囚われの神子 第5話

囚われの神子


 その晩久しぶりに正樹の夢を見た。映画館や私のアパートへ行ってデートして楽しんでいる幸せな夢。本当はこっちが現実だったのに悪夢が現実になってしまった。夢の中で正樹は美味しいデザートを食べさせてくれたり、好きな本を買ってくれたりした。私はお返しにお茶をいれたり、本を読んであげた。すると正樹が窓の方を見て、誰かが来たよと言った。見ても、揺れる洗濯物しか見えないのに正樹は確かに来ているという。
「ちょっと見るわね……」
 私は誰だろうと思いながら玄関へ向かった。そこで目が覚めた。
 見上げる天井は壁紙の貼られているアパートの天井じゃなくて、白の建築塗料が塗られた離宮の壁だ。
 もっと夢を見ていたかったなと、ため息が出る。それにしても正樹の夢を見るのは久しぶりだ。きっとヘッセル侯爵との結婚を聞かされたからだろう。
 カーテン越しに月の明かりが柔らかく降り注いできて、その静けさを味わうように目を閉じた。
「!」
 誰かいる。人の気配に身体が緊張した。ベルは呼ばれない限り部屋に来ない。グレゴールの相手をしている結衣さんが深夜に訪れるわけがない。泥棒だろうか?
 それは寝台に横たわっている私に音も無く近寄ってくる。とっさにサイドテーブルの上の金属製の水差しを手にした。とりあえずこれを投げつけて逃げよう。
「誰!?」
 月光の影になって、相手の顔が見えない。でも私はその姿形に覚えがあった。
「百瀬蘭」
 甘く響く声が私の名を呼び、びっくりした。
「なんで……!」
 次の瞬間いきなり身体中の力が抜け、寝台にへたりこんだ。指先一本動かせない。動くのは首から上だけ。何かの魔法で動けなくなった身体に怯えながら、静かに自分に覆いかぶさってくる影を見つめるしかなかった。
 月夜の明かりに照らされる、国王グレゴールを。
 これは夢だ。
 夢に違いないと何度も目を瞑ったけれど、グレゴールの身体は私の上にあって確かな体温を伝えてくる。なんで? どうして? 何をされるの。戸惑う私にグレゴールはにやにや笑う。
「おかしな女だ。寝込みを襲われもっと騒ぎ立てるものだと思っていたのだが。ひょっとしてそなた、私を好いていたのか?」
 ……何を言っているのかさっぱりわからない、とにかくこんな所を結衣さんが見たら、いかに私に好意的な彼女でも許さないだろう。だけど私は迫ってくるグレゴールの胸を押しのけられない。嫌な汗が滲み気分が悪くなってきた。
 グレゴールが枕もとの光石を点けると寝台の周りが明るくなり、嫌でもグレゴールの姿がはっきりと見えた。グレゴールの手が私の夜着にかかる。
「術を解くには、この服は邪魔だ」
「いやあっ……!」
「そう嫌がるな。助けてやろうというのに……」
 嫌な笑いを浮かべたグレゴールの手が、私の着ている夜着をするする脱がせていく。首から上しか動かせなくて叫ぶしかない私を、グレゴールは楽しそうに見ながら腕から夜着を引き抜いた。この世界の男は一体どういう嗜好を持っているのだろう。女を手篭めにするのが美徳とでもされているのだろうか。
 グレゴールの手から夜着が床へ落とされた。
「ほう」
 素肌をさらされ、隠したくても隠せないままグレゴールに両足を大きく開かれてしまう。恥ずかしさと恐怖で目を固く閉じた。グレゴールの指が局部の中心をすうっと触れた。
「やっ……!」
 その指は異様に熱かった。グレゴールが自分の指先を舐めて唾液を滴らせた後乾いた秘唇に静かに沈めてきた為、引きつれる痛みで自然にうめき声が出た。それなのにグレゴールは秘唇を抉る指を止めてくれない。
「よいか?」
「いた……やだあっ!」
 どれほどの時間嬲られていただろうか。指は入った時と同じようにいきなり引き抜かれた。涙と恐怖で震える私の目の前で、グレゴールは人差し指の先に歯を当てた。月明かりでその指先に血の球が浮かび上がるのがハッキリと見える。何故自分の指を噛んだりするのだろう。グレゴールはまた例の嫌な笑いを浮かべ、私の目の前スレスレで流れる血液を自分の指全身体に塗りつけ、鉄臭い臭いを漂わせた。
 そして小さくその指先に口づけ目を閉じた。
「我、尊き花の助けを借り、水流れるままに封印を流さんとす」
 グレゴールが何かを唱え終った途端、血で濡れている指先に金色の光が生まれた。グレゴールはその指先を私の額にそっと押し当てた。
 何か気の様ふわふわしたものが額から静かに身体内に入って来る。同時に身体の芯の奥深くに潜んでいた何かが消えていく……。やがて私の全身を包んだのは身体が開放された喜びの様な波動だった。
 何が一体起こっているの。
 身体が喜んでいるのが怖かった。そんな私に何を思っているのか、グレゴールが優しく背中を撫でてきた。その撫で方に覚えがあって恐怖と疑心が心の奥底からせりあがってくる。脳裏に浮かび上がるのは執拗に私を貪った、黒髪の美麗な男。
 ふいに身体が動かせることに気づいてグレゴールから離れようとしたけど、逆に彼の胸深くに抱き寄せられた。
「逃げなくともよい」
 耳にグレゴールの息が触れる。覚えがあるその吐息に身体がびくついた。グレゴールの大きな手が腰に廻り自分の腰とぴたりと合わせる。
 変だ。
 グレゴールは竜族でも、私達の世界の人間でもない。血の魔法がかけられている私に彼の言葉がわかるわけがないのに、どうして今わかるの?
「ちが……ちがう。貴方は……」
 嫌な予感だけが襲いかかる中、グレゴールの唇に耳朶を噛まれた。ちがう! このグレゴールは絶対違う。グレゴールは最初から私なんか目にもないって感じで心底馬鹿にしていて、私と接触するなんて自分が勿身体無すぎるという選民意識の塊だ。でも今の彼は……。
 くすりと低く笑う声とともに、グレゴールの声色が変った。

「聡いですね、神子」
 やはりこの人は。
 逃げようとしても身体を寝台に強く押さえつけられ、公爵の鋭い爪がついた指先が両肩に食い込んだ。
 針に刺されたような痛みが走り、生理的な涙が滲んだ。
「ど……して」
「国王が新しい女に手を出しましてね。光の神子に見つかると面倒だということで、こちらへサヴィーネのお遊びにかこつけて私が連れ出したわけです」
「でも」
 グレゴールは公爵を私から引き離したかったはずだ。変化を解いた公爵は長い黒髪を流しながら含み笑いをする。
「自分に化けてくれたら一度だけ影の神子に逢わせてやる、と言ったのです。新しい愛人は皇太后の侍女で、美人と誉れ高い伯爵令嬢ですよ。あの男は本当にどこまでも抜けている」
「そんなっ」
 それでは結衣さんは幸せになれないではないか。結衣さんはグレゴールを愛しているのに!
「人の心配など無用です。貴女はこれから本当に私の妻になるのですから」
 うむを言わせず公爵の唇が私の唇を塞いだ。どれだけ首を振っても公爵の唇が塞いで舐めて吸って、呼吸すらも奪っていく。彼の両腕を掴んで逃れようとしたけれどやっぱり敵わなかった。いつも敵わないとわかっていても私は逃れようと頑張る。だって私には恋人がいるのだから。
 絶対に帰るんだ。帰る方法は必ずあるはずだ。
「ふふ……その挑戦的な目がたまらない。ねえ? ランはそんなにマサキが好きですか?」
「当たり前でしょうっ。婚約者なんだからっ」
「ふふふ、婚約者ですか。結ばれぬというのに」
 馬乗りになった公爵はゆっくりと服を脱いだ。その身体はいつもと同じように黒いうろこで覆われていて、彼が興奮気味なのが嫌でもわかった。嫌だ、こんな人間じゃない生き物にいいようにされるなんて。
「結婚式を待つ余裕が無くなりました。ですから貴女にかけた封印を解いたのですよ。ああ、封印と言っても解いたのは純潔の封印です。竜の封印は私でも解けません。私が死なない限り」
 鋭い爪が生えている手に両乳房をぐっと握りこまれた。鮮烈な快感と痛みがじわじわと追い立ててくる。首筋を舐めたり吸ったりされながら、ゆっくりと乳房を揉まれて身体は乱れていく。
「うう……あああ!」
「他の男に奪われないように女陰を封印していたのです。ふふふ」
「ああ……あん……あ……」
 首筋から胸に公爵の唇が滑っていき胸を舐めまわし、やがて尖った胸の先を含んだ。歯が軽く噛んできたかと思うと赤く立ち上がっている乳首を強く吸われ、片方は執拗に揉まれて身体がいやに熱くなった。怖い、いつもと違う。公爵から漂う必死さの様なものと段違いな快感がそう思わせる。
 裸の公爵の身体は爪を立ててもかすり傷一つつかない。こんな頑丈なよろいの様なうろこがびっしりと貼り付いていたらそうだろう。
 ぬるり……。
 濡れていた恥ずかしいところに公爵の指を突っ込まれて、必死に上へ身体をずらそうとした。でも僅かに上がれただけで秘唇を嬲る公爵の指が二本に増えただけだった。やはり公爵の指は今日は妙に熱い。熱くて淫靡に動くその指先が、溢れる蜜をかき混ぜてはそのぬかるみ一帯を塗り広げていく。
「いやあああっ……あはっ……はっ……く」
「吸い付くようですよ。指全部飲み込めたら私の欲をあげましょう」
 塗り広げた蜜で濡れそぼっている肉の芽を容赦ない指に擦り上げられ、私は嫌になるほど女の声をあげて公爵を歓ばせてしまっている。彼は私がもがいたり叫んだりするのが楽しいのだ。先程から胸を舐めしゃぶられて、温かな舌が滑るたびにどこかへ堕ちていく心地がする。
「ああおいしい。ランは本当に甘い」
「……やっ……うう、……ぅん……」
 くく……と押し殺すように公爵が笑って私を貪る。嫌だ。嫌だ。悪夢なら早く覚めて!
 その時公爵の身体がふっと離れた。それがチャンスだとわかっているのに手足が痺れて動けなかった。でもどちらにしても逃げ出せなかったと思う。彼はすぐに私の両足を抱えてその内股を舐めだしたから。
「やめ……そんな……そこ……アアっ!」
 柔らかな足の付け根に舌が弾むように滑っている。公爵の荒い息が肌に触れてその部分も熱い。存分に内股を舐めた後、ついに公爵は局部に口をつけて舐めたり吸ったりしはじめた。
「あああああっ!」
 絹を裂くような声を上げて私は震えた。段違いの甘い痺れが公爵の舌の動きとともに身体中を走り抜けていく。唾液と蜜がぬるぬると這い回り、ちいさく突き出した肉の芽を執拗に舐めて吸って噛んだ。
「ああっああっ……いやいや、お願い……」
 公爵の指が蠢いている秘唇の花びらを押し広げ、突き出された唾液たっぷりの舌がゆっくりと秘唇の中へ埋没していく。
「うううっ」
 両足を自分の肩に乗せ、公爵はそのまま顔を埋めて貪りつくしていく。伸びた手が放置されていた乳房をまた揉みしだきはじめた。身体は切ないほどに熱く息づき、気持ちに反して天上に上るかのようだった。
 駄目。駄目。早く逃げなきゃ。でもどうやって……っ!
 小さな芽を何度も何度も舐められ、断続的な痒みに似たしびれで下半身が淫らに溶けて肌が粟立った。何かを掴みたくても両手も震えてシーツの上をさ迷うだけ。これが正樹だったら彼にしがみ付いて幸せだと思えたのに。嫌っている男に身体を嬲られて喜んでいるなんておかしい。
「ラン……」
 わかってる。公爵の固く張り詰めた欲が、ゆっくりと太ももの内側を擦りながら秘唇に狙いを定めているのだと。今逃げなきゃ絶対に駄目なのだと。最後まで逃げようとしている私を見越してか、彼の長い黒髪が私の身体に巻きついて引き寄せられていく。
「ゆるし……あああああーっ!」
 公爵の欲が局部を貫き、一気に最奥に達した。裂けるような痛みは想像以上で歯を食いしばった。寝台には私が流す涙から生まれる黒真珠が、光石に反射してキラキラ輝いて沢山散らばっている。虹色に輝く黒珠は綺麗だけれどこれは公爵の征服の証だ。悲しくてくやしくてたまらない。手に触れるものは全て自分の手に触れないところまで押しやった。
「はあ……っ……ラン……」
 公爵が痛みに苦しむ私に余計に煽られたのか、また唇を重ねてきた。楔のようにずんずんと押し入ってくる彼の欲の存在感は圧倒的で、なす術も無く彼に貫かれて揺さぶられているしかなかった。
 粗末な寝台は公爵の動きに悲鳴を上げてギシギシと軋んだ。汗ばんだ私の身体に公爵の手のひらが淫らに這い回っては愛撫を繰り返して止まらない。
 脳裏で正樹の姿が遠く見えて、消えていく……。
「ははは。ラン、貴女はこれで永遠に私のものだ」
 勝利の凱歌の様に公爵が耳元で囁く。同時に吐き出されたものが私の中を満たし、その感触でようやく苦痛から開放されると思いながら意識を飛ばした。でも公爵は物足りなさそうに、目を閉じた私の瞼に自分の黒髪を振りこぼし、言った。
「これだけでは足りません。……は……ああ! ラン! ラン!」
 狂ったように公爵は意識を失った私にキスを繰り返した。もっと寄越せとばかりに、私の肌の匂いを嗅いで執拗に舐め上げていく。そしてみるみる力を取り戻した自分の欲で、まだ血が流れる秘唇を再び貫き激しく腰を動かし始めた。
「う……う」
 私は眠ったままでまたうめき声を上げた。そしてまた公爵が肌に吸い付いては舐めて……。
 暫く経って目覚めると、公爵の欲がまだ中を犯していたので驚くと同時に怖くなった。そして悲しくなった。痛いだけの、一方的な交わりはなんて虚しいのだろう。
「止め……て」
「止めるわけがないでしょう。は……っ」
 公爵は快感に耐えられぬという顔をする。私には苦痛でも公爵は違うのだ。もう止める力もないのに、公爵は私の両手をシーツに押さえつけて腰を揺さぶった。血と蜜と精の匂いが入り混じった、いやらしい匂いが漂ってきて、もう綺麗な身体ではないのだと再認識させられる。
 まるで真っ白な布に墨をぶちまけられたような。
 公爵は私を抱き抱えてうつ伏せにして、今度は背後から貫いた。痛みの中に確かな快感が混じり始めている。淫乱なんかじゃないのに。それなのに。
「ああっ……ん……はぁっ……ん、ん」
 それなのに胎内を貫く欲に腰が蕩けそうだ。ぬめりが粘膜をさらに柔らかくして、公爵をさらに飲み込もうとしているみたいだ。公爵のあの忌まわしい竜の手が背後から執拗に胸を揉みしだいて、痛い。痛いのに……身体は確かに感じている。それに気づいた公爵が私の耳を舐めて笑った。そしてそのまま首筋に吸い付いて赤い花びらを散らしていく。
 ぐちゅぐちゅ。
 だらりと内ももに流れていくのは、きっと公爵の精だけじゃない。しびれて、暑くて、気持ちが良くて、欲が与えてくれるたまらない愉悦に夢中になりかけている。おかしいじゃないのと叫ぶ私もいるけれど、それを押しのけて交わりに夢中になるのもまぎれもなく私で。
 ああそうか……、これが汚されるってことなんだ。
 新たな涙が黒真珠になってシーツに転がった。
「ラン……っ!」
 公爵の切羽詰まった声と共に、また熱い熱が吐き出された。忌まわしい男の精を私のそこは一滴残らず飲み干そうとして、忙しなく収縮を繰り返した。悦楽に浸されて動けない私に公爵は指ですくい取った精を口に含ませた。苦くてまずいのに、何故か秘唇はまた欲を求めて強くうごめいた。すると今度は肉の芽をぐりぐりと押し潰されて、より熱くなった腰を持て余した。
「あああああっ……やあぁ!」
 また溢れる蜜。公爵に再び仰向けにされて、口付けられた。公爵は私の舌を吸っては舐めてまた吸い上げる。そしてまた固く立ち上がった己の欲で貫いた。
「ふっふふ……、もう私を欲しがって離してくれそうにない」
「うぅ……あ!」
 広がる愉悦のしびれを逃すために、大嫌いな男の背中にしがみついた。また激しく腰が揺さぶられ始めた。
 汗でもう目が開けられない。でも、このまま眠って永遠に目覚めなければいいのに。私はよがり狂いながら思った。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい、正樹。私はもう汚い。
 でも信じて欲しいの。
 私は正樹と幸せになりたかった。
 どうして私の願いは叶わないのだろう。
 外が白々とした光を穏やかに投げかけてくれるまで、私は公爵の執拗な愛撫で泣き、黒真珠の涙を流し続けた。 

 次の日寝台から起き上がれなかった。身体中……特に腰が痛くてだるくて辛かったせいもあるけれど、それ以上に公爵に初めてを奪われたことが一番心に堪えていた。今まではそれに近い行為をされていても越えられない一線があるから耐えられていたし希望があった、でもそれは公爵に奪われた昨夜、木っ端微塵に砕け散った
 もし元の世界に戻れても正樹は私と結婚してくれるだろうか。他の男の手がついた女など気持ち悪いと思われるかもしれない。
 朝まで公爵に翻弄された後、温かな湯が湛えられている浴場に連れて行かれ、身体の汚れや汗を綺麗に洗い流された。公爵の手が肌を滑るたびに心は冷えていくのに、何故か身体は歓んで彼の指を求め熱くなった。
 私はおかしい。公爵に関わると、自分が自分でなくなってしまう……。
「蘭さん、臥せってるって聞いたわ。大丈夫?」
 昼下がり、結衣さんがお見舞いに来てくれた。彼女は本当に優しくて光の神子にふさわしい女性だと思う。
 寝台から起き上がれないほど弱っていたけど、無理に作り笑いをして結衣さんを迎えた。公爵がいない部屋はとても心地いいところなのに、昨夜彼が残したものをそこかしこに発見してしまうから、痛切に部屋を変えたいと思った。でも公爵は世話をしてくれるベルを上手に欺いて見せ、寝台に流れた血液や精液や汗などを綺麗に消してしまった。彼はつけた傷もすべて消し去ったから、ベルは何故具合が悪くなったのか知らない。
 ベルはとても心配してくれたけれど伝える言葉は無い。もし伝えられたとしても、とても真実を告げられなかっただろう。
 公爵に身体を奪われたことも、グレゴールが早速結衣さんを捨てて他の女性に走っていることも、心に重く圧し掛かり暗い闇を広げていた。
 この優しい人達に心配をかけてはいけない。私は声を絞り出した。
「……ありがとう。ちょっといろいろあったから今頃になって疲れが出たみたい」
「そう。本当に私達いろいろあったものね……。そうそう、貴女にとってもいい報告があるのよ。きっととても元気になるわ!」
 結衣さんは目をキラキラさせた。
「いい報告?」
「もうすぐヘッセル侯爵がこちらにいらっしゃるのよ。初対面ってわけね」
 頭を背後から叩かれたような気がした。ヘッセル侯爵。それはグレゴールが決めた私の婚約者の貴族だ。
「……なんで」
 私にとっては悪夢にしか思えない。公爵に純潔を奪われた私が正樹に触れてもらえる価値が無くなった様に、ヘッセル侯爵に嫁ぐなんてできようはずもない。でもそれをを今の結衣さんにはとても言えない。
「なんでって一度も会わないまま結婚なんておかしいじゃない。大丈夫よ、だって蘭さんとっても綺麗だもの」
「私……綺麗なんかじゃない」
 もう身体は汚れてしまっている。結衣さんは暗い表情の私を訝しんだのか、俯いた私の顔を覗きこんでくる。……ああ、この人はなんて美しい人なんだろう。それに比べて私は……。
「あのね蘭さん……」
 結衣さんが何かを言おうとした時、結衣さん付きの侍女がやって来て結衣さんに何かを早口で言った。その口調は丁寧だったけれどどこか横柄で、結衣さんを咎めている様だ。結衣さんは疲れたように頷いて私に向き直った。
「ごめんなさい、こちらの神殿で礼拝の時間だわ。明日には私とグレゴール陛下は別の神殿へ出発なの」
「え? サヴィーネ王女は……」
「彼女は王宮へ一人で帰るわ。結婚した国王夫妻は、国内の主要な神殿を全部廻らなければならないの。面倒よね」
「……主要な神殿?」
「ええ。国王夫妻の最初の義務なんですって。陛下がご一緒だからいいけれど。ちょっと疲れちゃう。三ヶ月もあっちこっち引っ張りまわされるの……」
 結衣さんは巡幸の日程を考えるだけで疲れてしまうようで、深くため息をついた。
「…………」
 ひどい話だと思った。あのグレゴールは公爵だ。グレゴールは結衣さんをお城から追い出して今頃新しい愛人と遊んでいるのだろう。しかもあと三ヶ月は好き放題できるのだ。結衣さんは神子としての義務を果たそうとしているのに、グレゴールは自分の義務を結衣さんに押し付けて放棄してしまっている。
「ごめんなさい。私だけここで遊んでいるみたい」
 頭を下げると、結衣さんは驚いて手を胸の前で振った。
「とんでもないわ。蘭さんに比べたら私は幸せなんだからっ。貴女は殺されかけたんだから休む必要があるのは当たり前よ。そんなふうに思わないで」
「でも、なんか……」
「ダメダメ。ゆっくり休んでね。また巡幸から帰ってきたらここに立ち寄るわね。その頃には元気になっているって約束して?」
「え……え」
 そんな自信とても持てそうも無いけれど、差し出された結衣さんの両手を握り返した。結衣さんは私を元気付けるように明るく微笑み、足早に部屋を出て行く。開けられた扉の外にさっきの侍女が居て、怖い目で私を睨んでいたのが気になった。
 私は再び一人になって寝台に横たわり、これからどうしたらいいか思いを巡らせた。
 まずヘッセル侯爵には真実を告げる必要があるだろう。たわ言と思われても事実は告げなくてはいけない。侯爵が男女の仲をどういう認識で捉えているかはまったくわからないけれど、汚れている女とわかれば結婚は思いとどまってくれるはずだ。
 問題はそこから先だ。
 グレゴールに化けている公爵が居ない間に、この国を脱出するべきだ。あの男の手に届かないところまで逃げ切れたら、そこから元の世界へ戻る方法を知っている人を探そう。ただこれは結衣さんとの約束を破ることを意味するから、彼女の好意に胸が痛む。
 でも自分のことすらどうにもできないのに、彼女を救うなんて出来るわけが無いのだ。だけどひょっとしたら……隣の国へ行けたら、言葉が通じるかもしれない。グレゴールに裏切られた結衣さんを助けてくれる存在があるかもしれない。
 それは幻想の様な希望だった。でも、今の私を支えるのはその消えそうな希望だけだ。
 公爵の思うようになんか絶対にならない。絶対にあの男は許さない。今はとにかく休もう。私は静かに目を閉じた。

 その頃、離宮の客室で王女サヴィーネが、グレゴールに扮するアレックスに話しかけていた。
「ねえ兄上様。影の神子はどうでした?」
「気づいたのか」
「気づきますとも……、今日の兄上様ときたらとてもご機嫌」
 サヴィーネは茶のカップを皿に戻してくすくす笑った。グレゴールの姿のアレックスは、部屋の隅においてある鏡台の鏡に映る自分を見つめた。グレゴールには無い鋭い視線は他の連中の前では出さない。だが確かに自分は浮かれている。あれほど恋焦がれていた蘭をやっと完全に手に入れられたのだから。
「うふふ。でも……彼女はなにか考えているようよ」
「お前もそう感じるのか?」
「ええ。怯えていただけのあの神子に、何か強い光を得たような気配が漂っているの。彼女、そのうち逃げ出すのではなくて?」
 美しいサヴィーネは、優雅に鮮やかな真紅のドレスの裾を直した。普通なら彼女につきっきりの侍女がやるのだが、これが最後だとばかりにサヴィーネは、アレックスと居る時だけは彼女達を追い払うのだ。
「逃げ出すとはどこへ?」
「光の神子が私がアインブルーメへ嫁ぐと漏らしたのよ。この国とは違う国があると判れば、そちらへ逃げたくなるのではないかしら」
「…………成る程」
 アレックスはまた今晩も彼女を抱こうと思った。徹底的にアレックスという男には自分の力がはるかに及ばないと、どれほど蘭を愛しているかを叩き込んで、自分への畏怖を植えつけなればいけない。
 狂気を孕むアレックスの目を見て、サヴィーネは蘭に対して激しい嫉妬を抱いた。今まで気に入らない人間は残酷に痛めつけてきた。だが蘭に危害を及ぼしたら、アレックスは躊躇いも無く自分を消し去るだろうと予想がつく。
(まあどちらにせよ兄上様は、その女の愛など得られるわけが無いわ)
 愛しすぎて叶わない想いは歪み、サヴィーネはアレックスの不幸を喜んだ。禁忌を押しのけて自分を選んでくれたなら、愛される人生を選べたものをと。
 そんなサヴィーネにアレックスが気づかないわけが無い。同じ母を持つ妹の思惑など手に取るようにわかる。愚かな女だと笑いたくなった。蘭が自分を愛する愛さないはもはやどうでもいい、何故なら彼女の感情がすべて自分のものであるということが喜びであるのだから。憎悪であれ悲しみであれ蘭の感情が自分に向けられると、アレックスは普段の自分からは想像がつかないほど気分が高揚するのだった。
(影の神子よ。これからも私を楽しませるがいい……)
 アレックスの目は陰惨に輝いていたが、グレゴール以上にその美貌は際立ちサヴィーネはそんな兄を眩しく見やった。

 その夜、昼に結衣さんがそのうちにこちらに来るだろうと言っていたヘッセル侯爵が、ほんの数人の御つきの者と一緒に離宮に来た。極度の疲労で疲れていたけれど、ベルに着替えを手伝ってもらってなんとか体裁だけは整えた。ただソファに座ったままお会いすることになった。どうしても今は立ち上がれない。
「ごめんなさいね。本当は驚かせようと思って最初から仕組んでいたの。貴女が突然具合を悪くするなんて思ってなくて。中止をって言っても、侯爵はお忙しい方だから予定の変更がつかなかったそうよ」
 結衣さんは申し訳なさそうに謝った。
「いいんです。気にしないで」
「うん。でも、本当に侯爵はいい方みたいよ。侍女達がはしたなく騒いでうるさいくらいだし……。そうそ、私の侍女の一人もそう。昼間私に声かけてきた人が居たでしょ? アメリアと言う名前の人なんだけど」
 だから睨んでいたのか。ようやく腑に落ちた。初対面でいきなり睨まれるのが不思議で仕方なくて、頭の隅にずっと引っかかっていた。
「侯爵は貴女と二人きりでお話されたいそうよ。そんなに心配そうにしないで、あのグロスター公爵じゃないから大丈夫よ」
「はあ……」
「あんなグロスターみたいな男。そうそう居るもんじゃないわ! 絶対貴女を護ってあげるからね。これから食事を一緒にするから出席できない蘭さんの為に、蘭さんのいいところをいっぱい吹き込んでおくわ!」
「ありがとう」
 胸がちくりと痛んだ。私は侯爵に昨夜の事件を打ち明けた後、単身で国外脱出を目論んでいるのから。何も知らない結衣さんは頑張ってねとウインクして、足取りも軽く部屋から出て行った。
 小さくため息をついて、天井の光石をぼんやりと見て目を閉じた。ベルに着させられたドレスは落ち着いたベージュ色で、サテンに似た布で出来たヴァトードレス(肩から裾まで1枚の布がふうわりと背中からスカートの裾まで覆っている)のようなドレスだ。見るからに高価そうで自分とは不釣合いだと思う。ベルは本当は髪も結い上げたかったみたいだけど、私の心中を察してまっすぐにおろしたままにしてくれた。
 もともと私は化粧はうすい方だし、お洒落もあまりしない。だからこんなふうにされると気後れしてしまう。
 どこかまだおかしいところがあるのではないかと壁にかかっている鏡を見た私は、私の背後に人影が映っているのを見て、ぞっとして後ろに振り向いた。