雪のように舞う桜の中で 最終話

雪のように舞う桜の中で


 彰親の屋敷の庭にも、やはり桜の木があった。
 今年は、満開の頃は屋敷の住人はそれを愛でる余裕はなく、何故かいきなり続出したけが人達の対応に追われていた。そして若葉にとって変わられた今、皆一息つけるようになったのだった。
 初夏に入った今日は蒸し暑く、気だるくなる陽気だ。
「ちょっと、それは私が持っていくのよ葵!」
「ほほほ、早い者勝ちですわ~。美徳様は動けないのですから力のある私で無いと」
「何言ってんのっ。あんたこの前ヘマやって、もう少しで骨がおかしくなりそうだったじゃないのっ」
「もう大丈夫ですわ!」
「ぜんぜん大丈夫じゃないわよっ」
 葵と楓が美徳の部屋の前で、また口喧嘩をしている。
 中で横たわっている美徳にも丸聞こえだ。さすがの美徳も毎日毎日こうも枕元でやられると辛く、浮かんでいる笑みも疲れ気味だ。たまりかねた彰親が廂へ出て行き、いつものように注意した。
「いい加減にしなさい、かしましい。いつも言っているが、もう少し女らしくしてみてはどうですか」
 二人はいつものようにしゅんとした。
 彰親は葵から食事や飲み物が載った膳を受け取り、二人を追いやる。
 彰親の助けを借りて、美徳は起き上がり、珍しくため息をついた。
「申し訳ないですね、まったく。何度言ってもかしましくて」
「そうではありません」
 美徳の目は御簾の向こうに見える桜を映した。桜花殿の桜も今は葉桜だろう。右大臣邸の桜は枯れて跡形もなくなってしまったが。

 あの後、対になっていた桜花殿の桜が妖になる可能性があるため、さらに安全で強固な術を美徳は使ったのだが、それは彼の命を削るものだった。彰親は倒れた美徳を自分の屋敷へ連れて帰り、厚く看護をして回復させ、今日に至っている。
 浅井にいる美徳の妻を呼ぼうと彰親は言ったのだが、心配を掛けたくないと言って美徳は拒んだ。
「……安倍晴明公が食えないじじいってのは、本当だったんですね」
「ええ、してやられたと思いました」
 彰親は微笑し、扇を広げて煽った。
 昨年の今頃は……と思い出して、彰親は目を切なそうに細めて扇で口を覆い、美徳がそれを目ざとく見つけて微笑む。
「まあ、詔子殿の法要も無事に済みましたし、万事解決という事でよろしいでしょう?」
「私の恋心はどこに行けばいいのですか?」
「ははは、恋などいくらでもできますよ。霧の君から言い寄られておいでのくせに」
「勘弁してください」
 肩を落とす彰親に、美徳は自分もそろそろ浅井に帰らなければと思う。いい加減に妻に愛想をつかされそうなほど、長い間あちらへ帰っていない。
 猫の桜がその横で大きく伸びて欠伸をし、主人の膝に擦り寄った。


 桜花殿では、一条があちこちに手抜かりがないか、忙しそうに歩き回っていた。
 この北の対は几帳も畳も灯台も何もかもが新しく新調され、それぞれが凝った造りで、主人の相手を思いやる心が、はちきれんばかりに溢れている。
 今日は、彼女の二度目の恋が叶う日だった。
 一年前からこの日を、どれほど一条は待ち望んだか知れない。
「ちょっとは休んだらどうなの? もうどこも綺麗だし直しようがなくてよ……」
 主人の最愛の相手があきれ返って言うのに、一条は振り返って反論した。
「いいえ珠子様。こういうお目出度い事は、何度でも見直してちょうど良いくらいなんですよ」
「そんなものかしら……。二人の気持ちが寄りそっていればいいのではないの?」
「いーえ! 全てが整っていないと世の中認めませんわ。珠子様ももうちょっとご自分のお立場を自覚なさってくださいまし」
「だって退屈。こんな日に限って、惇長様は主上のお召しでまだいらっしゃらないし……」
「すこしは、貴族の姫君らしくなったと思ったのは間違いでしたか」
 一条はそう言いながらも、惇長が帰って来ないかとそわそわしている。
 彼女が結婚するわけでもないのに、彼女の方がそわそわしているのが珠子には不思議だった。
「元気じゃないほうがいいってのなら褥に入るけど」
「とんでもないっ! 殿方がいらっしゃるのがわかっているのに先に入るなど」
「わかっているわ」
 とはいえもう亥の刻(午後10時過ぎ)だ。
 珠子は眠くて仕方が無かった。今朝、惇長は早く帰るからと言って出仕していったのに、遅すぎる。
 一条が席を外した隙に、珠子は脇息に凭れて目を閉じた。

 ふと、甘い匂いがした。
 嗅いだのと同時にふわりと抱き上げられ、口付けられた。綺麗な褥にそのまま横にされて、一旦離れた唇がまた押し付けられ、舌が侵入して絡んだ。
 それは間違いなく惇長のもので、珠子は寝ぼけながらも抱きついて、そのまま口付けに応えた。
 唇を離し、惇長が珠子の袴の紐を解きながら、からかった。
「寝ては駄目でしょう?」
「眠かったんですもの」
 珠子は目を擦りながら答えた。
 情緒も何もあったものではない。惇長は珠子のためにいろいろな恋の文句を用意していたのだが、いつも通りの珠子にそれらを口にするのを止めた。
「そうですね、私も疲れました。このまま何もせず寝ましょうか」
 そう言いながら、惇長は珠子の着ているものをどんどん脱がせていく。
 珠子は惇長らしいなとぼんやりとして、されるがままになっていた。
 あの妖に囚われた日から二月近く経つが、惇長も珠子も身体がぼろぼろだったので、こうして抱き合うのもあの日以来だ。
 惇長の腕には深い刀の切り傷がある。珠子はそれを撫でてしみじみと言った。
「ずれていて良かった……」
「死ぬつもりはなかった。ただ、二人の命を半分ずつやれば良いと思っただけだ」
 惇長の手が急に動いたので、珠子は驚いて大きな背中に抱きついた。
 長い指がいきなり局部を嬲りゆっくりと解していく。
 かっと熱くなる身体が恥ずかしい珠子が思わず惇長を睨んでも、惇長は涼しい顔をしている。濡れ始めたそこは惇長を欲しがって蠢き始め、穿つように入り込んだ指を柔らかく飲み込んだ。
 あえぐ珠子をさらに高めながら、惇長は言った。
「晴明公が人を死に至らしめる術など、子孫に与えるわけがない。普段から彰親に人柄を聞いていた……、死ぬなどとは考えぬよ」
 ぐっと早急に惇長のものが入ってきた。
 存分にほぐされているとは言いがたい上、久しぶりに男を受け入れた珠子は痛みが勝って涙を零した。惇長がその涙に口付けながらゆっくりと腰を動かした。
「あの……ちょっと」
「初夜とは、これぐらい痛みがあるものです」
「相変わらず……惇長様は意地悪です」
「そう」
 やろうと思えばいくらでも女を蕩かせる事ができるくせに、今日は初夜のようにしたいというわけのわからない言い訳で、惇長は珠子をいじめている。
「でも、それでも惇長様が……好きです」
 すぐに惇長の唇が重なり、再び濃厚な口付けに変わった。
 腰の動きが早くなり、珠子はしだいに痛みよりも甘く蕩ける愉悦に包まれていく。
 生きているのだ、と強く思えた。
「私も同じ気持ちです」
「好き……と言って、くださいませんの?」
「そのうち……、私は本当の気持ちほどなかなか口にはできません」
「ま……!」
 再び唇が重なった。それが惇長の言葉の代わりなのだった。
 珠子が望んだのは、財があって生涯苦労しなさそうな殿方。うっとうしい身分がないならなおさらよい。
 なのに、恋したのはうっとうしい身分の惇長で、この結婚にもやはりうっとうしい問題が満載だった。将来有望な惇長に繋がりたい貴族は多く、左府からもすぐには許しが出なかった。そこへ右府が珠子を自分の養女にと言ってくれたのを、惇長が受け入れ、そこから先はとんとん拍子に事が運んでいった。
 結局何もかもが、惇長の思い通りに運んでいる気がする。
 彰親も成時も悔しそうにしていたが、珠子が惇長を愛しているので、結局最後には未練がましい歌を寄越して祝福してくれた。
 今回の事件は、左府失脚にも繋がりかねないものだった。
 一族連座が当然のこの世で、中納言義行が撫子の御方呪殺や、成時や惇長、彰親などを殺そうとした事。陰陽頭と通じて幾人もの貴族達への呪を仕掛けたり、偽の暦などを作成させて奏上していた事。止めは、私事では許されない泰山府君祭を私邸で行った事。
 それを右府が知り、先の政変で地方へ追いやった前右府繋がりの者を都へ戻したり、殿上の除籍の取り消しなどを条件に、義行と哉親を陸奥へ左遷させるに留まり、表沙汰にならなくて済んだ。
 お陰で左遷は、気が触れている二人を、世間の目に触れさせないためであると思われている。
 珠子との結婚で、惇長は、また自分の立場を強化させたのだった。

 ささやかな房事の後、惇長は寝入った珠子に衣を被せ、自分も衣を羽織った。
 ふと、珠子の文机の下に隠されるように置かれている文箱を見つけ、何気なく手に取り、中を開けて微笑した。
「……珠子も同じ考えでいたとは」
 あきらかに後朝の文とわかる、薄様の紙につつまれたそれ。
 惇長が今日遅かったのは。主上と撫子の御方が、歌が壊滅的に駄目な惇長に代わって、後朝の歌を考えてくれていたからなのだ。二人は、まるで自分達の事のように美々しい歌を考えてくれた。
 その後朝の歌は、惇長の部屋の文机の上に用意してある。
 そっと元通りに押し戻し、惇長は珠子の隣に横たわって抱き寄せ、ひっそり微笑した。
 おそらく隣の局では、一条が事がうまく行くか心配しているだろう。そろそろ静かにして安心させてやらねばならない。
「夢は醒めねばならない……か」
 だから人は皆、この世で人を愛して幸福を掴もうとして生きるのだ。
 例えそれが、ある日夢のように消える儚いものであっても、心がある限りそれは決して消えない。
 詔子のくれた愛は、確かに珠子と惇長の中に存在して、今も光り輝いている。
 惇長は幸福に包まれて目を閉じた。
 ふわりとお互いの香の匂いが二人を包み、初夜らしい空気が流れていった。
 二人の結婚はおおいに世間にもてはやされた。 
 そして、二人がどれほど幸福に暮らしたかは、二人の子孫が幾人もいることから、推して知るべしである。

<終わり>