雪のように舞う桜の中で 第20話

雪のように舞う桜の中で


 広いようでとても狭い後宮に、あっという間に珠子の恋人は彰親だという噂は広まった。広めたのは当然目の前の右京だ。
「本当にお似合いよ。彰親様はもう出世は無理だけれど、とても世に重く思われていらっしゃる陰陽師ですもの。なによりあのお美しいお顔がいいわよ」
「まあ中将の君ったら俯いて。恥ずかしがらなくてもいいのよ」
「そうそう、あんな美しい恋人なんだから」
「いつも思っていたけれど、中将の君って本当に話さないのね。それでは後宮でやっていけないわ」
 右京やその仲間の女房が棘のある言葉で、珠子の反応を面白そうにうかがってくる。撫子の御方から遠く離れた几帳の影で物思いに浸りたいのに、うっとうしいったらない。
 口数が少ないのは、その彰親についてどうしたらいいのか考えあぐねているからだった。
 珠子を肴にああだこうだ好き勝手を言い合う彼女達をよそに、思いは乱れるばかりで一向に考えはまとまらない。
 からかっているのだと思えれば、どれだけ楽だろうか。
 あんなに真剣な目で見つめられたことはなかった。口付けも思い返すだけでなにかこう、熱いものが滾ってくる気がする。彰親が嫌いではないだけに、どうしたらいいのか途方にくれてしまい、これからさきどうしようと悩むのだ。
『私の気持ちもわかって下さい』
 言い出したら最後、もう彼はひたすら自分に突き進んでくるだろう。心の奥に封じていたものを解き放ってしまったのだから。
 惇長との距離は一向に縮まらないのに、思わぬ男が距離を縮めてくるのは、物語をこの後宮で聞かされていて気づいたが世の常のようだ。
「ねえ、中将の君ったら!」
 
 ゆっくり考えていたいのに、うるさい右京のせいで考えられない。
 仕方なく珠子は顔を上げた。どれもこれも自分を興味津々に見つめている。人を物扱いする大嫌いな目だ。
「貴女は御存知ないでしょうけど、彰親様はとても内裏で人気がおありなのよ。でも身分がいささか……ね」
「そうよねえあれでもっと尊いお血筋なら、婿君として引く手あまたなんでしょうけれど……」
 今度は彰親を貶し始めた。
 珠子はそれを聞き、なんとも不愉快な気分になった。
 後宮住まいの彼女達は、自分を撫子の御方と同じような身分だと錯覚しているのではあるまいか。彼女達の実家は彰親と同じく受領階級で、詰まる所、その物言いは自分の親兄弟達を馬鹿にしているのだ。
 右京は惇長を独占し、身分が格下の彰親を珠子の恋人にして貶し、自分の優位を見せびらかして悦に入っている。おろかさもここまで来るともはや天晴れだ。
 何も言わない珠子にさらに右京が何かを言おうとした時、
「右京、こちらで御方様に墨を擦りなさい」
 と、中務の怜悧な声が女房達の珠子攻撃を遮断した。
 右京が慌てて中務の元へ行ってしまうと、他の女房達も退散する。撫子の御方に特別扱いされている珠子に攻撃しているのは右京だけで、それ以外の女房達は彼女が居ないと珠子と話しにくいのだった。
「中将の君、大丈夫ですか?」
 やっと来た一条に珠子は文句を言った。
「遅いわ。何をしていたの」
「仕方ありませんよ。少しは彼女達の相手をしないと余計に酷くなりますわ。これぐらい我慢なさってください。それにしても中務はこういう時は役に立ちますわね」
「仲悪くなかった?」
「ほほ、悪友というものですよ」
「…………」
 中務は呪物の一味ではないのかと珠子はこっそり疑っている。
 それを一条はキッパリとあり得ないと言いきった。中務は確かに意地が悪いが撫子の御方に深く肩入れしている。それは間違いないらしい。
「頭が痛むから局に下がるわ。今日は御方様も放って置いて下さるようだし」
「そうなさって下さい。流行っている風邪でも召されたら大変です」 
(ああもう、女同士のドロドロの世界は大嫌い。一条も一条よ、結局中務と仲がいいんじゃない。もう!)
 廂を怒りながらずんずん歩く珠子の前へ、こほこほと咳をしながらひとりの女房が出てきた。
 少しだけ仲の良い宰相の君だ。
 彼女はこのところ、ずっと風邪を引いて臥せっている。
 宰相は珠子に気づいて弱弱しく言った。
「中将の君ごめんなさい。右京の君に薬湯を頂くことになっていたのだけど……、まだかしら?」
「聞いてないけど、そんなに悪いの? 里下がりなさったほうがいいのではない?」
 あんな女から薬湯をもらったりしたら、余計に悪くなりそうだ。
「桜花殿に行ってからなんかね。藤少納言の君も同じ。コホっ……」
「風邪なら、ゆっくり寝ていたほうがいいわ」
「うん。でも右京の君の薬湯が一番効くから」
「右京の君は御方様のところよ。当分帰ってこないと思うわ」
「……そう」
 珠子は宰相を局の中に引き入れ、乱れている褥をきれいにして寝かしつけてやった。
 彼女は珠子よりひとつ年下で年老いた両親を養っている。彼女が倒れたらその年老いた両親はどうなるのだろうと心配しながら、珠子は彼女のために女官から水をもらって来て飲ませてやった。
「あのね、風邪は薬湯や祈祷で治るんじゃないのよ? 自分で治すの。休む時はとことん休んで、少しでも良いから食事を摂って……、そうでないと治らないのよ?」
 熱が上がってきたのか、宰相は赤い顔をして力なく笑った。
「家が貧乏すぎて……薬師も僧も呼べませんもの……ね」
「そうよ。だから薬湯なんかに頼っちゃ駄目よ」
 珠子が注意すると宰相は目をさ迷わせた後、言いにくそうに口を開いた。
「あの、翠野で……何か弾いてもらえませんか?」
「翠野? それは構わないけど、なんだって今……」
「駄目かしら」
「別にいいけど……」
 その時だった。
 いきなり目の前の宰相の顔がどす黒い茶色に染まり、顔が面妖な獣の顔に変わっていった。
 小袖から見えていた手も、みるみる人間の手から灰色の毛がたくさん生えている手へ、指先の爪は鋭く尖る。
 珠子はぎょっとして仰け反った。
「え、さいしょ……」
 人の三倍はあろうかと思われる大きな目玉が、ぎょろりと珠子を見た。
「きゃあああっ」
 珠子は腰を抜かしそうになりながらも必死に廂へ出ようとした。だが、化け物の方が動きがすばやく、あっという間に背中から化け物に圧し掛かられた。
「行かせるかああっ」
 男の声が化け物の牙だらけの口から飛び出し、珠子の首に噛み付いた。
 激痛が走り、そのまま食いちぎられると珠子は身体を固くする。
 何故か化け物はそのまますうっと姿を消し、宰相は元の姿に戻ってその場に倒れ臥した。
 とても後ろを振り向く勇気は無い。
 宰相をそのままにして、とにかくその場を逃れたい一心で、珠子は涙をぼろぼろ流しながらほうほうの体で廂へ這って出た。
 噛まれたところから血が流れ、じんじんと痛む。
「やだ……怖い……惇長様……」
 来てくれっこないと思いながらも言わずにはいられない。
 珠子が窮地に陥って求めるのは、いつだって惇長なのだ。
 よろよろと歩いていると、背後から声がした。 
「珠子様! そのお姿は一体……っ」
 たまたま局へ戻ってきた一条は、首から血を流し、唐衣を真っ赤に染めている珠子を見て仰天した。