囚われの神子 第10話
離宮へ帰ってきた私は、結衣さんに会うことを許されなかった。罪人だからだという。おかしなことを言っていると思った。だって、私の姿と正体を知っている人は私が無罪だとわかっているはずだ。それなのに何故私の姿も正体も知らない人の為に、罪人として過ごさないと駄目なんだろう。
「光の神子は至高の存在。罪人と親しくするなど許されないのです」
結衣さんに会いたいと言うと、公爵は当たり前のように言って笑った。
「貴方が仕組んだのでしょう! ベルを殺して私に罪を被せて……」
「ええそうです。ああでもしないと貴女はヘッセルのものになる。だから中を取り持つ邪魔な彼女を殺して、貴女を罪人に仕立てあげた」
数人の侍女が私にドレスを着せて整えている。私と公爵は日本語を話しているから、彼女達は何を言い合っているかわからないので、聞き耳を立ててもいなかった。その漆黒のドレスは不気味なほどに黒真珠が縫い付けられていて鈍く光っている。私の流した涙なのだろうけど、集めてドレスにするなんてどういう感性をしているんだろう。
ドレスはエンパイアラインドレスのような形で、胸の下に切り返しがあって、ウエストを締め付けないスレンダーなドレスだ。ギリシャ神話に出てくる女神が着ていそうなドレスを、罪人の私が着ている。
「いつまで私を罪人にしておくつもりなの」
「国王次第でしょう。ふふ。今日ほど王宮へ帰るのが楽しみだと思った日はありません」
「つまり、貴方も罪人だから私も罪人のほうが都合がいいっていうの?」
私の質問に公爵は答えず、窓から空を見上げた。今日は青空が目に染みるほどいい天気で、真っ白な雲がひとつもない。
「はあ……」
締め付けがないのは助かる。この世界では、いつもコルセットをつけさせられて大変だった。ベルいつもスタイルを気にしていて、コルセットをきちんとつけていないと、どんな体型になるかわからないのかというような仕草をしてよく怒った。
(ベル……)
とても親切で温かな人だった。彼女と一緒に暮らせたなら、この異世界も悪いものではないと思うほどに。公爵に殺されるのを承知で私を庇うほど、私を思ってくれた。今ついてきている侍女達は悪い人達ではないけれど、ベルほど近くには来てくれないし、来て貰いたいとも思わなかった。変に私と親しくして公爵に殺されたりでもしたらと警戒してしまう。
「出立の時刻です」
公爵の部下の騎士が告げた。公爵はいつもどおりに黒い軍服に緋のマントを翻し、私の右手を恭しく取った。今日は手袋はなく素手で触れる公爵の手が妙に熱いのが嫌だ。侍女も騎士達も礼を取る。廊下を出て表玄関口へ向かう私達に出会う人は、皆膝を付くか直立不動の敬礼を取った。
馬鹿げている、皆何をそんなにかしこまっているの? この男に正義などありはしないのに。馬鹿みたい。そうだった、元の世界にも”正義”なんて御大層なものはなかった。あったのは損と得と諦め、どうやったら人を支配できるか、どうやったら権力者に好かれるか、どうやったら災いを避けられるか、それだけ。それだけは異世界も元の世界も同じだ。彼らは公爵の権力に跪いている。
外には豪華な馬車が二台あった。前にある一台は黒と銀で、後ろにある一台は白と金で装飾された、お伽話で出てきそうな豪華なものだった。それぞれにやはり着飾った騎士達が控えている。
前の馬車に乗り、同じように離宮から出てきた結衣さんを窓から見た。彼女は私とは正反対の白のドレスを着ていた。驚いたことに偽物のグレゴールと妙に仲が良さそうだ。偽物のグレゴールもとても優しげに結衣さんと接している。
「……あれは私の部下のガウネが国王に扮しています。ああやって見ると、光の神子はすっかり国王に骨抜きにされているように見えますね」
公爵が馬車の中で長い足を組んだ。広くとってある車内なので、公爵のブーツの先は私のドレスの先にも掠らない。
「結衣さんは、まだ知らないの?」
「ええ、知らせたという報告は受けていません」
「王宮へあのまま戻ったら……、貴方、一体何を考えているの!?」
公爵が腰に携帯している銀の剣が鈍く光った。と、思ったら公爵に抱き寄せられていた。薄い布のカーテンが下がっているから外からは見えないけど、人目が確かにあるというのに公爵は私に口付けた。
「ご安心なさい。悪いようにはなりません」
「結衣さんを不幸にしたら許さない……」
結衣さんはベルが死んでしまった今、この世界で私を思ってくれる唯一の人だ。公爵は低く笑って私の左手の甲に唇を寄せて舐めた。温かな舌の温度にぞわりと肌が粟立った。
「言ったでしょう? 不幸も幸せも彼女次第と」
「元凶を作ったのは貴方よ……んっ……あ、や! こんなところで」
公爵の手がむき出しの肩を撫で回した後、そこから胸元に滑りこんで膨らみを握った。
「光の神子が憎らしいですね。こんなに貴女に思われているのに気づいていないのですから」
「ゆいさ……手を出さないで……。やだ……あっ。離して」
「あんまり暴れると、馬車の外で控えている者達にバレてしまいますよ?」
公爵に掻き抱かれ胸元をあらわにされた。窓の外を騎士達の影が何も知らずに通りすぎる度、バレやしないかとハラハラする。止めてほしいのに公爵は胸の先を吸いながら自分の片膝で私の股を割って、下着越しに敏感な芽を撫で始める。
「は……ぁ……んんっ」
「とても熱い。嫌だという割には人前で抱かれることに興奮しているのですか?」
「ちがっ! あっ」
意識の遠くで出立の号令が聞こえ、馬車が動き始めた。公爵の指は下着を突き破って柔らかな肉を抉った。ぬるぬるとした蜜は指の刺激を包み込み、熱く指を歓待する。
「ねえ……、ランは気づいていますか?」
「なに、を……」
公爵の舌が耳に移動してぬちゃりと舐めた。隠微な水音で、かーっと頭に血がのぼった懸命に身を捩ろうとして、さらに公爵に強く掻き抱かれてしまう。公爵の指がさらに奥をえぐり、違う指が固くなった芽を蜜毎ぬるぬると撫で回した。
「ああっ……んっ……や、や……ううぅ」
「貴女の身体が熱くなりやすい事実に」
「知らない……────っ!」
唐突に公爵の固くなった欲で貫かれた。びくびくと私の中が公爵を締め付けて、奥深くへ誘おうとする。
「ほら……こうすると貴女は貪欲になってさらに熱くなる」
「いや、はあっ……、ど……してこんなところで……あうっ!」
向かい合わせに貫かれた私は、公爵の膝の上で踊る人形のようだ。
「私も本来部屋の中で行為に及びたいものですが、これから国王に対峙するとなると、血が騒いでならないんですよ。なあに……、周囲を囲んでいる者達も同じ気持でしょう。きっと許されるなら女を組み伏せて襲いかかりたいぐらい、興奮しているはずです」
声を必死でかみ殺している私に対して、公爵は遠慮なく腰を突き上げた。ぐちゃぐちゃと粘り気のある音がして、それが外に聞こえそうで恥ずかしい。見えなくても何をしているかもうバレていると思う。
ふ……と宙に浮く嫌な空気に包まれた。きっとあの転移陣の中に入ったのだろう。吐き気を催すそれに、思わず嫌いな公爵にしがみついた。自分の中に息づく公爵が妙にリアルで、それが吐き気に拍車を掛けた。
「くっ…………」
公爵の欲がびくびく震え、中で出された。
「可愛いラン。もうすぐです。もうすぐ貴女は本当に幸せになれる」
公爵はキスを落とし、自分の衣服を整えた後、私のドレスと破けた下着も丁寧に直した。
ガラガラと車輪が道を走る振動が戻ってきた。もうマリク王宮は近いはずだ。でもなかなか力は戻ってこない。おそらく公爵は私が王宮内で下手に動かないようにと考えたのだろう。
一体何が起こるの……?
ぼうっとする頭で私は考える。私を後ろから抱きかかえている公爵の手は竜の爪が鋭く伸びていて、彼がこれから起こることに、常に無く血をたぎらせているのがわかる。職務放棄と王妃をたぶらかした罪が公爵にかかっている。それなのに堂々としている公爵はすでに用意周到に、それこそ何年も前から今日を予測していたとしか思えない。その一端に私の存在もあるだろう
下腹部が異様に熱くなって身動ぎする私を、公爵は優しく抱きしめ直した。最近の私は身体の調子が悪い。あのまずいページャスープはちっとも効果がないのに、今朝も無理やり飲まされた。公爵に抱かれるたびに重だるさがまして、指一本動かせなくなる時間が長くなっていく。
「何も考えなくていいのです。ランはすべてを私に任せていれば幸せになれる」
「…………」
私を不幸に突き落としておいて、どうしていつもこの男はさも幸せそうに笑うのだろう。
やがて王宮に到着し、馬車は沢山の人々の中で静かに止まった。
「降りますよ」
私を抱いて馬車を降りた公爵を迎えたのは、沢山の金属音と異様に張り詰めた空気だった。王宮へ入るには五十段近く続く階段を上らなければならない。その階段にも上にも沢山の騎士達がひしめき、公爵に対して抜いた剣や槍を向けているのだ。公爵に付いてきた騎士達も剣を抜こうとしたが、公爵の手がそれを押しとどめた。
「グロスター公爵。貴方を国家侮辱罪及び国王侮辱罪、不敬罪、王妃侮辱罪、職務放棄の罪、反逆罪により逮捕させて頂きます」
階段の一番上から、銀色の軍服を着た長い髭の男性が凛とした声で言った。王宮の門に押し寄せていた民衆から怒涛のようなざわめきが起き、次いで怒号が何故か沸き起こった。
「静まれ! この者はあろうことか偽物の陛下と妃殿下を仕立てあげ、己の利益のみを重視して隣国のアインブルーメ国王と通じているのだぞ! さらに侍女をなぶり殺しにした影の神子を妻にするなど、反逆の意志が十二分にあるのだ。いかな陛下でもこの度の公爵の所業は庇われるなどできはせぬ!」
「おだまりなさい!」
さらに何かを言おうとした男を、快活な女性の透き通った声が止めた。振り向くと、馬車から降りてきた結衣さんが、偽物の国王と共に私達の隣まで歩いてきた。門から離れているけれど、民衆達が光の神子を見てざわめきを大きくした。
「偽物の光の神子か。態度だけは大きいようだな」
「おだまりと言っているのが聞こえないのですか、ブーテナント将軍」
白いドレスを着た結衣さんは太陽の光を受けて輝き、まさしく光の神子そのものの神々しさを湛えていた。騎士達は光の神子を前に命令を忘れ、何か小さく囁き合っている。
「皆の者、騙されてはいけません。こちらにおはします陛下こそが本物。今王宮に居る者こそが偽物なのです」
「貴様……っ、なんということをっ!」
ブーテナント将軍と呼ばれた男が、卒倒しそうな怒りを爆発させた。でも結衣さんはひるまない。
「私の言葉が嘘だと思うのなら、このマリクの至宝と呼ばれる宮廷魔術師長のエグモントに正体を暴いてもらいましょう。光の神子である私の命令です。陛下と宮廷魔術師長をこちらへ」
結衣さんは何を考えているのだろう。明らかにこっちの国王が偽物だというのに。ガウネに心を完全に奪われてどうかしているに違いない。でも私は公爵に横抱きにされたままぴくりとも動けなかった。公爵に何かされたのかと見上げ、公爵も動けないのだと気付いた。
「公爵の足元に、竜の動きを封じる魔法陣が発動しております、陛下」
結衣さんが偽物の国王に言った。偽物の国王はそれを見て笑い、人差し指を公爵の足元に向けて十字に切った。途端、しびれるような振動が走って公爵が私を抱え直した。
「このような物。解くのは容易い」
それを見ていたブーテナント将軍は顔を真っ青にした。そして慌てて王宮へ入っていく。おそらく国王と宮廷魔術師長を呼びに行ったのだろう。ざわめきがさらにひどくなる中で、公爵は私を横抱きにしたまま偽物の国王に跪いた。
「……国王陛下、王后陛下」
「構わぬ。まず余は、王宮に巣食う偽物を退治せねばならぬ」
頭が混乱してきた。ひょっとしてこれは本物ではないのだろうか。でも公爵は自分の部下だと言っていた。だけど自信満々に正体を暴かせるなんて言っているし、本物はガウネでずっと幽閉されていたとかそんな秘密があったのかも。ううん、そんなこと、長年公爵が知っていて黙っているはずがない。とっとと公表してグレゴールを追い払ったほうが、公爵にとっても都合が良かったはずなのだから。
皆同じように戸惑っている。戸惑いのざわめきはとても大きなものだった。しかし、階段の上に現れた国王を見て、悲鳴のようなざわめきに変化した。
なんと、宮廷魔術師長がかしずいているのはそっくり同じ国王夫妻だった。
「どっちが本物だ?」
「王宮から出てきた方ではないのか? 偽物が王宮に入れるはずがない」
「だが、こちらの国王は宮廷魔術師長が作った魔法陣を破ったんだぞ」
「だがしかし……」
階段に並んでいる騎士達は驚きを隠せないようで、私語を繰り返した。国王夫妻の後に続いて出てきた貴族や役人達もだ。どちらが本物であるにもせよ、国の権力者であり象徴である国王夫妻を真似たのだから死罪は確実なようで、早くも刑の内容を口にする騎士も居た。
国王と結衣さんにそっくりな女が、宮廷魔術師長を従えて階段をゆっくりと降りてきた。
「アレックス、そなた、引き際をわかっておらぬようだな。余と結衣を巡幸に出さずに幽閉した罪は重いぞ。しかもアインブルーメと密約を交わしているだろう?」
「そのままそのお言葉をお返ししましょう。偽物風情がいつまでも出張っているのは国の安寧にかかわります。潔く罪を認めれば命だけは助けてあげましょう。光の神子に扮しているお前もだ」
偽物の光の神子はびくりと頬を震わせたけど、国王はむっとして公爵を睨んだ。それはそうだろう彼は本物で、ガウネが化けている国王のほうが偽物なのだから。
「そのしたり顔も飽いた。エグモント」
「は……」
この老人には見覚えがある。召喚された時に国王と一緒にいて、乱暴をしないように配慮してくれた人だ。宮廷魔術師長で国の至宝と言われるからには、相当の魔力を維持しているのだろう。大勢の人々が固唾を飲んで私達を見守る中、エグモントが何かを空中に描き、黄金に輝く鳥を出現させた。かなり大きな鳥で、翼を広げたら三メートルほどはありそうなその鳥は、エグモントの右肩に静かに止まった。
「まず、外から帰ってきた二人よ。そなたらは虹の紐を結わえていよう。それを出しなさい」
虹の紐とはなんだろう。そう思っていると公爵が私の耳元に囁いた。
「虹の紐とは、巡幸先の神殿で一本ずつ巫女から捧げられるヨリ糸を、一本に編んだものです」
「神殿から……」
「いつの間に貴女は、この世界の人間の言葉がわかるようになったのですか?」
しまった。私は両手で口を塞いだ。見下ろす公爵の漆黒の目が冷酷な光を放つ。動けるようになっていると気付いて、そのまま公爵の腕から逃れるように飛び降りたけど、すぐに抱き寄せられた。
「今、不穏な動きを見せたら、躊躇いなく騎士達は貴女を斬ります」
「…………!」
「知らないと思っていたのですか? ヘッセルが貴女に告げた言葉を。愚かなラン。貴女の飲んだ黒真珠は彼の血に浸っていたのではない。この私の血が浸されていたもの。何故すり替えられているかもしれないと思わなかったのです」
「そ……れは……」
「ふふふ、まあ後でじっくりと聞くことにしましょう」
結衣さんがエグモントに虹色の紐を渡している中、私は公爵の腕の中で震えが止まらない。でも皆国王夫妻と偽物夫妻に注目していて、誰ひとり私の様子に気づいていない。エグモントが結衣さんから紐を受け取り、その黄金の鳥の嘴に食わせさせた。
「この鳥は真実のみを語る霊鳥ジーク。皆も知っていよう」
重々しくエグモントが言った。ジークが翼をはためかせ、その羽風で粉塵が舞った。
「真実の国王が王宮の地下の牢獄に閉じ込められて巡幸に行けなかったか、それとも巡幸に行っている間に偽物が王宮にのさばったのか、このジークが教えてくれよう。この虹色の紐を持つべき相手にジークは舞い降りようほどに」
おお! と皆の間から賛同の声が漏れる。余程このエグモントは信頼を得ているらしい。国王が満足気に頷いた。
「それは良い。そなたらも異存はないな?」
「もとより」
結衣さんもガウネが扮する国王も頷く。公爵がゆっくりと口元に笑みを浮かべ、声を押し殺して笑った。ジークがエグモントの肩から飛び立ち、まっすぐにグレゴールの傍まで飛んでいく。グレゴールは余裕の表情でジークに左腕を差し出し、その腕に止まらせた。
「おお!」
「やはりあちらが本物だ!」
非難の視線と怒号が結衣さんとガウネ扮する国王に集中する。剣や槍が私達に向けられた。
「そんな……っ、どうして。私達が本物の筈なのに!」
結衣さんが怯えと驚きを顔に滲ませて、偽物の国王にしがみついた。それなのに公爵は身じろぎもせずにじっとしている。どういうこと? 偽物だとばれて好都合とだとでも言うのだろうか?
グレゴールが公爵に嘲る視線を向けた。
「アレックス。そなたは優秀過ぎる弟だった。幾多の戦火をくぐり勝利に導いた功績は大きいが、そのせいで慢心したな。偽物を率いて余を王宮から追いだそうとするとは……」
近くの近衛兵から抜き身の剣を取り上げ、グレゴールは公爵の首筋にその刃を当てた。公爵はやっぱり動かない。
「何か遺言はあるか? アレックス」
「ございましょうとも」
「ほう? 何だ?」
「ジークから紐をお受け取り下さい。本物の国王にのみその鳥は虹色の紐を渡すでしょう」
「なんだと……?」
グレゴールは自分の左腕に止まっているジークを見た。ジークは嘴に紐を加えたままじっと国王をその翡翠の目で見つめている。グレゴールが曲げている左腕の先を伸ばし、手のひらを広げた。
しかし、ジークは紐をグレゴールに渡さず、代わりに辺り一面が虹色の炎に包まれた。私達も包んだその炎はちっとも熱くないのに確実に燃えている。ジークがグレゴールの手から飛び立ち、何故か結衣さんの方へ向かって飛んできた。そしてその紐を差し出された結衣さんの手に落とす。
「馬鹿なっ……! 余が真の国王であるのだぞ!」
グレゴールが目を剥いた。非難の目がグレゴールに移った。それは結衣さん達に向けられていたものよりも強い。それはそうだろう、巡幸していた本物が疲れて帰ってきたところを偽物呼ばわりして王宮にいたのだから。
エグモントも慌てている。ジークに向かって何か呪言を唱えたが擦り抜けるばかりで、何の効果もない。
「やはりこちらの方が本物なのだわ! だって陛下はずっとお優しかったもの。最初はとっつきにくい方だったけど、でも途中からはとても親身にお労りくださったわ」
結衣さんが誇らしげに言い、本物であるはずのグレゴールに憎しみの目を向ける。グレゴールは顔を真赤にして怒鳴った。
「黙れ! たかが異世界の小娘風情が何を言う! 余は生まれながらにこの国の王なのだぞ。そのような偽りに肩を貸す鳥など殺してしまえっ」
ジークが威嚇するような鳴き声をあげた。その甲高い声には非難の波動が多分に含まれていて、信仰に厚いマリクの人々の国王への不審を煽った。グレゴールと偽物の光の神子の女は、大勢の人々から憎悪の目で見られて後退りする。エグモントはその主君を庇おうとして二人の前に立った。
「皆の者落ち着け。この方は確かに国王陛下である。きっとわしの魔力が衰えて……」
「そ、そうだ、そうに決まっている! その鳥はジークなどではない、悪魔の鳥なのだっ」
グレゴールが、王の威厳をかなぐり捨てて必死に叫んだ。大人の男としてもその姿は見苦しいことこの上なく、普段グレゴールに使えていた近衛兵や貴族達の目にも耐えうるものではなかった。でも私にはグレゴールをそこまで動揺させる理由がよくわかる。自分が本物だと言っても誰も信用しないのだ。今まで誰もが自分に畏敬の念を払って接したというのに、この偽物のグレゴールの前では何故か不審者を見るような目で見られたらたまらないだろう。でも偽物の光の神子のおどおどとした振る舞いがグレゴールを偽物に見えるように拍車をかけてしまっている。しかもこの醜態では誰もが疑っても無理はなさそうだ。
公爵が小さく笑った。
すべてが因果応報とはいえ、公爵がやっぱりそら恐ろしい。この男は敵とみなした人間には一片の情もない。
「御覧なさいラン。あれは日頃から皆国王としてのグレゴールに不審の目を抱いていたという証です。これっぽっちの策略でこうも変わるのは、それだけ皆あの男を国王にふさわしくないと思っていたからなのです」
「でも、あちらが本物だわ」
私達の会話は、怒号が飛び交う中では二人の耳以外の何処にも聞き咎められない。皆が皆グレゴールと偽物の光の神子を非難している。
「血筋が本物で自堕落な国王より、良い治世を行える偽物の方が皆支持します」
「ガウネという人がそうだとでも?」
「少なくともあの本物よりはふさわしい。あれは幼い頃より私が薫陶した竜です。遊び暮らして碌な帝王学を知らぬ本物より余程国を治めていけるでしょう」
「貴方が背後であの偽物を操って……」
「ふふ。ランは何もわかっちゃいない。本物とて皇太后の一族に支配されているに過ぎません。それが私に変わるだけです」
「そんなもの誰が望むというの?」
「貴女以外はほとんどが皆、と申し上げましょう。私一人で事は成せません。誰だって話の聞きがいい君主を求めます」
やるせない気分だ。もう変えられないのだ、これは。グレゴール自身がこうなる不幸の芽を普段から撒いていたのだから。
ぱしり。
火花が散る音がした。
結衣さんがグレゴールを平手打ちにし、グレゴールは目を見開いてそんな彼女を見返している。
「往生際が悪いわ。いい加減認めなさい、偽物は貴方でしょう?」
「そなた……」
「本物の陛下をずっと青光の塔に押し込めて楽しかったの? 大変な巡幸だけを陛下に押し付けて貴方は幽閉されていたですって? よくもまあそんな都合の良いことが言えるわね! 本当は王宮で遊び暮らしていただけでしょう!」
「何を、この……」
炎に包まれたままグレゴールは結衣さんに詰め寄ったけど、結衣さんから発せられる光のバリヤーのようなものが、グレゴールの手に握られていた剣を弾き飛ばした。そこへ公爵が私をガウネ扮する国王に預け、私達を庇うように立ちはだかった。
「逃がしませんよ、神子」
その隙に逃げようとした私はガウネに強く抱きしめられた。
「離してっ」
「主の命です」
「あの男は悪魔よ!」
「悪魔でも私の主です」
今しかチャンスが無いというのに……!
ジークが羽ばたき、その風が公爵の緋のマントと長い黒髪を揺らした。
「本物を巡幸へ行かせて、一部の者しか入れない王宮の一角で、偽物の光の神子に仕立てあげた新しい愛人と遊び暮らしていましたね? この国のために尽くした私を陥れるために無理難題な命令……、 戦争が終わったら用済みなのですか? しかも、鉱物、水脈など地下の恵みをもたらす影の神子である蘭を、こっそり処刑しようとしたでしょう? それを私に阻まれて、今度は隣国の侯爵に下げ渡そうとしましたね?」
「ば、馬鹿者が。誰がそのような」
「影の神子は召喚と同時に地下の恵みの在処を魔法図の上へ指し示す。それさえ知れば用済みと踏んだのでしょう?」
私は初めて知る事実に驚いた。そんな地図はあっただろうか?
「そのようなものは知らぬぞ!」
肺腑から叫んだグレゴールは、本当に知らなかったのかもしれないと私は思った。でも皆グレゴールが否定すればするほどそれは本当なのだと思うように公爵に仕向けられている。
次から次に暴かれるグレゴールの罪状にあんなにうるさかった怒号が止み、騎士達も貴族達も民衆も寂として声もない。常に国を勝利に導いてきた公爵の地位は、身分制度の厳しいこの国でも国王と同等か上であり、神にも等しい。それだけに威厳に打たれて何も言えないのだ。