天の園 地の楽園 第2部 第33話

 深夜。ふと目を覚ました恵美は、窓から差し込む月の光にそっとカーテンを開けてみた。
「わあ……綺麗」
 雲ひとつ無い漆黒の夜空に、きらきらと光り輝く綺麗な満月を見つけて恵美はうれしくなった。思えば冬に入ってから夜に空を眺めたりはしていなかった。お腹の子供が冷えたり恵美が疲れると良くないと言って、圭吾も恵美も夜更かしはしないようにしていたのだ。
「そう言えば中庭に季節はずれの白薔薇が咲いてたな。ちょっと見に行ってみよ。月明かりの下だと綺麗だろうな」
 静かにクローゼットを開けて厚めのコートを羽織り、スリッパを脱いでブーツをを履いた。真冬の夜はかなり寒そうなので寒さ対策は欠かせない。廊下から外へ出ると氷のように凍み付いた冷気が頬に当たり、恵美は小さな身体をぶるりと震わせた。気のせいかお腹の子供も寒がっているように思える。
 止めたほうがよかったかもと一人でぶつぶつ言いながら、恵美は中庭の白薔薇を目指して歩いた。中庭には様々な植物や木が植えられていて、ちょっとした森のようになっている。普通はこういう西洋風の建物の庭はやたらと人工的に整えられているものだが、何故か佐藤邸の庭は日本風で、自然を切り取ったように作られていた。
 白薔薇は花を閉じていたが、予想通り月明かりの下で美しく浮かび上がっていた。
「デジカメ持ってきたら良かったかも。圭吾もこういうのが好きそうだもんね……」
 一人ではしゃいでいると、突然、目の前の茂みがガサガサと動いた。野犬か何かかと思ったが、ここにそんなものがいるわけがない。誰か居るのだ。
(誰?)
 それは人の形をしていてとても綺麗な金髪を持っていた。ゆったりとしたローブを着て翼が生えていたら、天使に見えたに違いない。かなりためらって、恵美は恐る恐る声をかけた。
「貴明」
「恵美……か」
 木に凭れていた貴明が振り向き、そのまま倒れ込んで来たので、恵美は慌てて抱きとめたが、体格差が在りすぎて重くて支えきれず、その場に座り込んでしまった。幸い芝生が敷かれていたので全く痛くはなかった。芝生はひんやりとしていて身体が震える。貴明の身体からはお酒の臭いがして、お酒が嫌いな恵美は思わず顔を顰めた。
「……酔っぱらってるの?」
 恵美の問いに、貴明はかすかに頭を横に振った。
「僕はお酒では酔えない。どれだけ飲んだって酔えないんだ」
 ひどく疲れている貴明に恵美はそっと抱きしめられた。今の貴明はあの妖しい雰囲気も氷のような冷たさも無かったので、恵美は以前のような恐怖を感じなかった。
 しばらく黙っていた貴明が、恵美の肩に顔を埋めたまま言った。
「ねえ……恵美。今からでもアメリカに行かないか?」
「何言ってるの、初美さんがいるのに!」
 驚いた恵美に、貴明はくすくすと笑い身体を揺らした。
「初美とは……さっき別れた」
「別れたって、だって昼間はあんなに……」
 恵美はどう言えばいいのかわからない。貴明の手が滑り降りてきて優しく恵美のお腹を撫でた。
「この子供が僕の子供だったら良かったのに……」
「何言ってるの、大変じゃないそんな事になったら。貴明の一生がめちゃくちゃだわ」
「僕はマンションで恵美と暮らしていた時、一度も避妊をしなかったんだ」
 貴明が恵美の肩から顔を離して、じっと恵美の顔を見つめた。やはりそうだったのかと恵美は思った。うすうす気づいてはいたが、当時は貴明が怖くて聞けなかった。
「お前を奪ったあの日以外はずっと、お前が先に果てたのを確かめてからずっと出してた。何回も何回も。妊娠したら……結婚するしかないってお前は決めるだろうと……そう思ってね」
 狂気にも似た貴明の愛情に恵美の背中はぞくりとした。だが、今、月明かりに見える貴明の瞳には狂気は無く、悲しみの色だけが揺蕩っている。
 貴明の顔が近づいて来て、唇を奪われた。恵美は拒絶も許容もしなかった、何も感じないので反応のしようもない。キスに全く反応しない恵美に、貴明は直ぐに唇を離して力なく笑い、今度は恵美の胸に顔を埋めて縋り付いてきた。
「恵美を愛してる。こんなにも愛しているのに、近くにいるのに……!」
「貴明」
「どうしてお前は親父を愛してるんだよ! どうして僕じゃなくてあいつなんだ」
 抱きしめている貴明の腕が震えた。泣いているのかもしれない。
「僕は……恵美しかいらない。恵美しか僕を満たしてくれない。初美もあすかも……僕を満たしてはくれないんだ。皆通り過ぎて僕を一人にする」
(貴明も同じ事思ってたんだ……)
 かつて恵美もそう思った事がある。その寂しい気持ちが良く理解できる恵美は、まるで子供を宥めるように貴明の頭を撫でた。強い愛情をぶつける相手がいなくて、振り回されて藻掻いている貴明がひどく哀れに思える。以前の恵美なら、それを中途半端な愛情で受け入れていたが、圭吾を愛している今は受け入れることは出来ない。
「ごめんなさい、私も貴明では満たされないの」
「…………」
「……ずっと謝ろうと思ってた。私はどうしても貴明に応えられないの、愛せないの。境遇とかそんなんじゃない、小川恵美はどうしたって佐藤貴明に恋人として惹かれないの。友人以上には……思えない」
「恵美……」
 恵美の胸から顔を上げた貴明は泣いてはいなかった。その顔にあったのはそれ以上の悲しみで、恵美はまた貴明を傷つけてしまったと胸が痛んだが、もう絶対にほだされてはいけないのだと自分を戒めた。流されてしまう自分の情は、貴明を不幸にするだけなのだから。

 恵美は貴明の手を取り、ずっと貴明に返そうと思ってポケットに忍ばせていた、あのダイヤの指輪を載せた。
「これ……返すね」
「…………」
 貴明はその指輪をぎゅっと握りしめて目を閉じ、力なく俯いた。
「……散々恵美を傷つけたり、殺そうとした事を許してほしいとは思わない。でも謝りたい。ごめん……」
「貴明」
「僕なんかが……、お前を愛してしまって、ごめん。僕は恵美を不幸にしかできなかった」
 謝らないでほしいと恵美は心の中で叫んだ。しかしそれでは貴明がまた傷ついてしまうので、じっと耐えた。

 気づいたらこんな事を恵美は口にしていた。
「……今度恋する人には、もっと普通に迫ったほうがいいわよ」
 貴明は目を丸くした後吹き出した。玉砕したうえ謝罪して気が晴れたのか、思い切り大笑いした。
「何それ。僕は普通だよ。親父だって普通だったとは思えないんだけど?」
「貴明みたいに綺麗な御曹司に迫られると、大抵萎縮しちゃうの。お嬢様がタイプじゃないんなら、普通に迫りなさいよ」
「ふふ……相変わらずだなあ。……元気な様でよかった。あいつは大嫌いだけどそれだけは立派だよ」
 やがて貴明は恵美の手を離し、二人は一緒に立ち上がった。月明かりが幻想的に貴明を照らし、貴明の美しさをいっそう際立たせた。二人の白い吐息が闇に消えていくのが夜目に見える。
「恵美、幸せになってね」
 貴明は久しぶりに天使のように清らかに微笑んだ。愛し合っていた時に、よくしてくれた天使の微笑み。貴明が微笑むだけで、辺りに光が煌めいて明るさが満ちていく。
「おやすみ、恵美……」
「……おやすみなさい」
 貴明は動かなかった。部屋へ戻っていく恵美を、ずっと優しい目で見送っていた。

 寒い外にいたせいで、身体がすっかり冷え切ってしまった恵美は、急いで部屋に戻った。戻ると圭吾が起きていて心配していたと怒られた。
「夜は寒いのにどこへ行っていたんだ? 腹の子供に何かあったらどうする」
「貴明と別れてきたの」
 コートを脱ぎながら言う恵美に、圭吾は少しだけ切れ長の目を大きくさせたが、そうか……と言い、恵美を抱き寄せた。
 今頃になって恵美は涙が出てきた。今、貴明と恵美の恋は終わったのだ。小さな両手を圭吾の首に回して、恵美は唇を重ねた。そのまま二人はベッドに倒れ込んでキスを繰り返しながら抱き合った。ずっとベッドに居た圭吾の身体はとても温かい。
「あいつ……、泣き虫だから泣いていただろう?」
「泣くわけないでしょ」
 圭吾は思い出したように笑った。
「お前は知らないだろうが、あいつは小さい頃いじめられっ子で、すぐ泣く弱虫だったんだ」
「……ほんと?」
「私もそうだった」
 貴明が泣き虫だったのはなんとなくわかる気がするが、圭吾が泣き虫だったとはとても信じられない。疑わしげな恵美の視線に圭吾はうそだと笑った。そしてふっと優しく目を和ませる。
「愛されている自信がある人間は、安心して泣けるんだ」
「じゃあ今泣いてよ。私に愛されてる自信があるんでしょ?」
「大人は泣かない」
「勝手なものね……」
 優しい腕に抱かれながら、恵美はくすくすは笑った。笑いながら目を熱くさせて、心の底でそっと祈った。
 どうかいつか、貴明を深く愛してくれる素晴らしい女性が現れますようにと。