天の園 地の楽園 第2部 第34話

 それからまた数ヶ月が過ぎたある日、恵美は必死に痛みと戦っていた。

「痛い痛い……」

「大丈夫だよ。恵美」

「なんで圭吾来ないの? ねえ?」

「仕方ないよ、どうしても外せない会合なんだから。それにあんまり痛いって思うと余計に痛くなるらしいよ」

 恵美は陣痛の真っ最中だった。午前中に産気づいたのだが、運悪く圭吾は年に一度の会合でいない。ナタリーと貴明が代わりに病院に付き添ってくれている。

「男は頼りにしても駄目よ。出産は女の仕事ですからね」

 ナタリーが恵美が痛いと思う箇所に緩和するマッサージをしてくれた。貴明は全く頼りにならず、恵美は視界に入れるだけでイライラした。ナタリーが諦めともためいきとも取れる様な息をついた。

「圭吾がいたって貴明以上に頼りにならないわ。期待しない事よ」

「だって、他の人はみんな旦那さんが付き添ってた、……痛ーい!」

 普段の恵美ならおそらく尻込みしてこんな口はきかないのだが、あまりの痛みと寂しさと心細さで、身内に話しかけるように二人と会話している。二人とも出産という一大事なので、一心に付き添ってくれている。

 しかし。

「お茶飲む?」

 貴明がコップに入ったお茶を持ってきた。恵美はなんて気がきかないのよと、余計に痛みが増した。

「起き上がれないのにコップで持ってこないで、馬鹿っ! いらない!」

「……ホント痛いんだね。こんなわがままな恵美初めて見たよ」

 貴明が怖い怖いと首をすくめ、それを見て恵美は目を釣り上げる。その横でナタリーが、ストローのささったカルピスを恵美に差し出してくれた。

「はい恵美さん。ストロー刺したわ。これで飲みやすいのではなくて?」

「ありがとうございます。ナタリー様ってすごいですね」

「私も出産しましたからね。よくわかるのよ」

 頼りになる比重はナタリーが100で、貴明は0だった……。

「どうせ僕はなにもわかりませんよ」

「ごちゃごちゃ私の周りで言わないでよ! あっち行ってて!」

 むくれる貴明にイライラが最高潮に達し、恵美は横になったまま思い切り貴明の腰をどついた。ものすごい力だったので貴明は前につんめのり、あやうく転びかかった。

「お前、いくらなんでもこれはひどいだろう?」

「っさい! あーもー。この痛みをあんたにすげ替えてやりたいわ! のほほんとした顔でいられるとイライラするのよ! ああっ……また来た……痛い痛い……」

 うんうん唸っている恵美に、助産師が力んでは駄目だと注意をした。そして騒いだら赤ちゃんが不安がるとも。

 ついに貴明はナタリーから、邪魔にしかならないからどこかへ行っていなさいと部屋から追い出された。隣の部屋のドアが開いていて、垂れ下がっているカーテンの内側から、恵美と同じように陣痛と戦っている妊婦とその配偶者と思われる男の声がする。

 喫煙所に行き、そこで貴明は煙草に火をつけた。煙草は高校三年の時におもしろ半分に少しだけ吸って、直ぐ止めていたが、最近いきなり吸いたくなって再び喫煙している。すると目の前をいるはずのない男が歩いていく。

「貴様、会合はどうしたんだ?」

 貴明の声に圭吾は振り向いたが、すぐに歩いて行ってしまった。行ったって役に立たないだろうにと貴明が思っていると、果たしてすぐに圭吾は戻ってきた。そして貴明と同じように煙草に火をつける。

「……追い出された。あんなに呼んだくせに」

 愚痴るように圭吾がつぶやいたので、貴明はくっと笑った。その笑いが癪に触ったらしく圭吾が睨みつけた。

 二人は相変わらず仲が悪いが、最近わずかに変化が見られる。それは貴明が恵美を完全にあきらめた事による変化だった。あの別れから数ヶ月、恵美の貴明に対する愛は沸騰するような熱から冷めていき、穏やかな春の陽射しのような暖かさに変わっていったのだ。

 あの時圭吾が恵美を奪わなければ――という仮定が成り立たなくなったせいもある。恵美は記憶を取り戻してもなお、圭吾を愛している。屋敷内で時折見かける圭吾と恵美に、貴明は確かな二人の絆と愛情を見て、こんな日はいずれ訪れたのであろうと徐々に思うようになった。貴明は恵美を愛していた。恵美も貴明を本気で愛そうとしてくれたはずだ。だが、圭吾への愛情がはるかに恵美の中で大きくなった。だから自分は選ばれなかった。裏切られたわけではない、圭吾と恵美の絆の方がはるかに深かっただけだと悟った瞬間から、貴明は二人を見守る男に変化した。自分の愛の変化に貴明は逆らう事なく、静かに穏やかに恵美を見つめる事ができるようになっていた。

 役に立たない男二人が無言で煙草を吸っていると、一時間程経った頃にナタリーが笑顔で現れた。

「生まれたわ。かわいい女の子よ。圭吾はすぐに恵美さんのところへ行ってあげて。私達はお邪魔だから屋上にでも行きましょうか、貴明」

「……そうですね、どうも産科は暑いです」

 さっさと歩いていく圭吾の後姿を見やった後、貴明はナタリーの後ろについてエレベーターに乗った。

 病院の屋上は、冬の寒さと風の強さと夜になりつつあるせいか、人影はなかった。凍り付くような寒さだが、病院内の二十七度に設定された空調の暑さにうんざりしていた二人だったので、涼しいくらいだった。眼下に消えていく夕空と、人工的な明かりがついていくのが見える。

「愛人に子供が生まれたのに、とてもうれしそうですね。普通なら修羅場でしょうに」

 貴明の言葉に、くすくすとナタリーは笑った。

「これで圭吾が元気になるのなら構わないわ」

「貴方はあいつを愛してないんですか?」

 それはずっと貴明が聞いてみたいと思っていた事だ。利益があったからだと言う答えを待っていた、貴明は予想外の返事を聞いた。

「愚問ね、愛してなかったら結婚なんてしないわ」

「……とても愛しているように見えません。愛人の子供の出産につきあうなんておかしいですよ、世間一般から見たら……」

 あきれている貴明にナタリーは笑みを深めた。

「愛にもいろいろあるし、夫婦にもいろいろあるのが当たり前よ……。そうね、私が圭吾に持っている愛情は男女のものではないでしょうね。友情に近いわ。ひょっとすると結婚までする必要はなかったのかもしれない……。でも私にはどうしても圭吾が必要だったのよ」

「…………」

 風に乗って雪が舞ってきた。しかし二人はその場で話を続けた。

「貴方のお父様の雅文は、無害そうでおとなしそうな外見だったのに圭吾以上に強引だった。当然、私は最初愛してなどいなかったわ。でも今はどうしようもなく愛しているの」

「……初耳ですね」

 ナタリーと貴明は、今までそんな話ができるほど身近ではなかった。七歳の時に貴明の父の雅文は亡くなった為、正直どういう人間だったのかという記憶まではない。自分に対しては穏やかでいつもそばに居てくれる優しい父親だった。逆に母のナタリーはいつも会社会社で家にいなかった。

「……貴方は本当に雅文にそっくり。だから普通の娘ではとても無理なのよ、結婚相手には」

「異常な娘を相手にしろと?」

「異常な息子にはね」

 なんという事を言う母親だと貴明は思った。しかし、確かに自分の愛し方は、恵美が言うように問題があるのかもしれない。

「恵美さんがいらしてから圭吾は変わったわ。前は生き急いでいるようなところがあったの。でも今はとても楽しそうに穏やかに過ごしている、だからうれしいわ」

 さらに何かをナタリーが言おうとした時、彼女のスマートフォンが鳴った。ナタリーの顔色がわずかに変わったので貴明は胸がざわめいた。通話を切ったナタリーが言った。

「大変よ貴明、直ぐに恵美さんの部屋に戻りましょう」

「恵美か子供に何か?」

「小山内正人さんという男性がいらして、圭吾と喧嘩をしているって恵美さんから……」

 やばい、と貴明は走り出していた。

 時間はすこし遡る。

 眠った美雪をちいさなベッドに寝かせて、ベッドの端に座った圭吾に恵美は抱き寄せられていた。だるくてたまらなかったが、圭吾の優しい腕の中で幸せな思いに浸っていた。二人は新しい家族を迎えたのだ。こんな温かさに満ちた夜を二人は知らない。

「あ? 誰だお前……」

 不意に男が部屋に入ってきた。部屋は夜に寝る前までカーテンでしきっているだけなので、ノックの音はない。恵美は入ってきた男に驚いた。久しぶりに見る正人だった。圭吾は正人を知らない為、不審者だと思ったのか正人を睨みつけて立ち上がった。

「お前こそ誰だ? 部屋を間違っているのではないか?」

 正人は圭吾のただならぬ威圧感に負けず、ずかずかと部屋に入ってきた。

「恵美、佐藤はどうした? その男はなんだ? まさかその子供……そいつとの子供って言うんじゃないだろうな?」

 ベビーベッドの中で美雪はすやすや眠っている。圭吾はその美雪を庇うように立ちはだかった。

「私の子供だ。お前は誰だ?」

 恵美は一触即発しそうな二人に慌て、圭吾のスーツの裾を強く引いた。

「圭吾、この人は小山内正人って言って、私の幼なじみなの。お兄さんみたいで家族同然の人なのよ」

 不思議そうに圭吾は恵美を見下ろした。

「家族同然?」

 その圭吾の胸ぐらを正人が乱暴につかんだ。

「そうだ。詳しい話はお前の屋敷の連中からは聞けなかったが、おおよそはわかった。お前が恵美を無理矢理愛人にしたってことぐらいはな! 公子にまで手を出してたらしいじゃないかっ」

 言うが早いか、正人は圭吾を殴りつけた。正人は貴明と並ぶ程喧嘩が強く、その威力は相当たるもので、圭吾は壁に背中を派手にぶつけた。

「なにをする!」

 圭吾も喧嘩はかなり強いらしくすぐさま正人の頬を殴り返し、今度は正人がふっとんだ。

「うるさいっこの鬼畜野郎めがっ! よくも恵美を……!」

 二人はつかみ合いを始めた。

「ちょっと二人とも止めて、ここは病院よ!」

 恵美の声を二人は聞いてはいない。ただならぬ雰囲気を感じ取り美雪がはじかれたように泣き出した。

「圭吾! 正人!」

 殴る、蹴る、床に転がるの凄まじい喧嘩が展開し、やがて二人は廊下で喧嘩を始めた。何かにぶつかったのか、物が落ちたり散らばっていく音がする。人の悲鳴も聞こえてきた。大騒ぎになっていくのが見えなくても分かる。恵美は火がついたように泣き続ける美雪をあやしながら、置いてあったスマートフォンでナタリーに電話した。貴明と一緒にいるはずだった。

 やがて駆けつけた貴明が、二人の間になんとか入った。

「二人とも落ち着けここは病院だ! 警察に通報してもいいぞ、このまま恵美を困らせるつもりならな!」

 圭吾も正人も『恵美を困らせる』というのが効いたらしい。ぴたりと喧嘩を止めた。

「ったく……やくざかお前らは……」

 貴明は額に片手を当てる。ナタリーが貴明の後ろでそんな二人にびっくりした後、笑い始めた。

「あらまあ……。なんて姿」

 服はところどころが二人とも破れ、薄汚れてしまっている。殴り合ったせいで顔中青あざだらけだ。服を脱いだら身体も同じようになっているであろう事は想像に難くない。廊下に置かれていた器具が辺りに散乱している。各部屋から何事かと人が顔を出しており、さらに通行人の人だかりができていた。

 助産師や看護師が駆けつけてきて、圭吾と正人の二人は厳しい注意を受けたのだった。

 

 照明が絞られた薄暗い部屋の中で、正人と圭吾は恵美を挟んだ形で対峙していた。出産後の疲れで恵美はベッドの中でもう眠っており、二人は無言でそれを見ていた。あの後、二人は貴明とナタリーによって外科で治療を受けさせられた。大きな怪我はなかったが、結構な打撲傷や切り傷がお互いにできていた。お互い感情的なものが去ったところを貴明が見計らって、二人を恵美の部屋に招き入れ、貴明はナタリーと一緒に佐藤邸に帰っていった。この母子のわだかまりは恵美の出産が打ち消してくれたようだ。

 窓の外は寒風が吹きすさんでいるようで、わずかにそのうなり声が聞こえる。だが部屋の中は相変わらず暑いくらいで、二人ともシャツの腕をまくっていた。

「……こんな日だったそうだ。恵美が捨てられていた日は」

「恵美の生まれを知っているのか? 恵美はひた隠しにしていたようだが」

 圭吾の言葉に正人は静かにうなずいた。

「小学生の時、俺の母親が話してくれた。お前だから言うんだ、これは絶対の秘密だからって約束させられた後で……」

「そんなに早くに」

「……十九年前の事だよ。俺の両親が結構雪が降ってる寒い晩に普段は通らない公園を歩いてたら、今にも途切れそうな声で泣いている赤ん坊の泣き声がしたらしい。真っ暗闇の中二人は公園の中を探しまわってさ、俺の父親が大木の下に置かれた段ボールの中で、毛布に包まれて凍えてる生まれたばかりの恵美を見つけたんだ」

 手を伸ばして、慈しむように正人は恵美の額に手を当てた。

「恵美は生まれ落ちてすぐに捨てられたらしくて、血やらなんやらつきまくっていたらしい。すぐに病院へ急行して恵美の命は助かったんだ。捨てられてすぐに発見されたから、良かったんだと言ってた。ちょうどその時、恵美の母親が死産したばかりだった。どうやったのかは知らないけど、戸籍上は実の子供として恵美は育ての両親にすぐに引き取られた。事実を聞かされた時から、俺はずっとこいつを護るのが使命だと思ってた。こいつは自分が捨て子だったって知ってたから、いつも孤独を抱えてた。そんな恵美を俺はずっと護ってやりたいって思ってたんだ」

 

 圭吾は穏やかな表情の正人を不思議に思った。

「君は恵美を愛しているはずだが、何故貴明に……」

「愛してるけど、男女のそれじゃないからさ。俺は恵美を妹のようにしか思えないんだ。でも佐藤は恵美に本気だって、一人の女として愛してるってわかったから、俺は許したんだ」

 さも当然のごとく正人は言った。

「……そうか」

 兄のような父親のような愛情を持っている正人が、圭吾はうらやましくなった。圭吾は肉親の愛情を受けていないため、そのようなものは持ち合わせていない。美雪が生まれた今、ようやく目覚めた所だった。

「あんた、妻帯者ででかい企業の社長だろ? 何を好き好んでこんな小娘に入れあげてるんだ? 言っちゃなんだが、こいつはたいした美人でもないだろ? 変だぜ、佐藤もあんたも女なんていくらでも掴み取りできそうなのに、なんでそんなに夢中になってるんだ?」

 圭吾は苦笑した。

「それがわかったらこんな醜態をさらしたりはしない。最初はただの興味だった……。あのいつも冷静な貴明が、無防備に心をさらけだす娘とはどんなものかとな。恵美を奪ったようで、実際に奪われたのは私の方だ。恵美は私のこれまでをすべて破壊して、失われていた私の心の隙間を埋めていった。馬鹿に見えるだろうが、私はもう恵美なしでは生きてはいけない。だが会社を放り出す事はできないから、あと十五年はナタリーとは離婚できないのだが……」

 圭吾は自分の傲慢さ、で恵美を不幸にしていると自覚していた。だが人に後ろ指を指されるよりも、恵美を失う事の方が遥かに恐ろしかった。恵美がいなくなったら、再び剥き出しの岩石しか転がっていない、荒涼とした寒い場所へ一人で戻らなければならない。

「わかっている。私が恵美を手放せないせいで恵美は人並みの扱いを許されない。だが私は恵美を愛している。全力で恵美と美雪を護る、決して日陰者になどさせない」 

「……美雪って?」

「その赤ん坊だ」

 圭吾の視線の先にベビーベッドですやすや眠っている美雪を見て、得心がいったように正人は優しい笑みを投げた。

「そっか……」

 少しの沈黙の後、圭吾が言った。

「私には分からない。何故こんなかわいい頼りないものを、捨てる人間がいるのか」

「俺にもわからないよ」

 圭吾は五歳の自分に思いを馳せた。何故母親はあんなふうに自分を捨てたのだろう。

「貴明は恵美が捨て子だった事は知らない。恵美は知られたくないらしくてな」

 やりきれないというように、深いため息を正人はついた。

「恵美は佐藤を心の底から愛しきれていなかった。いつも怯えてたからな……。そうか捨て子だった事を隠してたからか」

 馬鹿だなお前はと泣きたくなるほどひどく優しい顔で、正人は恵美の頭をしきりになぜた。それは確かに父親のような温かさだった。圭吾は椅子をわずかに座り直した。

「仕方があるまい。親に捨てられたという事は自分を殺されたも同じだ。人間以下の存在になったと錯覚しても無理は無いだろう。そんな自分に、明らかに上の世界に居るあの貴明みたいなのが言い寄ってきて愛された所で、常に別れを意識するだろうさ。世界が違いすぎるのが嫌でもわかるからな」

「自分は違うとでも言いたそうだな……?」

「私も親に捨てられたんだ。だから恵美が思っている事はすぐにわかる。恵美もおそらくはな。だから……」

 そこまで言って圭吾はふつと言葉を切った。正人は圭吾の境遇を聞きたそうだったが、圭吾は言う気はない。それを感じ取った正人は聞こうとするのをやめた。

「……あんたが本気なのはわかったよ」

「正……」

「言いたい事は山ほどあるけど、もういい。恵美が幸せなのはこの寝顔見てりゃわかるからさ。こんなに安心しきって寝てるの、初めて見た」

 正人が身を乗り出して圭吾に右手を差し出した。圭吾はその右手をしっかりと握り返した。

「恵美を幸せにしてくれよな」

「約束しよう」

「そうそ、公子も子供産んだらしい。年賀状の写真は家族みんなで幸せそうだった。恵美の事を聞いてた……」

「そうか」

 絆創膏を右の頬に貼付けた顔で正人はにやりと笑い、部屋を出て行った。

「兄、か……」

 何気なく圭吾が視線を落とすと、いつの間にか起きていた美雪が、もぞもぞと落ち着き無く手足を動かしていた。

「ん? どうした……」

 おむつかと見てみると果たしてそうで、どっぺりと濡れていた。圭吾が慣れない手つきで新しいものに変えてやると、美雪はおとなしくなった。

「腹も空いているだろう。恵美はまだ乳が出ないらしいからな……」

 ナースステーションまで圭吾は美雪を抱いていき、哺乳瓶に入ったシロップを受け取って休憩室で飲ませた。温かくて小さな身体を抱いていると、窓が風を受けてカタカタと音を立てた。深夜の休憩室はしんと静まり返り誰もいない。窓の外はきらきらとした夜景が広がっている。

 圭吾はふと、恵美の命が救われた奇跡を思った。雪の降るほどの寒さの中、正人の両親が通りかからなかったら、彼女は凍え死んでいただろう。彼女が生きていなければ貴明と出会う事も無く、圭吾と出会う事も無かった。そして、今こんなにも満ち足りた温かい気持ちで、自分が夜景を眺める事も無かったはずだ。

(愛する存在が居てくれることが、こんなにも自分を温めてくれるものだとは……)

 圭吾は感謝にも似た祈りの気持ちで、いつの間にか自分の腕の中で眠ってしまった美雪を優しく抱きしめた。

「もう圭吾ったら! いきなり美雪つれていなくならないでよ!」

 足音と共に恵美が休憩室に入ってきた。起きたら二人ともいなくなっていたのでびっくりしたらしい。

「すまんな。お前がよく寝ていたから……」

「正人は?」

 不安そうに言う恵美に、圭吾は安心させるように言った。

「お前をよろしく頼むって言って、笑って帰った。連絡先は同じだそうだ。明日にでもまた電話するといいだろう」

「そう……よかった」

「お前に感じが似ていたな……」

「お兄ちゃんだもん」

 また窓が風を受けてカタカタと音を立てた。圭吾は戻ろうと言い、ぐっすりと眠っている美雪を覗いている恵美の背中を抱いた。

 やさしいものが三人を包んでいる。

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