囚われの神子 第07話

 気がついたら、私はがたがた揺れる馬車に乗せられていた。ひどい馬車だった。下は板敷きでその上を黒の金属製の檻が覆っている。焼け爛れた腕はそのまま放置されていて焼け付く痛みが続いている。皮膚は焼け落ちたのかところどころ黒くなっていて、下の肉が露出し血が滲み出ていた。見ているのも耐え難い上、ひどい高熱でとても寒かった。それなのに罪人と認定された私には、毛布一枚も与えられない。

 馬車の横に騎馬の兵士が二名、前後に同じく騎馬の兵士が四名ずつ馬を進めていた。初夏の陽射しは容赦なく照り付けて肌ややけどを焼いた。熱と寒気と痛みで朦朧とする中、檻の隅に移動して背中を預けた。がたんと馬車が揺れ、頭をまともに檻にぶつけてしまっても、誰も気遣ってくれる人はいなかった。

 あの魔法の水は一体なんだったんだろう。

 何もしていないのに。どうしてこんな目に遭うのだろう。結衣さんやベルや正樹が誤解していなければいいのだけれど。魔法が絶対の様なこの世界で、私みたいに魔力がない人間は無力だ。

 おまけに私は忌み嫌われる影の神子なのに。

 農村地帯を通り過ぎて馬車は街へ入った。人々の私を見る目はとても冷たく、腐った果物を檻の隙間から投げ込まれたり、唾を吐きつけられたりした。兵士達はそれを咎めもしない。

 お昼になっても何も与えられず、脱水症状と眩暈を起こして檻の中で倒れた。昼食を食べた兵士達はそれにも構わず出発する。やはり行く街々で同様の目に遭ったけれど、意識を失った私はそれに反応すらできない。

 ただ、細く途切れるような意識の中で、私はここで死ぬんだと……それだけを思った。

 せっかく正樹に再会できたのに。

 公爵から解放されると思ったのに……。

 …………。

 夜半、馬車が着いたのは要塞の様な灰色の石造りの城だった。城は周りをぐるりと水を湛えた堀に囲まれており、馬車を通すために城の内側から架け橋が落とされる。架け橋を渡り城の中を暫く走った馬車は、城の西側に止まった。そこで馬車の檻の鍵が解錠され、気を失っている蘭は一人の兵士に抱かれて城の中に入った。

 中には城の兵士が待ち構えていて蘭を抱き取った。兵士は石造りの螺旋階段を蘭を横抱きにして慎重に下りていく。途中にいくつもの牢屋が現れたが蘭はそこには入れられず、連れて行かれたのは城の中でも最下層の部屋だった。

 蝋燭の灯りのみの部屋の奥に金属製の扉があった。兵士は蘭を片手で抱き抱え、ほとほとと扉を叩いた。

 軋むような音とともに扉が左右に開いた。

 開けられた扉の向こうは、貴族が住まうような豪奢な部屋だった。そしてその部屋で蘭を待っていたのは金髪碧眼の若者で、兵士から蘭を抱きうけて酔ったような微笑を浮かべた。

「ご苦労だったな」

「確かにお連れしました」

「よしなにお伝えください」

 驚くべきことに、兵士が扉を閉めた途端に扉が消滅した。まるで最初からそこが存在しない部屋だったかのように。

「蘭……。もう大丈夫だからな」

 正樹が寝台に横たえた蘭に手をかざすと、黄金色の光の粒子が蘭の身体に降り注がれた。白の竜族は黄金色、黒の竜族は銀色の癒しの力を持っているのだ。大やけどの上脱水状態がひどかった身体は治癒に時間を要したが、やがて元の若く美しい女性の姿に戻り、正樹は疲れたように息を吐いた。魔力を出し続けた指先には白い爪が長く伸びている。

 ぼろぼろの服を柔らかで着心地のいい夜着に着替えさせ、正樹は蘭の横に横たわった。

「ひどく辛かったろうね。ごめん、もう少しでアレックスの罠に引っかかるところだった……。こうするしかなかったんだよ。ギリギリのところで魔術師を買収できてよかった。安心してお眠り愛しい蘭……。俺の蘭」

 正樹の目には、アレックスと同じような仄暗い闇があった。

「ここはマリク王国の隣の国、アインブルーメ王国だよ」

 正樹がにっこり笑って言うのを、私は呆気に取られながら聞いていた。というより全てが夢の中の様な気がする。地獄から一気に天国へ昇ったのかと思うほどだ。

 板敷きの檻の馬車から貴族の住まう豪奢な部屋へ。大やけどで傷ついた身体は正樹の魔力で治療されていて、怪我をする前より元気なくらいだ。優しい陽射しが差し込む部屋の中で目覚め、恋人である正樹……ヘッセル侯爵のキスを受けたばかりだった。

 あんまり私がぼんやりしているものだから、正樹が目の前で手のひらをひらひらとさせた。

「蘭?」

「……これ、夢じゃないよね? 私、死んだのではないよね?」

「当たり前だよ。ちゃんとほら、俺の体温感じるでしょ?」

 寝台の脇に腰掛けた正樹がぎゅっと抱きしめてくれた。優しい温かさでほっとする……、間違いない、私はちゃんと生きてる。

「でも私はどうやってアインブルーメへ来たの? 罪人が国外に行くことなんてできないでしょう? 下手したら正樹も危ないわ」

「蘭は何も考えなくてもいいんだよ。ただ君はグロスター公爵の仕掛けた罠に引っかかりかけた、それだけだ」

「……そうだわ。私、ベルにも何も言ってない……、結衣さんにも」

 寝台から起き上がって降りようとした私は、正樹に押しとどめられた。そのしぐさはとても優しいものだったのに、うむを言わさない何かがあって私は逆らえず正樹を見上げた。

「マリク王国のことはすべて忘れなさい。君には害にしかならない国だ」

「でも……ベルも結衣さんも良くしてくれたわ」

「だからこそだ。彼女達を思うなら接触は危険だ。わかったね?」

「…………正樹」

 額に優しいキスが軽く落ちた。

「とにかくここに居たら安全なんだ。俺の治癒魔法である程度は元気に戻ったけれど、まだ全快には程遠い。だからこの部屋でゆっくり治して欲しい。彼女達のこれからはは彼女達がなんとかすることだから、君にできることなんてない。できるとしたら会わないで居ることが彼女達のためになる」

「……お別れも言えなかったの」

「あの状況で言えるわけが無いよ。グロスター公爵は君に殺人罪を押し着せて罪人に落とした上で、自分のものにしようとしたんだ。そうしたら俺と蘭との婚約解消が容易いからね。俺が親族には頭が上がらないのを見越していたんだ」

 私はぐちゃぐちゃになっていたという、女の殺人事件を思い出して身震いした。

「策略を察知した俺は、牢獄の城へ誘導する魔術師を一人買収して、君を俺の屋敷へ送ってもらったんだ。本当なら君は今頃、またグロスター公爵の屋敷に閉じ込められていただろう」

「でも私は犯人じゃないのにどうしてあの水は……」

「だからそれがグロスター公爵の罠だ。俺だって信じられなかったさ、まさかあんな罠を思いつくとは思っていなかった。まったく恐ろしい執念だ、グレゴール陛下が恐ろしく思われるのもわかる」

 グレゴールの名を聞くと結衣さんが心配になる。そうだ、彼女は今グレゴールに化けている公爵と巡幸しているのだ。何も知らない彼女はあと数ヶ月で辛い現実に直面する。

 なんとかできないだろうか……。

 そうだわ、国の外に出られた今なら、元の世界に戻る方法が見つかるかもしれない。

 扉をノックする音がして、メイドが食事を載せたワゴンを押して入ってきた。

『ご苦労フレイア。そこに置いてくれる?』

 寝台を動けない私に代わって正樹がメイドに指示を出した。私と年が変わらなそうなメイドが明るい笑顔で頷く。

『かしこまりました』

 やっぱり二人の会話がわからない。ふと嫌な予感がして人差し指で上掛けへ文字を綴った。…………綴ろうとした。するとその瞬間、くぼんだ上掛けの布地から炎が噴出した。

「きゃああっ」

「蘭っ……」

 メイドと話をしていた正樹が振り返り、発生した炎を自分の右手から生じさせた冷気で吹き消した。ぶすぶすと煙が上がる中、公爵が私に仕掛けた魔法は国を越えても効力を失っていないのだと知り、怒りと悲しみで目を熱くさせた。

 正樹は焦げた上掛けを退け、寝台の脇に下ろした。

「驚いた……蘭、何をしたの?」

「……私、この国でも言葉を学べないのね」

 公爵の呪いは消えない。彼が生きている限り彼から逃れられないんだ……。黒真珠の涙を零しす私を、メイドがハッと気づいて物珍しそうに注目しているけど、人目などどうでも良かった、ただ、ただ、悔しい。

「蘭、大丈夫だ。言葉なんて通じなくても俺が居れば人と話せる」

「それだと正樹に迷惑がかかるばかりだわ。お荷物は嫌」

 何にもできないお姫様になんかなりたくない。出来るなら元の世界に戻りたい。でも一人で戻りたくは無い……戻る時は結衣さんも一緒だ。結衣さんは家が嫌いと言っていたから、それなら家へ戻らずに再出発したらいい。そうして何もかもやり直したい。

 泣き止んだ時にはメイドは居なかった。正樹が背中をやさしく撫で続けてくれている。零れた黒真珠が辺りに散らばっていて、きらきら光っていた。

「……正樹、私、元の世界に戻れるのかしら?」

 微笑んでいた正樹の顔が翳った。

「ごめん。それは出来ないと思う。過去に定期的に召喚されている記録はあるのだが、元の世界に戻った神子はいない」

「不可能なの? 正樹は私の世界に来ていたじゃない」

 正樹の目が僅かに厳しくなった。

「龍族や魔術師でもほんの一握りの者しか出来ない技術だよ。普通の人間では異空間の転移の衝撃に肉体が耐え切れないし、それを可能にする召喚には生け贄が必要なんだ。若い男女七名ずつ……彼らの血で二人の神子を召喚するんだよ。君がもし帰れたとしても、また十四人の人間の命が消えるんだ。君は死者が出ると聞いても平気なの?」

「生け贄……殺されるの?」

「ああ。平和を与えてくれる光の神子召喚のための犠牲者だ。死者も家族も永遠に讃えられるけど、血が流れるのに変わりない。しかも毎回成功するわけじゃない、失敗することだってある……」

 自分の召喚にそんな背景があるとは知らなかった。

「蘭、君がこの世界から元の世界へ帰りたがっているのはわかっている。でも、どうか犠牲になった人達の命を無駄にするようなことを考えないで欲しい。光の神子に平和の役割があるように、影の神子にもなんらかの役割があるはずだ。それを探さないか? 俺と二人で」

 正樹の青くなってしまった目に深い信念がたゆっていた。私は正樹の話を聞いて、逃げ出したいとしか考えていなかった自分が恥ずかしくなった。召喚した国王は身勝手だけれど、犠牲になった人達には罪はない。公爵は恐ろしい独占欲の塊だけれど、正樹はそんな人ではない。

「……私が人の為になれると思う?」

「もうなってるよ。俺はとても幸せだ……蘭と一緒に居られて」

 大好きな正樹に抱きしめられて目を閉じた。幸せだと思うし、この人が一緒に居てくれたなら幸せになれると思う。でも何かが引っかかる。それが気になって仕方がなかった。その違和感はどんどん大きくなり、私の心をまた蝕んでいく。

 私を抱きしめる正樹の冷たい笑みに、私は気づかなかった。

 

 マリク王国の離宮では、第三師団による捜査が終了したところだった。殺されたのは結局誰かわからないままだったが、魔術師の水の診断により、殺したのは影の神子であることが判明し東の牢獄の城へ搬送された。そこから先はまた別の部署の管轄になっている。

 この事件は最初から異様な雰囲気に包まれていた。

 捜査は一握りの人間だけで行われ、下の者達に詳細は一切知らされないまま、死体の処理だけで終わってしまった。もっともこの国では何者かの隠蔽工作が行われたとしても、下の者は上の者に口を挟めない。徹底した身分制度は末端まで浸透していて、王族、貴族、上官の意見が絶対だった。彼らにもたらされた情報は、影の神子が女を残忍に殺して投獄されたということだけである

 帰っていく師団の面々を見送った後、ベルは蘭が滞在していた部屋に戻った。国王夫妻と共に侍女や騎士達も巡幸に出発して居なくなったため、離宮は前の寂れた雰囲気に戻り、夕暮れ時の今などは特に静まり返っている。

 蘭が連れて行かれた日のまま放置されていた寝台に、ベルは一人腰掛けて小さく笑った。

「馬鹿な女だ……、私の命令を聞いていれば死ぬことはなかったものを。変な同情心や忠義心で私に逆らうから、あのような惨めな最期を迎える羽目になる」

 くすくす笑いながらベルはスカートのポケットから、赤黒く丸い物体を出した。それはなんとくり貫かれた人間の目玉だった。黒目の部分からこびりついた血を指先で拭き、ベルはそれを寝台の上に転がした。

 ベルの目が銀色に光り、その小さな口元が横柄に命令した。

「さあベルよ。お前はヘッセル侯爵が、どこへ蘭を連れて行こうとしていたか知っているな? 私には知らされていない、グレゴールとヘッセル……もしくはマリクとアインブルーメを繋ぐ転移陣がどこにあるか、その目から語るがいい」

 目玉から映像が飛び出し、ベルの前に彼女が生前に知っていた情報が映し出されていく。見終わった後、ベルはその目玉を握りつぶして砂にし、床へさらさらと零した。その爪先は黒く尖り、ベルは軍服を着たアレックスへと変わっていく……。

 アレックスはその砂を軍靴で踏み潰し、蘭を何としても自分から引き離そうとしたベルを嘲笑った。

「ガウネはうまく国王役をやっているだろう。全てを果たした後、私をうまく騙せたと思っていた国王とヘッセル侯爵がどんな顔をするか今から楽しみだ」

 開け放たれたままの窓から強い風が吹き込み、アレックスの長い黒髪と赤いマントを揺さぶった。

 

「蘭、何を思い出しているの?」

「うん……、正樹は覚えていない? レストランで食事していたこと」

「ああ」

 この部屋にきてからずっと正樹といるから、つい元の世界での出来事を思い出してしまう。

 会社帰りで正樹と落ち合って、いつも二人で行くレストランで夕食を摂る。正樹はエンジニアでいつも忙しくて休日が無いようなものだった。それでも私達は愛し合っていたから、時間を何とか作ってはそのレストランで食事を共にして、いろいろな出来事や夢を話し合っていた。

 あの日の正樹は妙に緊張していた。決して流暢に話す方ではない正樹の話しぶりがいつもに増してつまづきがちで、どうしたのかなってじっと見つめたらきまずそうに目を逸らすのだ。そして食事が終わってデザートが運ばれてきた頃、一体何があったんだろうと怪しんでいる私の前に、ひとつの小さな箱が置かれた。

 正樹はとても思いつめた目をしていた。まるで一世一代の賭け事をするような……。

「蘭、これを受け取って欲しい」

「プレゼント? うれしい」

 私はその小さな箱に込められている意味を何も考えず、正樹にプレゼントを嬉しく思いながら箱を開け、中から出てきた紺色のビロードのケースにドキンと鼓動を高鳴らせた。ケースを開けて出てきたのは、予想通りダイヤモンドの指輪だった。誕生石を覚えていてくれたこととこのプレゼントの意味にうれしくなって、涙をこぼしそうになるのを懸命に堪えた。

「その指輪を嵌めて、俺と結婚してくれる?」

「うん……うれしい…………って、え? 正樹!」

 いつの間にか隣に席を移動した正樹が肩を抱いたからびっくりした。そんな私に正樹は困ったような顔をして笑う。

 私は悪夢を見続けたせいで男性恐怖症なところがあって、キス以上を正樹に許していなかった。その時の正樹の抱き方に性的な熱を感じて、私はびっくりしたのだ。今時の恋人同士で一年も身体の関係もなしなんて、正樹もよく我慢してくれたと思う。正樹は気まずそうな私におどけた。

「結婚したらいっぱいやってもいいよな?」

 ロマンの欠片もない言葉だったけど、それには和ませるものが多分に含まれていたから、私は顔を真赤にさせて頷いた。

「その時が来たら怖くないようにするから大丈夫だ。でも、蘭がまだダメって言うなら結婚してからでも待つよ」

「正樹……」

「だって蘭が大事だから。蘭を安心させたいんだ」

 その時の正樹のやさしい微笑みを私は忘れない。何回その後、すぐにでもそういう場所へ行きたいと言おうとしただろう。それくらいあの時の正樹の態度は私への思いやりと愛で溢れていた。

 この部屋にきてから正樹はいろいろと世話を焼いてはくれる。でもどこか心が落ち着かない日を私は過ごしている。他愛のない会話をしているだけなのに、正樹が妙に腕や手を絡めてきてその触り方が性的なのが気になる。正樹はいつも私を気遣ってくれていたから、そういうスキンシップは本当にまれだった。だからそのギャップが私を戸惑わせる。

 そしてまた正樹はこんなことを言い出した。

「結婚式まで待てない……蘭、いいだろう?」

 私は胸に伸びてくる手をなんとか押し留めた。どうしても公爵にされた愛撫を思い出してしまうので、結婚式まで性行為をしたくないと正樹に言っているのに、どうしてわかってくれないんだろう。

「待ってほしいわ。だって正樹、プロポーズの時は私の気持ちがほぐれるのを待つって言ってくれたじゃない」

「……そうだけど、あの公爵が蘭の身体を触ったりやりたい放題したのを消毒したいんだ」

「消毒って……」

 消毒なんで無駄だ、公爵にされた愛撫は身体にしっかり刻み込まれていて、忘れようと努力しても消え去る日なんて来ない。でも正樹は本気でそう思っているらしく、私をきつく抱き寄せて唇を重ねて来た。やすらぎもやさしさもないキスに、私は正樹を拒絶して身体を固くした。

「やめて、お願いだから」

 正樹は私の服に手を掛けて怒った。

「蘭……! 俺達は婚約者同士だろう。どうして拒絶するんだっ!! 俺はもう十分すぎるほど我慢した、公爵につけられた傷なら俺に抱かれることで消えるはずだ」

「それでも……やっ!」

 正樹を突き飛ばして部屋の隅に逃げた。逃げてからしまったと思った。こんなことをされたら傷つくに決まっている。恐る恐る振り返ると、不快げに眉を寄せ睨んでいる正樹とまともに視線がぶつかった。とっさに壁を背に自分をかばった。こんな怖い正樹は知らない。

「あ、ごめんなさい……正樹」

「…………」

 正樹は乱れている自分の衣服を直した。かなり怒っているようで仕草が乱暴だった。私は豹変した正樹にどうしたらいいのかわからなかった。でも、結婚まではどうしたって性交渉は嫌だ。正樹は待つと言ってくれていた。元の世界にいようがここにいようがその言葉は変わらないと思う私はひどいだろうか。

「怒ったの? でも、私どうしても婚前交渉は……」

「グロスター公爵には許したのに?」

 胸に錆びた鉄棒でこじ開けられたような痛みが走った。なんて酷い言葉を言うんだろう。私は進んでグロスター公爵に抱かれたんじゃない。皆無理矢理だったのにそれがどうして許すことになるの。

「本気で言ってるの? それ……」

「泣いたらなんでも許されると思ってるわけ?」

 悔しくて悲しくて勝手に涙が出てくるだけなのに、許されるために泣いているのかと言うなんてひどい。ぼろぼろ黒真珠を零しながら私は言った。

「正樹こそ、何でも力で押し通そうとするなんておかしいわ。そんな人じゃなかったのに」

「元の世界に居た時とは状況が違う……と、言っても?」

「どう違うというの? 説明して」

「……君は理屈っぽい女になった」

 正樹は吐き捨てるように言って立ち上がった。初めて知る冷たさで胸が押しつぶされそうになりながらも、懸命に自分を叱咤して貴族の服を着ている正樹と対峙した。ゆっくりと歩いて私の前に立った正樹は、別人のようだった。

「なあ? 身寄りがない上、罪人の蘭が頼れるのは俺一人だってわかってる?」

 正樹の両腕に挟まれて動けなくなった。光石の影になった正樹の顔は、公爵みたいに目つきがギラギラしていてとても怖い。

「……だから正樹は約束を破るの?」

「状況が変わったって言っただろう? それも理解できないの?」

 左の頬を触られて気づいた。白い牙みたいな爪が正樹の指先から生えている。着崩されているシャツの襟から見える首元にも、びっしりと白い鱗が見えてきていた。しきりに警鐘が鳴り響く中で私は首を横に振った。

「正樹、変わった。髪の色が違っても正樹は正樹だと思っていたのに」

「……蘭。君は本当に俺を怒らせるのが上手だ。せっかく優しくしてやろうと思っていたのにもういい。君は罰を受けるべきだね」

「私は何もしていないわ。勝手に貴方達が罪人にしただけじゃない!」

「言わせておけば……っ」

 肩を乱暴に掴まれたと思ったら、物凄い力で引きずられ、大きな寝台に放り投げられた。それでも広い寝台の上を逃げようとした私の右手の先に、布の裂く音と衝撃が走り、私はさっきのように動けなくなった。

 そこには正樹の腕が寝台にのめり込んでいた……。

 右手の小指がわずかに切れて血がシーツに滲み、それを信じられない思いで見つめる私を、正樹が仰向けに転がした。

「俺に逆らうな。この世界では俺が絶対だ、蘭。俺の言うとおりにしていれば君は幸せだ。何不自由なく暮らしていける」

 嘘だ。正樹がこんな乱暴な真似をするなんて。あの優しい正樹はどこに行ったの? 正樹は……正樹は本当は私が嫌いだったの?

 プロポーズの時に言っていた言葉は嘘? そんなはずないよね? 正樹!

 言いたい言葉は次から次へ溢れてくるけれど、それを声に出せなかった。私はもうわかってるんだ、でも私って弱いからその事実を認めたくない。認めたら私はまた希望を失ってこの世界で生きていけなくなる……。

 おとなしくなった私に満足したのか、正樹はくすくす笑って私の服に手を掛けて、その長い爪で引き裂いた。怖いけど……怖いけど、今だけ我慢したらいい。抵抗しなかったらすぐに終わってくれる。多分終わってくれる。近づいてくる正樹の顔を見ているのが辛くて目を閉じた。

「それ以上、ランに触れるのは止めてもらおうか」

 仄暗い湖の底を思わせる声が、突然部屋に響いた。部屋の隅に消えていたはずの扉が出現していて、その扉を開けて公爵が立っている。正樹が小さく舌打ちして私に上掛けを被せ、裸体を隠した。

「どうやってここへ来た」

 公爵はゆったりと微笑んで部屋に足を踏み入れた。正樹は寝台から降りて私を庇うように前に立った。

 電気が走ったように空気が震え、二人の髪が揺らぐ。公爵は正樹に向かって手を広げた。その手も正樹と同じように龍の手に変化しており、黒く尖い爪先が光石の光を受けて反射する。

「どうやって? 簡単だ。殺したベルに教えてもらった」

「何……っ!!」

「彼女の記憶にはっきり映像になって残っていた。私があの女を殺そうとしている場に居ながら、お前が助けようともしなかったことも……」

 ベルが殺された?

 そしてそれを正樹が見殺しにした?

 どちらも信じられなくて、正樹の後ろ姿を見つめる。開かれた扉の向こうから冷たい風が静かに入ってきた。

「蘭、この男は狂っている。信じてはいけない」

 公爵を警戒して、私に背を向けたまま正樹が低い声で言った。でも私にはわからない。どちらを信じたらいいのかわからない。だって、今の正樹は元の世界の正樹とは明らかに違う。ひょっとすると私が変わってしまったのかもしれない。

 公爵が涼しげに言った。

「たしかに私はランを愛している。だがそれで狂ったりなんかしない。当然だろう? 狂った軍人が勝利を握れるものか。戦場に立った経験のない侯爵には分かりにくいかもしれないが」

 くっと嘲笑した公爵に正樹は怒り鋭い爪が伸びている手をあげた。でもその手は扉の向こうから現れた人々によって静かに下に降ろされた。公爵と同じ黒髪の身分の高そうな男性が、派手やかな騎士達に傅かれながら部屋に入ってきたからだった。正樹が慌てて膝を付き頭を垂れ、私も寝台に居るわけにはいかないと思い、正樹と同じようにしようとした途端に、何故か騎士達に取り押さえられて顎をつかまれた。

 男性が歩いてきて、取り押さえられている私を尊大に見下ろした。

『ほう確かに変わった色彩の娘だ。ほとんど茶色の髪に、色素の薄い茶色にも緑色にも見える目か……』

 男性は騎士に代わって私の顎に手をかけ、さらにじっと覗きこんだ。なんでこんなにじろじろ見られないといけないんだろう。

「陛下、なぜかような場所へ」

 正樹の遠慮がちの声が聞こえた。

 アインブルーメでアインブルーメの貴族の正樹が”陛下”と言うからには、この男性はアインブルーメ国王なのだろう。マリク国王のグレゴールとは違って、尊大さや傲慢さだけではなく、不可侵な威圧感を彼は持っているような気がした。

『焦って異世界の言語で話しているな? 珍しい異国の女をそなたが囲っていると噂になっていたから、わざわざ足を運んだのだが……。ふうん成る程、アレックスが好みそうな娘だな』

 地の底に吸い込まれていきそうな闇色の目は、どことなく公爵に似ていた。目を離したいのに離せず、静かに開放された時にはほっとした。アインブルーメ国王は膝をついたままの正樹に言った。

『ヘッセル侯爵マリオン。アインブルーメ魔術法では、他国との転移魔法は余の許可無く発動することは許されていないはずだが?』

 正樹は、びくりと肩を震わせた。部屋の空気が重苦しいものに変わり、その矛先が正樹に向いている。公爵が静かに言った。

『本当ならば裁判にかけるべきですが、アインブルーメの国王陛下は情け深い御方。数日後に行われる第二王子とサヴィーネ王女の結婚式の余興で、御前試合が開かれることは知っていよう? その際にこの私とお前が戦うことで許して下さるそうだ』

『それは……どういう?』

 国王がさも愉快そうに笑い声をあげた。

『白の竜族と黒の竜族が、一人の影の神子を求めて奪い合っているのだ。竜族同士の決まり事は熟知している。私闘は禁じられているとの話だが、余が許せば私闘ではなくなる。そなたはこの神子の恋人だったのであろう? しかし、一方でこのアレックスがつがいとして契ったとも聞く。この神子は一人しかおらぬゆえ、決闘で決着を付ける以外道はあるまい?』

『そんな馬鹿げた話がっ……、第一彼女は私の婚約者として認知されているはずです! それにその男が何を言ったのか存じませぬが、竜族同士の決闘は……っ』

『どちらかが死ぬまで続けられるのだろう?』

 呆然として顔を青くした正樹を、国王は冷たく見て踵を返した。

『裏切り者のそなたがマリク国王に許可されただけの婚約など、余の前では反故になって同然だ。竜族であっても、貴族の婚姻は余の許可が必要なのは知っていようが。親族のみ了承させて全てがまかり通ると思っていたのではあるまい? 敗戦国の国王と余を貶める気か? そんなに余の命令を聞けぬのなら、白の竜族諸共今すぐこの場で処刑してやるが……』

『陛下!』

『死にたくなければ勝てばよい。お前の命をかけて余に忠誠を誓え』

 自分に向けられている騎士達の剣や槍を見、正樹は悔しそうに顔を歪め、再び頭を垂れた。

『……仰せのままに』

 二人の言っている言葉はわからなかったけど、重大なやりとりが目の前で行われているのはわかる。一体何が起こって、正樹は一体何を承知させられたのだろう。通訳してくれていた正樹は力なく肩を落としていてとても聞けそうもないし、公爵と話などしたくはない。

 不意に目の前に、女性の手のひらが差し伸べられた。数人入ってきていた侍女の一人だった。

『ラン様はこちらへ』

「え?……」

 この世界の言葉はわからない。どうしたらいいのか戸惑っていると、正樹が立ち上がってその侍女に詰め寄った。

『蘭をどこに連れて行く! 蘭は俺の婚約者なんだぞ』

 その侍女は侯爵である正樹に萎縮せず、私の手を寸分も違わぬうやうやしさで取って寝台から下ろしながら言った。

『陛下からのご命令です』

「アインブルーメ国王陛下の命令です」

 侍女の声に公爵の声が重なった。正樹は怒りに身体を震わせながら公爵に振り返った。公爵が相変わらずの微笑みで近づいてきたので、私は距離を取ろうとして後ろに下がった。でも後ろには別の侍女が居て、私は彼女にぶつかっただけで、それ以上後ろに下がれず、あっけなく公爵に抱き上げられた。

「離してっ!」

 私は暴れた。でも額に公爵の人差し指が当たった途端、身体中の力が抜けて動けなくなった。

「御前試合が終わるまで王宮で預かるとの仰せです。良かったです、大事なつがいのランを穢されるわけにはいかない」

 正樹が殺気を発射した。でも国王がいる以上手出しが出ない。

「……っ貴様は奪っておきながら……!」

「関係ない。それにお前は正樹であって正樹でないではないか」

 嫌な予感を思い出した。外れて欲しいのに外れてくれないらしい。また涙が滲んで一粒の黒真珠がぽとりと絨毯の上に落ちた。

「ラン、聞きなさい。元の世界に戻れたとしても、貴女の愛する正樹は居ませんよ」

「……当たり前……です。だって本人はこちらの人で」

 公爵は愛おしくてたまらないという目で私を見下ろした。

「聡いですねラン」

「やめて……」

 これ以上私の希望を壊さないで。聞きたくないのに耳を塞ぐ力がない。

「竜族に伝わる恐ろしい魔法の一つです。丸ごと一人の人間を食べて、記憶や姿形を自分のものにする……。故に彼は正樹であり正樹ではない」

「やめてっ!」

「やめろ公爵!!」

 公爵の言葉を目を固く閉じて拒絶する私に、公爵は残酷に笑った。

「ヘッセル侯爵マリオンは、貴女の恋人を殺した男なのです。純粋な正樹はもうこの世にはいない」

 面白がっている雰囲気さえ漂わせる公爵の声が、私の希望を粉々に打ち砕いた。そんな私を愉快そうに眺めている国王に気を向ける余裕はなかった。

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