天使の顔のワケあり物件 第02話

「ああ、増田さん。貴女の社員証は総支配人が昨日拾ってくださったそうです。業務終了後に取りに来てくださいと伝言がありますよ」

「…………」

 栞は昨日社員証を落としていたことを、今、社員通用口で守衛に言われるまで気づいていなかった。昨日は麻理子と共に表から出たので、社員証が必要なかったからだ。

 守衛に礼を言い、更衣室で着替えている間、何故総支配人室まで行かなければならないのかと、それだけが頭の中で繰り返される。清掃部の主任に預けてくれればすむ用事のはずだ。

「……行きたくないな」

 ため息が思わず漏れてしまう。副主任と仕事が一緒になるのですら気が重いのに、よりにもよってホテルで一番の重役に会いに行かなければならない。

 リネン室へシーツを取りに行く途中で、清掃主任が声をかけてきた。

「今日は体調は大丈夫? 休んでも良かったのよ」

「ありがとうございます。でもなんともありませんから」

「それならいいけど……、今、ああいうことが起こった時のためにどうするか協議中らしいわ。滅多にないけど以前にもあったのよ。ただ、何故かそのままにされてたのよね」

「そうだったんですか」

 あの真面目そうな総支配人の仙崎が、このような事件を放置していたとはおかしい。清掃主任も同意見なようだ。

「ま、ともかく、何かあったらすぐ呼んでね。携帯端末持つのは許可されているから」

「はい」

 社員証の件を清掃主任は知らされていないようだ。やっぱり取りに行かなければならないのかと、栞はシーツをワゴンに載せながらがっかりした。

 夕方、仕事が終わり、しぶしぶ栞は総支配人室のドアをノックした。秘書の山下が出てくると思っていたのに、出てきたのは総支配人の仙崎その人だった。

「あの、社員証を取りに来ました」

「どうぞ、入ってください」

 大きくドアを開けられ、どうしてこの場で渡してくれないのかと栞は思ったが、仕方なく入った。山下は不在なようで、総支配人室の彼女の机にその姿はなかった。

「山下さんは……」

「彼女も仕事があるのでね」

 総支配人室に入るのは初めてだ。かなり広いが殺風景な感じもした。応接セットが隅の方にあるが、この大きなホテルには似つかわしくない。来客の際は他の大きな部屋を使っているのだろう。

 仙崎が、自分の机の引き出しから栞の社員証を取り出して、立ったままぼうっとしている栞に手渡してくれた。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございました」

 頭を下げるのと同時に、作業着のポケットに入れていた手帳が床に落ちてしまった。挟んであったものも一緒に。

「……あ」

 それをしゃがんで取ろうとした栞の手に、仙崎の大きな手が重なった。びっくりした栞が手を引っ込めると、仙崎が写真を拾い上げた。

「……? 弟さん……なわけないですよね?」

 仙崎は写真に写っている一歳児を見て言った。

「……息子です。今は父方に引き取られていますけれど」

 不思議そうな切れ長の目の視線が栞に落ちてきた。これは誰もが取る、彼女の素性を知ったときの反応だ。小柄で童顔の栞はとても子持ちに見えず、未だに大学生に間違えられる。

「何故?」

 ためらいがちに聞く仙崎に、

「離婚したんです。バツイチなんです、私」

 栞はズバリと答えた。いずればれることだ。履歴書にはない栞の経歴の一つだ。

「……女性に聞くのは失礼なのですが、歳はいくつでしたか?」

「25歳です。でも未だに未成年に見えるらしいです」

 不満が顔に出たらしく、仙崎はくすくす笑った。

「とても俺と6つしか違わないとは思えないね」

「支配人は年相応に見えてうらやましいです」

 言いながら栞は不思議に思った。人見知りする自分がほとんど初対面近い人間と、それも苦手だった男性とこんなに話しているのが信じられない。おそらく仙崎が今、とても素直で優しい顔になっているからだろうが。

 不意に黙り込んだ栞に仙崎は首を傾げた。

「どうしましたか?」

「いいえ、何も。それより、あの、写真と手帳……」

 仙崎は、自分がずっと持っていた事に気づき、写真を手帳に挟むと栞に手渡してくれた。大事そうにポケットに入れている栞に仙崎がぽつりと言う。

「俺にもね、今頃はこれくらいの子供が居るはずだったんです」

 仙崎は自分のことを俺と言うらしい。

「…………」

「はず、で、終わってしまったのですが……」

 少し悲しそうに笑う仙崎を見て、栞は何を言えばいいのかわからず言葉が詰まった。

「生んでくれるはずだった女性は、他の男の妻になっています。まあ、最初から勝ち目はなかったんですけどね」

 はは、と仙崎は声をたてて笑った。いきなりこんな重い話をされても困るが、なんだか放っておけない気がした。傷ついた少年の顔がちらりと見えるせいだ。

「……仙崎支配人を振るなんて、見る目が無い女性だったんですね」

 仙崎は目を丸くした。

 しまった、言わなくていいことを言ってしまったようだ。顔が熱くなるのを感じる。

 自分はどうかしている……。初対面に近い、それも遥かに上の上司である仙崎に、何故ここまで言ってしまったんだろう。そう思い、いたたまれなくなった栞は再びさっと頭を下げ、逃げるようにドアノブに手をかけた。

「増田さん」

 ドアを開けた栞に背後から仙崎の声が追いかけてきて、おずおずと振り向いた。仙崎は怒ってはおらず、優しい目で栞を見ていた。

 言い忘れていた事を栞は思い出した。

「あの、あの……失礼な事を申し上げてすみませんでした。忘れて下さい!」

「いや、うれしかった、ありがとう」

「総支配……」

「奏(かなで)です」

「?」

 仙崎は栞のもとまで歩いてきて、ドアを開けた。

「まだ俺の名前を知らないでしょう? 俺の名前は仙崎奏(せんざきかなで)と言うんです。これでお知り合いになれましたね」

 フルネームなどこのホテルに勤めていたら誰でも知っているのに、仙崎はおかしなことを言う。

「は……い」

「ではまた明日の夕方に」

 明日の夕方と何ですかと栞は聞こうとしたが、その時に山下が戻ってきた。何がなんだかわからないでいる栞に奏は微笑みかけ、仕事とスケジュールに押されている秘書はそんな仙崎を訝しく思いながらも、栞の前でドアを閉めてしまった。

「……何なんだろ?」

 栞は部屋の外で首を傾げる。

 部屋の中の仙崎は愉快そうに笑っていたのだった。

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