天使の顔のワケあり物件 第01話

 バスが停まった。乗客が次々と降りていく中、栞も定期券を運転手に見せて降りた。観光地の駅前通りにあるこのバス停は、降りる客も多いが乗る客も多い。さらに朝のこの時間帯は、出勤するオフィスワーカーと観光客で混雑し、どこもかしこも、人、人、人だ。さらに車道には渋滞している車、バイク、その横を通り過ぎる自転車があり、スクランブル交差点ではそれらが入り混じって、信号がなければ、いつ事故が起きても不思議ではないような殺伐とした空気が漂っている。

 今日も暑くなりそうだ。ビルの隙間から照りつける太陽を見て、栞は帽子を被り直しながら歩いた。

「おはよー!」

「あ、おはよう」

 後ろで喋っているのは、同じ部署の二人だ。あまり話したことはないが、いつも明るく楽しそうで羨ましい。

「今日は電車が遅れてさー」

「さっきスマホで見た。信号の故障だってね? あ、前歩いてるの増田さんじゃない? 増田さんおはよう」

「……おはようございます」

 振り向いて栞は二人に挨拶をする。

 栞達とは反対方向に、観光客がキャリーケースを引きずりながら駅へ向かって歩いていく。この辺りは一等地で、建っているホテルもミドルクラスから上のホテルばかりだ。他には百貨店やショッピングモール等の大きな商業施設、様々な企業が入っているオフィスビルの間に、古くからある店舗が挟まるように建ち並んでいる。2つ目の信号を左に曲がり、その通りの一番突き当たりに、栞達の勤めるホテル飛鳥(ひちょう)が建っているのだった。

 栞は他の社員達と一緒にホテルの裏の社員通用口から入り、守衛に社員証を見せ、挨拶を交わしながら更衣室へ入った。今日はやたらと人が多く不思議に思っていると、一列向こう側のロッカーから、

「今日は月一の朝礼がある日だから、夜勤の人も居て窮屈だわ」

「日勤も迷惑だって」

 おそらく日勤の社員と、夜勤専門だと思われる社員が笑いながら言いあう声がした。

 栞はつい一週間前にこのホテルに入ったばかりなので、朝礼は初めてだった。

「総支配人の方針だからしかたないわよ。正社員も、準社員も、パートアルバイトも、月一のこの朝礼には絶対に出なきゃいけないし。面倒くさいけど、出ないとお給料減っちゃうからね」

「いい人だもんねー総支配人。私こんなホワイトなホテル初めてだもん」

「だよねー」

 珍しい会社だなとだけ、栞は思った。

 朝礼が行われるのは、ホテルで一番大きな第一ホールだった。ホールへ入ると、もうすでに多数の社員たちが来ていて、それぞれ話している。

 朝礼が始まる3分ほど前に、総支配人と思しき男が入ってきた。

 女子たちが浮き立った声でざわめく中、栞も目を奪われた。

「素敵でしょ? 総支配人の仙崎奏(せんざきかなで)さんよ」

 同じ部署のおばさんが栞に声を潜めて言う。栞はぼうっとしながら頷いた。

 辺りを払う美男子とはこのような男を言うのだなと、思わせる存在感だった。すらりとした長身を品のいいスーツで包み、涼やかな目元を和ませて挨拶をしているその姿は、明らかに他の男性達と一線も二線も画している。

 朝礼の内容は、大体がいつもチーフが言っていることだったが、大まかな方針の方は栞には初耳だったので、それも珍しかった。

「では今月入社した社員の挨拶になります」

 正社員だけが挨拶をするのだと勝手に思っていた栞は、隣のおばさんに肘で突かれてハッとした。どうやらパートアルバイトまで、前に並んで挨拶をしなければならないらしい。自分一人ではなく、十名ほど居たので、上がり症の栞はほっとした。

 管理部、調理部、テナント部、サービス部と続き、最後が栞の勤めている部署だった。

「清掃部に入りました、増田栞です。よろしくお願いします」

 頭を下げると、先に挨拶した社員たちと同じような拍手が返ってきた。最後というのは緊張したが、なんとか無事に挨拶をし終えて、栞は頬を抑えながら息を吐いた。

 それを最後に朝礼は終了した。総支配人は秘書を伴って一番先にホールを出ていく。何故こんなに気になるのだろうと思い、ある事に気づいて、栞は苦く口の端だけで笑った。愚かなことだ。どうしたって抜けないものがある……。

「今日一日は、総支配人がいつもより長くホテル内をチェックして回られるから、仕事は気を抜いちゃだめよ」

 同僚たちが嬉しそうに笑う。

「いつも抜いてないし、緊張するだけだわ」

「そんなずっといらっしゃらないから、気にする必要ないわよ。時々褒めてくださったりするし。注意されてるおばさんも居るけどね!」

「あんたねー」

 こんなふうにぽんぽんと言える性格だったら、ストレスなど溜まらないだろうなと、栞はうらやましくなった。自分はどうしてもこんなふうにはなれない。

 その日、栞は5階の右から8部室が清掃担当だった。皆、シングルルームだったので、ベッドメイクから何から何まで自分一人の作業だ。ダブルベッドやキング、クイーンサイズがある部屋だと、とても一人ではシーツを整えられないため、二人でやることになっているのだが、それ以外の浴室とトイレの掃除、アメニティのチェック、床の掃除機がけ、ゴミ捨て、拭き掃除等は皆一人でやることになっている。

 中々人に打ち解けられない栞は、一人で仕事ができるのを喜んでいた。ミスがあっても皆自分の責任で、相方に文句を言われたりせずに済むし、人の時間を奪ってしまう罪悪感もない。栞のような性格の人間には、この仕事は最適だった。

 しかし、それが裏目に出ることもある。

 一番最後の部屋でそれは起こった。その部屋の宿泊客は連泊で、戻ってくるのは16時だと栞はチーフより確認を取っていた。時計は15時より前で、シングルルームだと大体30分で清掃完了する栞は、安心して部屋へ入ったのだが、何故かベッドのメイクを終える頃に宿泊客の若い男が部屋へ入ってきたのだ。

「あ、あんた可愛いねー」

 あきらかにオフィスワーカー風の男は、スーツの上着を脱ぎながら栞に近寄ってきた。酒などは飲んではいなさそうだが、女にだらしなさそうだ。今まで連泊客に遭遇したことは度々あったが、今回の男は違った。栞が思い出したくない男を彷彿とさせる嫌な笑みを浮かべていたからだ。

 恐怖を押し隠して、栞は言った。

「申し訳ございません。まだ清掃が完了しておりませんので、喫茶店などでお待ち願えますか? 完了しましたらフロントに……」

「いーんだよ、ベッドさえ完了してりゃさ!」

 明確な意思を持って近寄ってくる男から、栞は逃げようとしたが、運動神経が悪いことが災いして、呆気なく捕まってしまった。

 メイクし終えたばかりのベッドに押さえつけられ、内気なうえ気が弱い栞は叫ぶこともできず、ガタガタ震えるだけだ。叫んで助けを呼ばなければと思うものの、声が喉からどうしても出てこない。

 心の中では嫌だ嫌だと叫んでいる。それを出せばいいのに、どうしても出来ない。男はそれを同意と取ったのか、いやらしい顔で満足そうに笑い、栞の作業着を脱がしにかかってきた。

 その時、開けられたままのドアをノックする音がした。

「あ? ……くそ、ドアが開いてたのか」

 栞をものにすることしか考えていない男は面倒くさそうに言い、そしてそこに立っている男に硬直した。

 総支配人だ。後ろに秘書と重役が数名居る。

「お客様。当ホテルでそのような行為はご遠慮願いたいのですが」

 丁寧な言い方だったが、いやにドスが効いていた。

「や、違うんですよ。彼女から誘ってきたんです」

 下手な言い訳だ。

「彼女の顔を見ると、どう見ても同意にも、誘ってるようにも見えませんが?」

 総支配人は、ゆっくりと絨毯を踏みながら部屋へ入ってきた。男は栞を放し、懸命に自己弁護をするが、どう聞いても穴だらけで、秘書も重役達も渋い顔をしている。そのうちに秘書が携帯端末で呼んだガードマンが二人やってきて、懸命に言い訳をする男を連れ去っていった。

 男の声が聞こえなくなった頃、栞は秘書に抱き起こされた。秘書は女性だった。総支配人が優しい声で言った。

「たまたま巡回中で鉢合わせたからよかったものの……。大丈夫? とは言い難いですね。山下さん、医務室へ連れて行ってやってください」

 泣くことも出来ず、青い顔をして震え続ける栞を見て、秘書の山下も痛ましそうな顔をしている。

「こんな事が当ホテルで起こるとは残念ですな。通信機器付きの防犯ブザーなどを、社員に持たせたほうがいいのではありませんか?」

 重役が言う。

「そうですね。会議に出しましょう。あと、宿泊客のブラックリストの見直しも検討が必要ですね。彼がどこの会社の者かも」

「はい」

 その話し合いを背後で聞きながら、栞は山下に連れられて医務室へ向かった。エレベーターに乗って下へ降りる。医務室はホテルの3階にあった。

「石田さん。清掃部の増田さんの具合が悪くて、診ていただけますか?」

 まだ宿泊時間ではないので誰も居らず、栞は医務室のベッドに横になることが出来た。山下が事情を説明してから部屋から出ていく。医師の石田は若い上に男性だったが、不思議と怖くない雰囲気を持ち合わせていて、質問に答えているうちに身体の震えも大分収まってきた。

 電話が鳴り、いくつかの応答のあと、石田がベッドへ近寄ってきた。

「しばらく休んで行きなさい。主任からの電話では、もうこのまま帰っていいそうです」

「……はい」

 カーテンが引かれ、栞は目を閉じた。

 次に目が覚めた時は、夜になっていた。具合はとても良くなっていたので栞は飛び起きた。起きたのを気配で感じた石田がカーテンを開けた。

「随分具合が良くなったみたいですね。総支配人、彼女目覚めましたよ?」

 総支配人?

 栞が慌てている間に、総支配人がカーテンから覗き込んできた。

「本当ですね、顔色が良くなっている。良かった」

 ほっとしたように総支配人は言うが、そんな上の人間に見舞われたくない栞は、早くどこかへ行ってほしいと切実に願っていた。石田が笑った。

「まあそう怖がらないでやってくださいよ増田さん。総支配人はとても心配されていたんですから。あと、お迎えの人も居ますよ」

「お迎え?」

 栞は一人暮らしで家族など居ない。しかし心当たりはあった。察した通り二人の背後から、若い女性が現れた。

「……麻理子お姉さん」

 姉などと呼んでいるが実の姉ではない。昔から姉妹のように仲がいいだけだ。

「大丈夫なの栞? 倒れたって聞いて来たのよ」

「大丈夫です。お姉さんお忙しいのにすみません」

「馬鹿ね。私達はそんな水臭い仲じゃないでしょ! ま、知らせてきた人間には不満がありますけどね」

 麻理子が総支配人を睨みつけたので、栞はびっくりした。

「お姉さん、総支配人は助けてくださったんですよ」

「社員ですものね。仙崎さん、知らせてくださってありがとうございます」

 済まして言う麻理子に、総支配人……仙崎奏はくすくす笑った。

「どういたしまして」

 栞はベッドから降りて、麻理子の手を借りて立ち上がり、頭を丁寧に下げた。

「総支配人。あの、石田さんもありがとうございます」

「何かあったらいつでもいらっしゃい」

 石田がにこにこ笑う。とても感じがいい。お昼ご飯の時に誰かが、石田のことをやたらと褒めちぎっていたような気がする。

 奏と石田は二人が出ていくまでは笑顔でいたが、ドアが閉じた途端に難しい顔になった。

「佐藤グループの社長夫人の推薦だから、しぶしぶ雇いましたが、やはりやっかいですね」

「そんなおっしゃりようでは、増田さんが可哀想では」

 奏は、自分で酷なことを言っているのはわかっていたが、因縁のある佐藤グループの人間と関係があるというだけで、本当は栞を落としてしまいたかった。麻理子はともかく、配偶者の佐藤貴明が骨の髄から大嫌いなのだ。亡くなった兄の圭吾が、生前に随分と貴明を嫌っていて辛く当たったらしく、それを根に持っているのか、奏が彼の大切な女性にした仕打ちのせいなのか、表立ってではないが、そこかしこから、忘れた頃に悪戯を仕掛けてくる。栞の入社もその一部に違いない。重役達は口を揃えて採用だと言っていたが……。

 不動産業で繁栄している佐藤グループを知らぬ者は居ない。この企業と繋がりを切に望む実業家は多いだろうが、奏は繋がりたくなどなかった。だが、縁を切った奏の父、仙崎篤史の経営する仙花グループから追放され、天涯孤独で誰の援助も不可能な今の状態で、有力者の繋がりをほしいと思う重役達の意見を無得にはできなかった。それほど今は危険な綱渡りをしているかのような、不安定な経営状態なのだ。

「彼女自身ももう一度洗う必要がありそうですね。この高学歴でなぜパートばかりを転々としているのか、わかりませんし」

「本人の勤務態度は真面目だし、仕事ぶりは飲み込みが早くて丁寧だと清掃部の主任が褒めていましたよ」

「……でしょうね」

 あの麻理子が妹扱いする赤の他人だ。無能なわけがない。

(近づく必要があるか……)

 奏は栞の履歴書を見下ろした。一見普通の履歴だが、途方もない爆弾が隠れている気がした。

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