天使の顔のワケあり物件 第03話

「あの男はどうしてるの?」

「あの男?」

 栞は自分のアパートの部屋に、麻理子を招き入れていた。というより、麻理子が押しかけてきたのだ。一歳になる男の子が居るはずだが大丈夫なのかと聞くと、乳母が居るから大丈夫だという。さすがに御曹司と結婚するとそういうこともできるのだなと、妙なところで感心していると、麻理子は栞がいれた紅茶を飲むなり、こう聞いてきたのだ。

「仙崎奏」

 あの男呼ばわりも呼び捨ても、普段の麻理子なら有り得ない。並々ならぬ嫌悪を感じて栞はかなり驚いた。

「……総支配人ならお元気そうですよ。毎日出勤されています。お休みの日は知りませんけど」

「そうなの。あれからどうなの? なんか接触とかされてない?」

 上品にケーキをフォークで切って、麻理子が尋ねてくる。

「いえ、特に何も。大体普通、清掃係が、総支配人に頻繁に会うことなんて有り得ませんよ?」

「普通なら……ね」

 麻理子は目をキラリとさせた。

「あいつは仕事はできるから、気が進まなかったけど推薦したの! 仕事以外で接触しちゃ駄目よ。誘惑も駄目!」

 栞は紅茶を噴き出しそうになった。

「ゆ、誘惑ってできるわけないですよ。何言って……」

「栞じゃなくてあいつがしてきたらってこと! 徹底して無視だからね!」

 強く言ったあと、麻理子はケーキを食べ始めた。

 麻理子は深窓の令嬢でおしとやかな印象がある一方で、妙に庶民臭い時がある。家の没落で辛酸を舐めたからとかそういうのではなく、これは昔からそうだった。またその一面を見せるのはごく親しい人に限られているので、令嬢の麻理子しか知らない人間が今の麻理子を見たら別人だと思うに違いない。

 麻理子とは、家が近いのと通っている学校が同じで幼い頃から親しくさせてもらっており、二人は何もかも話せる仲だった。それは麻理子が突然両親を失って、屋敷を追われても続き、麻理子は栞が自分の悪影響を受けるのを恐れて黙って姿を消したのだが、栞は数ヶ月で麻理子の住んでいる古いアパートを見つけ出して訪問し、呆気にとられている麻理子に抱きついて号泣した。それほど麻理子は大切な人なのだ。それゆえずっと二人の友情は続いている。

「栞のことは妹のように思っているの。だからあの男の毒牙にかけたくないのよ」

「麻理子さんたら。大丈夫ですよ、私みたいなバツイチ、誰も気に留めやしません」

「嘘言わないで! 早速先日変態男に襲われてるじゃない」

 う……と詰まった栞に、麻理子はさらに畳み掛けてきた。

「栞。貴女、作業着と帽子で隠れてるから皆気づいてないだけで、どう見ても人を惹きつける容姿なのよ。本当に、本当に気をつけて」

「……と言われても、本当に大丈夫ですよ?私は麻理子さんみたいに美人じゃありませんし、声をかけられることも滅多にないんです」

 これは事実で、栞は男性にナンパされたこともほとんどないし、男友達ができたこともないのだ。

「職場によって変わったりするの。私だって今の職場に来るまで、男性に声をかけられることなんてなかったわ」

「それならなおさら大丈夫ですよ。あの事件だけで、それ以外は全然ですもの」

「そうかしらねえ……ちょっと聞いたら、貴女、妙に優しくされているみたいじゃない?」

「え?」

 たしかに今の職場は優しい人が多い。守衛を始め、出会う社員すべてが困ったら助けてくれるし、挨拶してくれる。

「ちらりと聞いただけでも、貴女随分人気あるわ。内気で穏やかで仕事ができる清掃係って言われてる」

 真面目に仕事をしているので、それは嬉しい評価だ。

「栞が正当に評価されているのはうれしいわ。だけどね……男性の方がそれはそれは嬉しそうに言うのよ。あれは鈍い私でもわかる、栞に気があるわ」

「それこそ麻理子さんの勘違いですよ。麻理子さんその方面では人一倍気づかないタイプじゃないですか」

 麻理子は紅茶を一口飲んだ。

「……貴明が言ってたわ。栞のそういうところ……普段は滅多に人に意見しない貴女が、そうやって鋭さを見せる所が、一部の人間にはたまらない魅力だろうって。危険だって言ってた。実際そうだったわ、そうよね?」

 過去を思い出せたくなどなかったという、その思いが麻理子の表情から垣間見え、栞は黙り込んだ。

 栞は余計な一言を言う時がある。それは滅多にないが、それを口にした瞬間相手が変わるのだ。天真爛漫で人の心にずけずけ入ったりするような、子供っぽい性格なわけではない。むしろ栞は控えめすぎるぐらいで、普段からそれを言えばいいくらいだ。それほどじれったい思いをさせる人間が、突然口にする言葉が相手を変えてしまう。大体は、生意気な、と悪意を持たれることの方が多い。その悪感情が栞に牙を剥き、栞を傷つける。

「……私は、人に好かれませんから」

「そうじゃないの! もっともっと自分を出しなさい普段から! 嗜虐心丸出しの男が貴女みたいなタイプに近寄りやすいの! 大人しいやつが生意気なことを時折言う。普段から甚振るには最高の素材だが、言い返した時に徹底的に痛めつけるのはさらに最高な気分に浸れるっていう、鬼畜で最低な奴らよ」

「総支配人がそのタイプにはとても思えません」

「栞はあの男の本性を知らないから……。とにかく危険よ。仕事以外では近寄っちゃ駄目。わかった?」

「麻理子さんは……本当にもう」

 栞は困ってしまった。ここまで心配されるほど、自分はいい人間ではない。人が目を剥くような暴言を吐くことだってある。こんな自分は好きではない。それでも生きていくしかないのだ……。

 結局栞は最後まで、仙崎奏に近寄らないとは口にしなかった。

 

 

 翌日、栞は仕事が休みだった。掃除をしようと思って洗濯機を回していると、上から水が降ってきた。ぽたぽたと落ちてきている。錯覚かと目を擦ってもう一度見てもやはり水だ。床を見ると、水が溜まり始めていた。栞は驚き、上の階の住人の部屋のインターフォンを押した。

『はい』

「下の階の増田と申します。水が漏れているのですが……」

 上の階は男性らしい。ずっと空き部室だったのだが、つい先日引っ越してきたのを引っ越しの車を見ていたので知っている。挨拶はまだだった。

 ややあって出てきた人間に驚いた。それは総支配人の仙崎だった。

「え……総支配人?」

「おや、増田さんでしたか」

 このアパートはホテルが借り上げて寮としている物件だが、総支配人のような人間が住むには適していない古さだ。

「おはようございます。あの、ですね。私の部屋に上から水が漏れているんです。総支配人の部屋は大丈夫ですか?」

「……それはよくない。見てみましょう。上がってください」

 時刻はまだ朝の8時を回ったばかりだ。仙崎は寝ていたらしく、髪に寝癖がついていた。いつものきっちりとした姿からは想像がつかなくて、少し栞は笑ってしまった。

 越してきたばかりなのに、ダンボールの箱はなくスッキリ片付いていた。というより物が殆どない。これでどうやって生活するのだろうと思うほど殺風景な部屋だ。

 二人で栞の洗濯機のある部屋に当たる部分を見てみたが、何もない。

「これは水道管が、老朽化か何かで壊れて漏水しているのでしょうね。このままでは貴女の部屋が大変なことになりますから、すぐに管理人を呼びましょう」

 管理人が同じアパートに住んでいたため、連絡はすぐにつき、少し経ってから修理業者が来た。やはり水道管の老朽化が原因で、修繕に数日かかるという。

「幸い俺の隣の部屋が空いています。そこへ引っ越しすればいいでしょう。同じ寮で同じ間取りですから、不都合もない」

 栞は即答できなかった。これでは麻理子の心配が的中してしまう。住んでいる場所が隣になどなったら、どうしても接触は多くなるだろう。

「……あの部屋が気に入っていたのですけれど」

 どうすれば隣に入居という事態が防げるのかわからず、栞は困ってしまった。

「こりゃ大変だ。カビが生えているので、リフォームが必要です。この部屋使えませんよ」

 と、漏水箇所を調べていた業者が仙崎に言った。

「時間がさらにかかりますか?」

 立ち会っていた管理人が聞くと、業者は頷いた。

「多分、前の住人の時からぽつぽつと漏れていたんだと思います。誰も気づかないまま住人は引っ越しして放置。水道管だけじゃなくて、この一体が腐食しているんですよ、壁や板や床が。それで貴方が先日入居されて水を使うようになり、一気に出てきたという感じですね。このアパートは築20年ほどですから、全体的に見直しが必要かもしれません」

 仙崎が腕を組みながら言った。

「ふむ。まあそれは検討するとして、とりあえず増田さんは俺の隣の部屋に引っ越すしかなさそうですね。新しい寮を用意するのも時間がかかります。管理人はどうします?」

 管理人は頭を横にフリフリ言った。

「皆さんにはなるべく早く引っ越ししてもらうしかありません。見てもらわないとわかりませんが、場合によっては大リフォームになりますから」

「でしょうね。とりあえずの応急処置です。新しい引越し先が見つかるまでの間、増田さんお願いしますよ」

「……はい」

 どうにもならない。栞は頷くしかなかった。

 

 

 

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