリーだったが、やがて対面キッチンのシンクに右腕で頬杖を突いた息子に、覚悟を決めたように顔を上げた。
「恵美さん、記憶を取り戻したわ」
「へえ」
「そして妊娠したの……圭吾の子よ、もうすぐ三ヶ月」
 錆付いたざらざらの鉄の棒に胸を貫かれたような痛みが、貴明の中で走った。貴明はゆっくりと瞬きをして、棚から洋酒の瓶を出した。
「……そうですか。それで?」
「圭吾が、もう屋敷の部屋に帰ってきてもいいと言ってるわ」
「ふうん……」
 ストレートでアルコール度数の高い酒を飲み干し、琥珀色の液体を再び注いだ。母方のシュレーゲルの遺伝なのか、父方の石川の遺伝なのかわからないが、貴明はどれだけ飲んでも酔えない。
「貴明、あのね」
「別にどうでもいいです。好きにすればいい。僕の意見など必要ありませんよ」
 無理に引き離しておいてなんだと思う。張本人に気遣われると、行き場のない激情がまたわきあがってきて爆発しそうになる。だがナタリーは余程今回の仕打ちを反省しているらしく、それとなく聞くうわさではとても恵美を優遇しているらしい。だから貴明がその激情を表に出す事はなかった。
「そう……なの?」
「そんなくだらない事をわざわざ言いに来たんですか?」
「くだらなくはないでしょう。恵美さんは……」
「親父の愛人だ。やはり僕には関係ない」
 グラスを置き、貴明は椅子に座っているナタリーを冷たく見下ろした。とても母親に対する態度ではなかったが、それが今の二人の状態だった。ナタリーは黙ってうなずき、身体を大事にするようにと言ってそのまま部屋を出て行った。

 玄関のドアが閉まる音が響く。貴明はシンクにもたれてそのままずりずりと床に座りこみ、向かいの棚を開けて花柄模様のティーカップを手に取った。このティーカップを両手で包み込んでハーブティーを飲んでいた恵美を思い出し、貴明も同じように包み込みそっと眼を閉じた。
 あの時飲んでいたのは、なんという名前のハーブだったのだろうか。棚の奥には茶葉が数種類入ったままになっている。皆もう古いので捨てたほうがいいだろう。
「……記憶が戻っても親父を選んだのか」
 圭吾の話をすると女の顔をしていた恵美を思い出す。貴明の胸を諦めにも似た切なさが埋め尽くし、力なくうつむいた。  自分は一体恵美に何をしたのだろう。別れたがっているのを無理やりに引き止めて、彼女の恋を邪魔しただけではないだろうか。両想いだったのを引き離して、義理の父を酷薄な男にして自分に無理に振り向かせようとし、かえって取り返しのつかない傷を負わせただけではなかったか。
 首を絞めて恵美を殺そうとした時、憎んでも愛している自分に気づいた。自分の恋は幼すぎる。自分の想いばかりを優先して、勝手に想って押し付けて傷つけて裏切られたと怒った。
 圭吾へ屋敷へ寄り付かないように言われた日、貴明はあすかの深い愛情に心の奥底から感謝した。あすかは貴明が傷つかないようにいつも心を砕いてくれていた。自分の外見に惹かれただけの彼女だろうに、どうしてそこまでしてくれたのだろう。自分はただ二人を不幸にしただけだ。この罪は生涯を捧げてもきっと償いきれないに違いない。もう一人メイド長が犠牲者と言えるかもしれないが、彼女は貴明の援助で借金苦から解放されて、この間幸せな結婚をしたらしい。それが辛うじてどん底の貴明を救ってくれていた。工場も順調で毎日忙しいのだと聞き、それがたまらなくうれしかった。

「幸せにしたいと思っていたのに……」
 まるで恵美に頬を寄せるように、カップに頬を寄せた。浮かんでくるのは泣いていたり、困っている恵美の顔ばかりだ。
「こんな僕では、愛されなくても仕方がないな……ふふ……」
 眦から涙が頬をすうっと伝わって流れた。行き場を失った貴明の想いは、涙となって溢れて止まらないのだった。