雪のように舞う桜の中で番外編 美徳さんの妻問い その3

雪のように舞う桜の中で


 百合は、粗末な家の中の、また粗末な褥に美徳を誘った。
 全てが使い古されたもので、今日の夜にはふさわしくはない。それが百合にはとても恥ずかしかった。 
 夜這いの日でなければ、家の中は古くても綺麗に掃除し整頓しているので、見苦しいなどと恥じ入ったりはしないのだが。

「百合」
 褥に横たわった美徳に腕を引かれ、あっというまにその胸にかき抱かれた。
 そのまま口付けられて仰向けに押し倒され、着ているものが忙しなく引き剥がされていく。
「百合……、私を見て」
「嫌です」
「恥ずかしがりだね」
 綺麗な殿方を前に、美しくもない自分の裸体を見せて、恥ずかしくない女が居たら、見てみたいものだ。
「い……っ」
 美徳の指が腰から滑ってきて、胸の先を指で摘ままれた。
 痛いのか気持ちいいのかよく分からない。
 他の娘たちと違って百合は誰も知らないし、これからも知らずに生きていくつもりだった。
 まさか自分の元へ通う男が現われるとは、思っていなかった。何しろ父母もなし、よそ者の自分だ。おまけに容姿は最悪なのだから。
「百合……」
 美徳の愛撫は手馴れているもので、おそらくその容姿で、たくさんの女達を相手にしたのだろうと百合はぼんやりと思った。
 美徳は百合を攻めながら指貫を脱ぎ、帯を解いて衣を脱ぎ捨てた。郷の外で歩いて修行しているだけあって、その身体はとても引き締まっていたが、百合は気恥ずかしくて目を逸らして彼を見なかった。
 唐突に痛みが走った。
「痛!」
 なぜか肩に噛み付かれた。
 甘噛みなどと優しいものではなく、血が滲むほど歯を立てられている。
 本当の鬼がやってきたのかと、百合は恐ろしくなって美徳を見上げた。気のせいかその美貌には魔性が宿っており、異様な色っぽさが漂っていた。
「ごめん、昼間、日焼けしていないここがとてもおいしそうで……、甘い汁が出るかと思っていました」
「そんなわけ……」
「もうしない。でも……」
 美徳がその部分を吸った。人の血を吸うなんて信じられない。百合は彩子の鬼の噂話を思い出した。
 
(食べられてしまうんだ。本物の鬼が現われるというのは本当だったんだ。ひょっとしたらこれは偽者で、本物は彩子さんのところへ行ってるんじゃ)
 自分を抱きたい男が居るとは思えない。きっとそうだ。
 美徳の形の鬼は百合を貪るのに夢中で、出血した部分を吸いながら舐め、誰も受け入れていない局部を執拗に撫でては胸を揉みしだき、心底楽しんでいるようだった。
 怖いのに、何故か百合は諦めて身体の力をふっと抜いた。
(まあいいか……。どのみちこの先待っているのも、ひとりぼっちの人生だし)
 肩から鬼が顔を上げ開放されたかと思った途端、乱暴に股を広げられた。
 鬼は、今度は局部に吸い付いて貪り始めた。
 無気味にうごめく舌は縦横無尽に秘肉を舐め、立ち上がった肉の芽を見つけるとそこを執拗に舐めて、蜜の分泌を促した。いじられると感じるようにできているため、たちまちしとどに濡れて熱くなっていく。
 出したくもないのに、百合は乱れた声を上げる羽目になった。
「やあ……、そんな、汚いっ、あ、あん」
 頭を押しのけようとしても、鬼は貪るのに夢中で絶対に離れない。それよりも滑る舌の動きが早くなった。
「あああっ、いやあっああ!」
 ズクズクと局部が蠢いた。自分はきっとはしたない顔をしているに違いない。
「あぁ!」
 やっと局部から顔を上げた鬼が、固く脈打っている熱い棒を蒸しあがっている秘唇へぬらりと擦りつけたので、百合は身体を硬直させた。
 そういえば誰かから聞いた事がある、男と女が交わるというのは、男の欲を女の子を産む場所へ挿入する事だと。
 鬼が小さく笑い、百合の手を取って、自分の欲を触らせた。太さと大きさに百合は恐れをなし、逃げようとしたが全ては遅かった。
「駄目です。貴女は私の妻になるのですから」
「いた……ああ!」
 ぶちぶちと何かが引き裂かれるような衝撃が内部を走り、鬼の欲が押し入ってきた。鬼は逃げようとする百合の肩を抑え、あっという間に全てを百合の中に収めた。激痛に百合は今までの甘美な快感が消し飛び、泣き叫んだが、鬼は腰を激しく揺するのを止めてくれない。
「やあっ……お願いっ……もう……いた……っ」
「……すまない、とめられない」
 鬼の手が百合の両手首を褥に押さえつけ、さらに腰を押し付け、百合の中を奥深く抉った。
「うううっ……お許しくださ……っ」
「百合」
 早く終われ、食べたいのなら早く食べれば良い。いたぶったら人間の肉が美味しくなるとでも言うのだろうか。百合は鬼をそう心の中で罵った。
 鬼の唇は百合の唇を食み、深く深く舌を交わらせ、どこまでも深く繋がろうとする。
 いやらしい音がそこかしこからして、それすらも悦楽の元になっているのが恥ずかしい。
 愚かしいことに、鬼との交合を自分は喜んでいるのだ。
 やがて、鬼が百合の中で弾けた。どくどくと胎内に注がれる鬼の精がなんだか恐ろしいのと同時に、ひどく甘美で温かなものを伴っていた……。


 明け方目覚めた百合を、素肌に一重を羽織っただけの美徳が、腕枕をして寝転んで見ていた。帯を締めていないので、盛り上がった胸の筋肉から下腹部にかけてのきわどい部分まで見えており、百合は朝から何を見せるのだと目を逸らした。
「よくお休みでしたね」
 起きようとした百合は腰や股がぎしりと痛み、また寝る羽目になった。
 美徳が謝りながら頭をゆっくりと撫でてくるのが腹立たしく、百合は黙って背中を向けた。一応衣は肩まで羽織っているが、美徳とは違って、さぞみっともない姿をさらしていたのだろう。
 それに後朝の朝は、どういう顔をしたらいいのかわからない。
「百合、私が嫌いになったのですか?」
 嘆息した美徳だったが、ふと半分ほど開いていた扇を口に当て、歌うように口ずさんだ。
「少し外れていますが、『漢皇、色ヲ重ンジ傾國ヲ思フ 御宇多年求ムレドコレヲ得ズ……』という数年でしたよ」
 貴族達の間では有名な、白楽天の長恨歌の冒頭だった。そして、もう一度交わるつもりですり寄ってきた美徳を、百合は振り払って睨んだ。
「おたわむれは結構ですっ、早く彩子さんのところへどうぞ! この事は誰にも言いませんから!」
「何を言っているんですか」
「ですから、なにか珍しかったのでしょう? もう十分に堪能されたと……あっ」
 美しい顔が近づいてきて、また口を吸われた。腰が抱き寄せられれ美徳の腕がきつく巻きつく。
 もがいていると、膝に固く立ち上がっているものを押し付けられ、またされるのかとおののく百合に、目の前の美しい美徳が目をぎらぎらとさせながら言った。
「堪能なんてまったくできていませんよ。ぜんぜん足りません。もっと交わって、もっと百合の声を聞きたい」
 精と蜜でぐっしょり濡れたままの秘唇を、ゆっくりと美徳の指が撫で回し、中へ侵入してきた。
まだ破瓜したばかりでひきつれる痛みがあり、百合は指から逃れようとしたが、腰の腕がそれを許さなかった。
「もう……や! 郷の掟を守れないような逢瀬は……っ」
「郷の掟なら知っています。もちろん貴女を妻に迎えるつもりですよ、貴女は坂本の豪族の娘だったそうですね」
「なんでそんな……っ」
 誰にも言った事のない秘事を言われ、百合はなんとか美徳から逃れようともがいた。
 ぼんやりとしている薄暗さが、百合の白い裸体を妖しくうつしだして、美徳の男を煽っている事に彼女はまるで気づいていない。
「都の知り合いの実家が堅田で、坂本の近くなのです。たしか数年前に跡目争いに敗れた一家が追い払われたと。そして娘が一人居て名前が百合だと言っていました」
「あああっ」
 指が抜かれた後に、再び美徳のものが押し入ってきた。灼熱の塊がまた引きつる痛みを伴って翻弄するので、百合は涙を流しながら止めてくれと懇願した。しかし、美徳の動きは激しさを増すばかりで、一向に止まる気配はなかった。
「恋に堕ちると、何も見えなくなるというのは、本当なんですね」
 局部は痛いだけだったが、乳房を揉みしだかれるとたまらない愉悦が沸き起こって、わけがわからなくなった。
 いつの間にか美徳の腰に足を巻きつけて、百合は腰を振っていた。
「百合、百合……」
「いいっ……ああっ……あっ!」
「もっと声を手……だして」
「はあっ……ンア……っ……そこ……あああっ」
 夜は感じなかった甘い痒みが全身を駆け巡り始め、百合は気が狂ったように美徳にしがみ付いた。その百合の乳房を形を己の指で歪ませながら、美徳が白い裸体を貪っては舐めて吸い付く。
「わずらわしい、豪族である自分の面目のために、もう屋敷に帰らねば、なりません」
「……やあっ……あんっ……あんっ……ああ」
「ずっとこうしたい、のに!」
 胸の先を強く吸い付かれ、痺れるような快感が走り、局部を甘く蕩けさせた。
「百合、百合、ずっと私の傍に居てくださいね」
「あっ、あっ、……ぁああんっ」
 痛みは大分薄れて蜜の方が量が多くなったのか、美徳の欲の動きが滑らかになった。
 それは自分の身体に百合が馴染んだからだと歓喜した美徳が、柔らかな百合の身体を抱きしめてさらに揺さぶった。
 百合は、今、美徳が世界の全てで、快楽以外は何も考えられない。
 美徳が唇を望んだので喜んで与え、舌を絡ませて、お互いの唇を貪った。
 くちゃくちゃと音を立てながら吸い、離れたかと思うとまた貪っては吸いあう。
 これはやっぱり美徳ではない。あの気品高い貴人がこんな獣になるわけがないと百合は思いながら、美徳の激しい愛撫に堪えた。
「毎日……来ます。……百合」
 熱い塊が、奥の奥まで届いて擦りあげた。知らなかった甘美な感覚に、百合はまたいやらしい声をあげてしまった。一段と入っているものが太くなり、さらに抉った。
 今の季節の朝はもう肌寒いのに、暑くて暑くてたまらなかった。
「ああっあんっ……もうやあっ……ああっアああ!」
「く……そんな……締め付け」
 達した美徳が、また百合の中で脈打ち、昨夜と同じように精を注いだ。
 入りきらない白濁が、結合部から流れ出ていきお互いを濡らしていく……。


 それから毎夜美徳が訪れ、百合を抱いた。
 妻問いの相手を探るのは禁忌とされているので、彩子達は美徳の相手が誰なのか盛り上がっていたが、百合は彼女達から遠く離れた場所で洗濯をしながら、会話に加わらずに無言を貫いていた。
 だれも相手が百合だとは、夢にも思っていない。
 肩にまたかわせみが飛んできて止まり、綺麗な声でさえずったが、最近の百合にそれに返事する元気はない。連夜、激しく抱かれて身体が持たない。僅か一ヶ月半ほどで、太っていた百合はすっかり痩せてしまった。彩子たちが心配してくれたが、理由など言えるはずもなかった。
 月の物も止まってしまった。美徳の子を妊娠したに違いなかった。
 木津一族の子供を身ごもったなどと、ばれたらどうなるのだろう。百合は恐ろしくて胸がつぶれそうな思いだ。
 他の娘なら、即美徳と結婚とか盛り上がれるが、流れ者の百合はとてもそんな大それた夢は持てない。早く美徳が自分に飽きてくれるのを待つばかりだ。
「は……」
 ふらふらと家に戻り、崩れるように褥に横になった。最近食べ物のにおいを嗅ぐのも苦痛で、外に出るのもおっくうだ。痩せたいとは思っていたが、こんなに脱力して気持ち悪い毎日を送るぐらいなら、太ったままのほうが良かった。
 宵が心配そうに鳴いても、百合は力なく笑って小さな額をかくくらいしかできない。
 今夜も美徳は来るのだろうか。ずっとごまかし続けるのは不可能だ。とにかくこのままではいけない。つわりが終わり次第郷を抜けたほうが良い。美徳は本気で百合を迎えるつもりらしいが、そんな破天荒な話を周囲が許すはずがない。妻になれるのは村の女に限った話だと、誰かが言っていた。
 だんだん百合は恐ろしくなってきた。
 具合が悪いとかなんとか言っている場合ではない。
 今すぐにでも、この郷をでるべきではないだろうか。このまま流されてしまったら、取り返しのつかない傷を美徳につける未来が待っているのだ。
 心なしかつわりの吐き気が消えた。
 百合はがばりと起き上がって、布を広げて少ない食べ物と着替えと身の回りのものを用意した。
 今すぐ出よう、この郷を……!

 外はもう薄暗くなりかけていた。この薄暗い闇は山へ入ればさらに深くなる。
 おなかを庇うようにして歩き、百合は山へ入った。山の木々や獣達は、百合を心配そうに見ていたが、この峠を越えたらまた違う村があって、そこの小さな尼寺に宿を請うといいよと言ってくれた。峠はそうは辛いものではなく、半日ほどで越えられるとも……。
 途中で老夫婦の家が一軒あって、そこで泊まるといいとも。
 しばらく歩いた頃、そばで歩いていた宵が、誰かを呼ぶように左へ向かって鳴いた。
 おそらく宵の知り合いの獣かなんかだろうと思っていた百合は、そちら見てぎょっとした。
 木々が途切れた、月明かりの下に立っていたのは、美徳だった。
「どこへ、行こうと言うのですか?」
「あ……」
 百合は後ずさった。そのまま逃げようとして、あっけなく捕まってしまう。
「そんな身重の身体で、どこへ行こうとしていたのです? さあ、私の家に行きましょう?」
「……は?」
 美徳は、だるそうにしている百合をおんぶした。
 にゃうと宵が鳴いて美徳の足元にまとわりついた。百合はしばらく放心していたのだが、やがてはっとした。まだ夜に入ったばかりで村人がそこかしこに歩いている、このままでは注目の的だ。
「あのっ、私は、もう……郷へは」
「そんなことは、貴女の一存で決められるものではありません。第一私が許しません」
 ざしざしと土を草履で踏みながら、美徳が言い、あっという間に郷へ戻って来てしまった。
 身じろぎするたびに、美徳の水干にたきしめられた香の匂いが漂う。半分の月が空にぽかりと浮かんでいて、幻想的な風景といえば風景だったが、相手が自分では興ざめだろう。
「ふふ、在の中将が姫君を攫った時に、こんな感じだったのかもしれませんね」
「……藤原の姫君と私とでは、天と地ほどの差がございます」
 在の中将とは伊勢物語に出てくる主人公だ。彼は后候補の藤原の姫をさらって、夜の道を歩んだのだった。
 右の手前の方に彩子の家が見えてきて、だるい中でも百合は緊張して身体を強張らせた。降りようと踏ん張ってみても、がっしりと美徳の腕は百合の両足を腕で抱きこんでいて無理だ。
 おまけになんという間の悪さか、当の本人が家の中から出て来た。手に桶を持っているから、汚れた水を捨てようとして、出てきたのだろう。
 行って欲しくないのに、美徳はそちらへ向かって歩いていく。
 烏帽子を被った殿方が、女を背負っているのだ。案の定、彩子は美徳から百合に視線を移して、大きな目をまん丸にした。
「ええええええ?」
 大声を上げた彩子の声に、彼女の家の中から人がわらわらと出てきた。皆、美徳と百合を見て、彩子と同じように目をまん丸にして、呆気にとられている。
 百合は恥ずかしくてたまらず、懸命に顔を俯かせた。
 こうしたら、痩せた今では自分とはわかるまい。
 ……と思っていたのは百合だけで、彩子が大声で叫んだこの一言で、騒ぎが大きくなった。
「美徳様のお相手って、百合だったの!!!」
「うっそおおおおおっ」
「信じらんねっ!」
 聞きつけた村人が各家々から出て来てしまい、美徳と百合を見て同じように驚く。その中を美徳は平気な顔で百合をおんぶして歩いた。
 わざとやったのではないだろうか。百合は美徳の背に隠れながら思った。
 百合と美徳は、村人達の行列を引き連れて歩き、美徳は木津の屋敷の門の前で、村人達に振り返った。
「見送りご苦労だった。我が妻はこの百合にするゆえ、見知りおけ」
 村人達はざわざわとして、その美徳の言葉に返事をしない。
 認めていないのだろう、何しろ百合は流れ者なのだから。
 果たして美徳の声に、凄みのある冷たさが混じった。
「この美徳の決定に不満があるのか?」
 ……結局、誰一人として美徳には逆らえないのである。

 屋敷の一室に引き入れられた百合は、お湯殿に入れられた後、食事を摂らされた。
 その間、じっと美徳が寄り添って離れず、給仕や手伝いをしてくれる侍女の視線が痛いったらない。
 一体何が、ここまで自分に執着させるのかさっぱりわからないから、百合の心の中では、美徳の寵がありがたいと思うより、気持ちが悪いという気持ちの方が勝っていた。
 何かを侍女が耳打ちし、美徳が席を外した隙にその侍女が百合に言った。
「申し訳ございません百合様。美徳様はあのとおりの御方で」
 どの通りの御方なのかさっぱりわからない。
 面識がほとんどないし、この一月ほどは美徳は百合の身体を貪るばかりで、ほとんど語らなかった。太った女が好きなのかと最初は思っていたが、すっかり痩せてしまった今でも執着しているので、そうでもないらしい。
「でもよろしうございました。やっと北の方(正妻)を娶られる気になられて」
「その事ですが、……私なんかでよろしいんでしょうか?」
「木津の北の方は、身分の高低は関係ございませんのよ昔から。主が認めた女ならどなたでも北の方になられるのです」
「でも……」
「それに百合様は不思議な力をお持ちとか。生き物とお話をされると聞き及んでおりますよ」
 侍女はそこまで話して、冷めたお茶を取り替えねばと席を立って出て行き、百合一人になると辺りは静まり返った。
 美しい綾の几帳、涼しげな御簾、磨き上げられた床に、あかあかと灯る燈台。
 どれもこれも、自分にはふさわしくない。
 やはりこれは出て行ったほうがいいだろう。
 庭から宵の鳴く声が聞こえたので、百合はふらりと袿を落としてすのこへ出て、庭先へ降りた。
「宵……、どうしたの?」
 宵からの返事はない。
 代わりに背後からかたんと音がしたかと思うと、あわただしい衣擦れの音がして、美徳が焦ったように庭先へ降りてきた。
「またどこかへ行こうとしているのですか!」
「あ……」
「何故です? 私の言葉がそんなに信じられないのですか? 私が偽りの愛を囁いているとでも?」
「いえ、そういうわけでは……」
 百合は内心でかなり醒めていた。
 自然や生き物と対話できる妙な力が、美徳の妻になった理由なら、くだらない事で妻にしたものだと思ってしまう。かならず近い未来に後悔する日が来るに違いないのだ。
「私は醜い女です。ですから何が、そんなにお気に召したのかわからないのです」
「醜い!? 誰がそのようなたわけた話を。貴女は醜くなどありません!」
「でもそう思われています。本当は、私のこの妙な力がめずらしいからなのでは、ないのですか?」
「妙な力?」
 美徳はそこで押し黙った。
 百合は地面に視線をおろしたまま、やっぱりそうなんだと思った。
 そんな不幸は結婚は嫌だ。それならずっと一人のほうがいい。
 それなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。どうしてこんなに悲しいと思ってしまうのだろう。
 涙を流すなんて、愚かしいにも程があるのに……。
 袖で涙を拭こうとすると、美徳の袖が百合の涙をやさしく拭った。やさしい、やわらかな感触にまた胸が痛んだ。
 美徳が、ぽつりと言った。
「……恋というものは、本当に突然堕ちるものなんです。きっと、私は妙な力にやられた最初の一人なのでしょう」
 驚いて見あげると、涼しげな目もとの縁が赤らみ、いつものように欲望に満ちた視線が向けられていた。
「妻問いは、叔父からあの彩子の元へ通えと言われていました。でも、本性を暴いてやろうと思って、いつもの行者姿で出向いたんですよ」
 あの壮絶に汚くて髭ぼうぼうの男だ。百合は真っ先に逃げていった彩子達を思い出していた。
「貴女だけが違った。優しかったし、式にもそんなに驚かなかった。おまけに自分の食事が粗末ではないかと案じるさまがいじらしくて」
 なにやら、美徳の中で激しく自分が美化されていたので、百合は頭を傾げた。
「あの、それは流れ者だったせいがありますし、慣れていたのです」
「慣れるわけないでしょう。見るたびに辛さを思い出すはずです。ですから似た人間など嫌になると思いますよ。貴女は幼い頃から何一つ変わらなかった」
「…………」
 不意にかき抱かれ、百合は激しく口付けられた。
 涼しげでおとなしそうな外見なのに、どうして口付けや愛撫は、こうもこの人は激しいのだろう。
「この恋を、叔父にはずっと内緒にしていました。きっと貴女の素性を知ったら認めまいと。でも本当はとっくにばれていて、今日叱責されて恥じ入りました。私は、妻問いの翌日に貴女をこちらに引き取るべきだったのです」
「……さすがにそれはどうかと」
 妻問いの相手が公表されるのはまちまちだが、大体一週間を過ぎた辺りからで、相手の家に行くようになるのはもっと後だ。下手すると一生女は実家に居る。
 ともかく翌日に女をさらう男など、滑稽そのものだ。
 確かこの美徳という人は、冷静沈着な人物と言われてはいなかっただろうか。
 ひょっとすると、別人かという考えがちらりと頭を掠めたが、皆の対応を思い出すとどう考えても本物だ。
「あの食事も美味しかったのですが、その後の貴女ときたらとても優しくてほがらかで明るくて。あんな成りの私だったのに。それなのに、家を伺う様な事を聞いた貴女を疑って冷たくしてしまって、勘違いを謝ろうとしたのに聞いても下さらなくて」
 今夜の美徳はいやに饒舌だ。一体どれが本当の美徳なのか、百合は戸惑った。
「え……と、それは」
「どれだけ後悔したか、おわかりにはならないでしょう? 叔父にはあまりの汚さに怒られてしまったし、貴女との思い出の品(?)を皆捨てられてしまって、どうしたらいいのかわからなくなりましたよ。この姿ではきっと貴女は私を拒絶するでしょう?」
「そりゃ……まあ」
 流れ者が宮家の血を引く殿方と一緒になるなど、聞いた事もない。あり得ない。
 だが目の前の美徳は、それを今飛び越えようとしている。百合は怖くて仕方ないというのに。
「ですから、私、やっぱり」
 百合が拒絶の言葉を口にすると、美徳の百合の肩を抱く手が強くなった。頤に指が添えられ、間近で美しい顔を見させられる。
 熱く、狂おしい、燃えるような、それでいて甘いものが百合を縛っていく。
「この郷から出て行くつもりですか? させません! 何度出ても阻止しますし連れ戻します。でも……、でも、必ず幸せにします。三十日三十夜常にそばに居ます。私のすべてを貴女に捧げます、ですから、百合も私にすべてください……!」
「美徳様」
「百合、私には貴女だけなんです」
 百合は初めて、引き寄せられるように、自分から美徳に口付けた……。


「跡取りの若の独占欲には、凄まじいものがあるな」
「そうだよな……」
 もう何年も前に、遠い村から流れてきた百合の一家を、村は受け入れるかどうかで議論した。
 多数は鬼の血を薄めないほうが良いという反対派だったが、流れ一家の幼い娘に心を奪われた木津の跡取りの鶴の一声で、一家は受け入れられた。
 百合という名前の娘は、名前の通り白い肌が眩しい、たおやかな娘だった。多少太っていたが、それがまた愛らしく、心奪われる村の少年達も多かった。
 修行のために村から出る事になっていた跡取りは、烏とかわせみの式神を作り、自分が成人して戻るまで誰も男を近づけるなと命じた……。
 稲の息子二人は、遠くで睦まじくしている跡取り夫婦を見た。
「わからねえ奴にはわからねえけど、百合ちゃんってぽちゃっとしてるのが良かったよな」
「うん、あのもちもちした身体に触りたかったな」
 二人に気づいた美徳は、すぐに自分の長い袖の中に百合を隠した。
 美徳に気づかれた二人は、慌ててその場から逃げ出した。もうすぐあの乱暴な烏が飛んでくる。ひどいと猪が襲ってきたりする。百合に手を出そうとするといつもこうなのだ。
「……まったく、しつこい輩ですね」
「どうなさったのですか?」
 せっかく花摘みをしていたのに、いきなり屋敷に戻された百合は、女児を胸に抱いて不思議そうに顔を傾けた。庭には、猫又と宵の間に出来た猫達が、数匹のんびり昼寝をしている。
 それを見た美徳は妻の色香に当てられて、明日やってくる妹夫妻に、妻を見せるのが嫌になってきた。
 貴族の男は皆薄情で、良い女を見たらすぐにちょっかいを出す。
 あの惇長など、内裏でどれだけの女を食っているものやら。
 そして未だに独身の彰親など、絶対に絶対に百合に言い寄りそうだ。霧の君はやはり彼には駄目だったようで、諦めた彼女は他の男に乗り換えてしまった。
 がし、と、妻の両肩を美徳は掴んだ。
「いいですか百合、貴女には私だけですよ」
「……わかっておりますよ?」
「言い寄られてもなびいてはいけません」
「おかしな方。誰も私に興味など持ちませんよ」
 それは自分の式神が追い払っているからだ! とは後ろめたくて、美徳は口が裂けても言えない。
 一時的に痩せていた百合は、またふっくらとしたやさしい体型に戻ってしまった。
 けしかけた烏が舞い戻ってきて、嫉妬深い主人は嫌われるぞと鳴いて、飛び去っていく。
「……嫉妬深い? 何を言っているのかしら」
「気のせいです。それより早く家の中へ」
 どいつもこいつも、百合に気があるそぶりを見せているのが、美徳は気に入らない。
 醜いだのと子供じみたことを言っている男共が、一番信用ならない。それは明らかに百合に気がある証だ。あの獣じみた視線が百合にはわからないのか。わからないから自分が醜いだの太っているだの、意味不明な思い込みで落ち込んだりするのだ。
 冷静沈着な男の唯一の弱点は、まだ花が摘み終わっていないのにと言いながら、仕方なく屋敷に入るのだった。
 さて、今宵、妻は抱かせてくれるだろうか……。
 浅井の村は、今日も美しい夕陽に包まれている。

<おわり>