天使の顔のワケあり物件 第04話
麻理子には絶対に言えないと思いながら、栞は引っ越しの手伝いを仙崎にさせていた。とても少ない荷物だから必要ないとどれだけ断っても、自分の部屋から漏れた水のせいだからと仙崎が譲らず、また管理人までが加勢してきて、仕方なく、二人に洗濯機やエアコンなどを運ばせ、設置までやってもらった。管理人も仙崎も取り付けがとても上手で、管理人に至っては家電分解が趣味だと言い、嬉々として取り付け、二人で盛り上がっている。
一時間ほどで引っ越しは終わった。
管理人が帰り、早く帰ってほしいのになぜか帰らない仙崎が、部屋を見回しながら言った。
「本当に荷物が少ないですね。本当はどこかに預けてあるとか?」
「いえ、必要ありませんし」
仙崎の部屋よりはあるほうだ。
新しい部屋は水道も電気もガスも大丈夫なようだ。洗濯機は先程から乾燥に入っている。
なかなか帰ってくれない仙崎が笑顔を向けてきた。
「よろしければ一緒に朝食をいかがですか?」
冗談ではない。早く一人になりたい。
「いえ、そこまでしていただくわけには。もう十分です。総支配人もお忙しいのですから、気になさらないでください」
しかし、仙崎は上回る返事をしてきた。
「俺の部屋で作るんですから、すぐに出来ますよ。さっき食べようとして下ごしらえを出そうとしてたところでしたから」
「いえ、本当に……」
「あ、これはセクハラにパワハラになりますね。すみません、そんなつもりはなかったのですが」
仙崎がしゅんとしたので、栞は慌てた。そんなものは仙崎からは感じない。
「そんなことは! ただ……っ」
「ただ?」
「あの、色々していただいた上、朝食までというのは……申し訳ありませんし」
たちまち笑顔になった仙崎が、栞の部屋のドアを開けた。
「申し訳ないなんて、まったくありませんよ。それなら大丈夫ですよ。さあ、行きましょう?」
「…………」
うまく丸め込まれた栞は、部屋に連れて行かれた。
(駄目ね。どうしてもうまく断れないわ)
栞は内心でため息をついた。
「そちらで待っていてください」
仙崎が言った先のリビングには、黒のローテーブルとベッドがあった。テレビは見当たらない。間取りは全く同じだが、栞の部屋にはあるテレビと本棚がないので、栞の部屋より殺風景な部屋に見える。
独身だと思われる男性の部屋は緊張するが、どう考えても自分に手を出してくるとは栞は考えにくかった。仙崎は栞がバツイチの子持ちだと知っている。麻理子はああ言っていたが、どう考えても不良物件の自分に手を出してくるとは思いにくい。
しばらくするといい匂いがしてきた。
「おまたせしました」
運ばれてきたのは、どこの旅館の朝食だと聞きたくなるほどの、品数が多い、和食の膳だった。
「…………」
「少ないですけれど時間もありませんからね。さあ、いただきましょう」
この小さなローテーブルで遥か上の重役と朝食を食べるなど、何の苦行だと栞は頭が痛くなってきた。
(失礼かもしれないけれど、一人で旅館の朝食を食べるのだと思うしかないわ……)
栞は手を合わせ、箸を取った。
テレビがない部屋で、重役と朝食など気が重いと思っていたが、仙崎は人懐こい性格な上話上手なようで、かえって楽しい朝食だった。今日は旅館風の朝食なんですよと仙崎は笑顔で説明してくれ、ひとつひとつがとても美味しかった。料理好きなのかと思っていると、趣味らしい。料理は嫌いではないが、ここまで凝ることもない栞は、忙しいだろうに外食をほとんどしないという仙崎に感心した。
会話は移転する寮に及んだ。
「うちのホテルの旧館の改修工事に入ろうとしていたところでしたけど、あれを寮にしようかと思っているんですよ。寮の人は十人に満たないですし」
「荷物などは」
「倉庫が近くにありますからね。大丈夫ですよ」
「それなら……」
人見知りの栞を普通に会話させる仙崎は、大した人たらしだ。むしろもっと話していたい気にさせられる。食事を終え、栞が礼だと言ってお皿を洗っていると、インターフォンが鳴った。振り返ると、仙崎がリビングを出ていくところだった。
泡のついた皿を水で洗いながら見上げたリビングの時計は、もう朝の10時を回っていた。
突然女性の声が響いた。
「ほらいるじゃありませんか? 誰ですかこの方」
キッチンへ入ってきたのはとても綺麗な女性だったが、意地の悪そうな顔をしていた。栞は蛇口を締めた。
仙崎が言った。
「もう貴女とは別れると言ったはずです。私が誰といようが関係ないでしょう?」
「私は承知しておりませんわ」
女性は冷たく言い、タオルで手を拭く栞に詰め寄ってきた。
「ねえ貴女、この奏様とおつきあいしているのは私なの。帰ってくださる?」
修羅場にしか思えず、大変な誤解をされているのはわかるが、栞は驚きすぎて声も出ない。そもそも栞は仙崎とつきあってなどいない。それを言いたいのだが、元来の人見知りが顔を出したせいで何も言えない。
「美亜さん、いい加減にしてください」
仙崎が美亜の腕を取ろうとしたが、美亜は振り払った。そしてそのまま栞に掴みかかってきたが、栞は震え上がってなされるがままだ。
「早く出ていきなさいよ! ずうずうしいわね!」
仙崎が美亜を栞から引き離そうとして引っ張った。
「別れると言って、貴女の父君も承諾なさったでしょう! いい加減にしてください!」
似たような修羅場の経験がある。あの時栞はまだあの男の妻で、相手は男の愛人だった。そしてその時も自分は何も言い返せなかった。自分は愛されてなど居なかったから……。
悔しかった。
私はとても怒っていた。
我慢に我慢を重ねていた。
でも追い返すことが出来なかった。愛する子供がいて守らなければならなかったから。
本当はこう言いたかった。
────────…………っ!!!!
「ずうずうしいのはそちらではありませんか?」
気がついたら、静かな怒りに支配された栞は、そう口にしていた。
美亜は一瞬呆気に取られ、ついで鋭く睨んできた。しかし、大人しい栞は影を潜め、あの時言いたかった言葉が口から飛び出てきた。
「仙崎さんは今は私とお付き合いしているんです! 貴女とは別れているんです! それを招かれもしないのに来てこんなふうに……、貴女のほうが出ていくべきです!」
「何を……!」
美亜は言い返そうとしてきたが、呼吸を読んだ仙崎に腕を取られた。
「そういうわけです。もうこのひと月……何度言っても聞いてくださらない。そろそろ父君が出てこられますよ? いいんですか?」
父親が怖いのか美亜は唇を噛んだ。
「でも、私の家なら、今の奏様を助けてあげられます」
突然美亜はしおらしくなるが、完全に演技だった。
「必要ありませんと申し上げましたね?」
「でも、でも、私は奏様でないと」
「さあ、出ていってください」
仙崎は美亜の背中を押し、キッチンを出ていった。やがてドアが閉まる音がして、気が抜けた栞はシンクを背にずるすると座り込んだ。
(とんでもないことを口にしてしまった……)
胸がどきどきとしている。いくらあの時の自分に重なったからといって、嘘をつくなんていけないことだ。なんということをしてしまったのだろう。
震えながら胸に手を当てていると、仙崎が再びキッチンへ入ってきて、栞の前へ座り込んだ。
「増田さん。怖かったでしょうにありがとう。あの人は付き合い上断りきれなくてお付き合いした方でして。増田さんのおかげでやっと諦めてくださったみたいです」
震えている手を引かれ、リビングへ連れて行かれた。
しばらく座布団に座っていると、ようやく動悸が治まってきた。
「あの、すみません。嘘を……」
「びっくりしましたが、でもあの人は引いてくれましたからね。ありがとうございます」
キッチンで紅茶を淹れていた仙崎がリビングへ入ってきて、栞の前にカップを静かに置いた。
紅茶を口にすると、ようやく落ち着いた。
「さすが、佐藤麻理子さんのご友人なだけある。大した胆力をお持ちですね」
仙崎が納得したように言ったので、栞は紅茶を噴きそうになり、大きな塊をなんとか飲み込んだ。
「いえ……そんな」
「増田さんは大人しい方だと思っていましたが、大胆な面もあるんですね、素晴らしいですよ」
にこにこと何やら嬉しそうな仙崎が不気味だ。これ以上困った事態になる前にこの部屋から出ていかなくては。そう思っているのに、仙崎に突然両手を再び掴まれ、それができなくなった。
「増田さんが気に入りました。つきあってくださいませんか?」
「あ……の」
「駄目でしょうか?」
さっきのようにしゅんとされると強く言えなくなる。だがこれは駄目だ。麻理子も言っていたではないか。
「でも私はバツイチですし……。どう見ても釣り合いません」
「俺はとても増田さんにお眼鏡に適う男ではないと?」
「逆です!」
「ならよいではないですか? そう深く考えず? ね?」
無邪気な笑顔にどうしても強く言い返せない。仙崎は人の心を支配できる魔法でも持っているのだろうか。
切れ長の黒い目は抗いがたい魅力に満ちている。
いや、そうではない。もともと栞は仙崎に惹かれているから断れないのだ。
だから麻理子にも強く言えなかった。
様々な思いが交差した。あの男。麻理子。親族達。同僚たち。
(俺にもね、今頃はこれくらいの子供が居るはずだったんです)
先日仙崎が口にしていた寂しい言葉だ。
それは自分と全く同じだった。
あの時から、仙崎が気になって仕方がない。
幸せそうな麻理子夫婦が不意に脳裏に浮かび上がってくる。
「わかり……ました」
引き寄せられるように、栞は思わず口にしてしまう。
「ありがとう」
はっとしたが既に遅く、仙崎は喜色満面になって顔を近づけてきた。唇が重なる。それはとても熱くて、口づけはとても熱いものだということを栞は今頃知った。
口づけが終わると抱き寄せられた。
「仙崎さ……」
「奏です。栞」
「……奏、さん」
「そうです」
人肌の温もりは、恋愛はもうこりごりだと思っていた栞の心を、いともたやすく溶かしていく。麻理子へ申し訳ないとは思うが、どうしても栞はこの奏が極悪人には思えなかった。
流されやすい自分を嘲っても、それを上回る幸福感が栞を支配していた。