雪のように舞う桜の中で 第07話

 翌日、一条は坂本の実家へ帰っていった。

 代わりに惇長の従者の由綱が女房の役目を果たしてくれたのだが、一条と違って男の由綱は御簾内には入ってこれないため、身の回りのあれこれを惇長が手伝ってくれて珠子は恐縮した。本来ならば、惇長ほどの身分の者が、侍女のように世話するなど絶対に有り得ない。

 いくら身をやつす旅でも、最初から一条を里帰りさせる予定だったのなら、女房をもう一人位は引き連れるものだ。

 余程、惇長はこの結婚を内密にしたいらしかった。

 夜、勤行の時間に合わせて寺へ向かうと、寺の周辺は大変なにぎわいだった。昨日逢坂の関で見かけた牛車もいくつも見える。彼らと同じように寺へ入るのかと思えば、惇長の牛車はその場を通りぬけ、人気がないところまで進んだ。そこには寺の者が二人待っていた。

「先駆けで、人を蹴散らすような旅にしたくありませんので」

 珠子は本当の惇長の気持ちを察していたので、黙って頷いた。

 牛車から降りる時の壺装束の用意を惇長が手伝ってくれ、寺の者二人の案内のままに、珠子達は質素な門をくぐって境内へ入った。

 本堂へ辿り着くまで坂道が多く、皆、珠子に合わせてゆっくりと歩いてくれるのに、珠子は着いて行くだけで息が切れ、惇長が昨日言っていた通り、自分のような姫君が山道を歩くのは無謀だなと反省した。邸の中と外はこんなにも違うのだ。十数歩歩いただけで、もう足が重くなって震える。

 一行はゆるゆると進みながら人混みの中へ入り、珠子は惇長と本堂へ昇った。

「沢山の人が居て目が回りそう」

「そうですね。いくら賤の中で暮らしていた貴女でも、こんな場は初めてでしょう」

 他国の受領や、それなりの身分の者が威張り散らしている中、惇長と珠子は隅の方でひっそりと手を合わせた。

 僧侶達の勤行の声は重々しく、それでいて心の平安をもたらすような不思議な響きに満ちていて、自然と一体化しているような不思議な心地がする。

 寺の周辺のざわめきに対して、打って変わった気の静けさが珠子には珍しく思われた。

 本当のところは勤行の間も受領の者達や、どこかの貴族の北の方などがおしゃべりをしていたりして騒々しかったのだが、珠子はそれらを綺麗に心の中で消し去り、勤行の気と同化していたのだった。

 夜が空け、珠子達が朝の勤行を済ませて、宿泊した坊で寛いでいる所へ、案内もなしに一人の僧が訪ねてきた。

 僧の名前は源晶(げんしょう)と言い、徳が高そうな壮年の男だった。惇長が呼んでいたらしい。

「こちらへ」

 惇長に言われるがままに僧は板敷きの上に腰を下ろした。

 何故か人払いがされた。

 御簾越しのさらに几帳越しでも、清らかな寺の空気が、源晶によってさらに清められていくのがわかる。気を受けた庭の花菖蒲が、より鮮やかに青く見えて眩しい。

 呼び出したくせに、惇長はそんな源晶を忌々し気に見ているのが珠子は不思議だった。源晶はにこやかにしている。知り合いではあっても仲はよくなさそうだった。

「二度、参られましたか」

「そうですね、源晶殿もお勤めご苦労様です。もう内裏には参内されませんか? お許しも出たようですよ」

「……近江の北の地に新たな観音堂が建てられております。今年中にあちらへ行くつもりです」

「それは残念な事だ。望めばこちらの座主にも成れる貴方が」

 その口ぶりは冷ややかで、成れるはずが無いと言外に匂わせており、珠子は気遣うように、廂にひっそりと座している源晶を見た。

 しかし、源晶の顔は相変わらず微笑が浮かぶのみで、完全に受け流している。

「位に執着するような俗念はありません。御仏にお仕えするのみです」

「かつて大将になろうと駆けずり回られた人と、同一人物とは思えませんね」

 再び、鋭い刺のような言葉が惇長の口から発せられたが、源晶が同じように受け流したので、部屋の空気は変わらなかった。珠子だけが御簾内ではらはらしている。

 その御簾を隔てて、惇長と源晶は向い合っていた。

「俗世の欲は全て無用のものです」

「その割には先の右大臣の家に、こちらの寺の者が出入りしているそうだが。主上(おかみ、天皇)は気にされておいでです。先年の謀反をお忘れではありますまい? 同じ事を繰り返されるおつもりか」

「一族全て断罪されましたが、私はあずかり知らぬ事ですし、全て過去の事と思っております。それよりもお連れになった姫が驚いておいでですよ。もう退出されると伺いましたが、庭でも散策されてはいかがでしょうか。女人には説教くさい香りより、花の香りの方が好ましいでしょう」

 源晶の澄んだ眼差しが、御簾を隔てた几帳越しに向けられ、覗き見ていた珠子はわけもなくどぎまぎした。

 源晶が下がっても、惇長は彼が座っていた廂の方を向いたまま、動かなかった。

 その体躯の中を激情が巡り巡っているのが見える。夜の愛撫の時に見せる、全てを焼きつくす炎のような熱だ。

 一体、惇長が今何を思って、何を抑えこもうとしているのか、何も聞かされていない珠子にはわからない。

 ただ、その惇長の苦しみを知らない自分が、なんとも歯がゆかった。

(黙っているしかないなんて、なんて辛いのかしら)

 今日も蒸し暑くなるのか、髪が湿気を吸って重く感じる。 

 源晶が居なくなった途端に、その暑さが甦ったのか、惇長の心のうちに滾る熱がそう思わせるのか、珠子は扇を静かに煽った。

 やがて気をを鎮めた惇長が、珠子に振り返った。

「寺の方が申されているから、半刻(一時間)ほど花を眺めましょうか」

「はい……」

 珠子はホッとして、手に持っていた扇を静かに閉じ、几帳を押しやり惇長の隣へいざり寄った。二人はそのまま御簾の外へ出て階に座った。

 惇長は、珠子の知らない花の名前を教えてくれ、それにまつわる歌を幾つか教えてくれた。

 歌を苦手だと言っている惇長だが、貴族の教養として、ひと通りの和歌集は読破しているようで、かなり詳しい。

 興味深げに耳を傾けながらも、珠子は、さっきの惇長と源晶が語っていた事件について思いを巡らせていた。

 珠子のような世間知らずの姫でも、庶民のように生きる毎日の中で、先年の謀反の事件は知っている。

 それは、左大臣の姫である中宮の呪殺を先の右大臣一派が行い、呪いの人型や、一族の僧侶へ呪殺の祈祷が依頼されている文書が見つかったというものだ。

 源晶は、その先の右大臣家に連なる人間で、罪を免れるために、出家したのだろうと思われる。

 先ほどの惇長の口ぶりから、また何か起きようとしているのだろうかと、珠子が暗い気持ちに囚われていると、惇長が言った。

「……ね」

「え?」

「霧が晴れて、ここから湖が見えますよ、ほら……」

 話を聞いていなかった珠子に、惇長が持っている扇で前を指した。

 確かに庭の向こうに湖が見える。穏やかな空の色を映しているその清らかな湖面に、珠子は目を瞬かせた。

「……海みたい」

「大きいでしょう? でも湖なんです。午後からは舟遊びをしましょう」

「船に乗るの?」

 暗い気持ちがたちまち吹き飛び、うれしくなった珠子は声を弾ませた。

 そのはしゃぎぶりがおかしかったのか、惇長は大きく笑い、珠子の肩を引き寄せた。

 人払いをしているとはいえ、階で抱き合っているのはかなりはずかしい。

 でも、優しい惇長がうれしくて、珠子は黙ってしなだれかかった。殿方の胸の中というものは、まるで雲に抱かれるかのように、夢見心地にさせてくれる。

「珠子は純粋そのものですね」

「子供っぽいとおっしゃるのかしら?」

 折角の風情のある雰囲気を壊されて、珠子はツンとした。

 もっと優しくされたい、惇長を感じたいと思わずにはいられない……。

 そんな彼女の心の中で、もう一人の彼女が言う。

 愚かな事だ、没落した宮家の姫など、彼は一人前の妻にしないというのに。所詮一年限りの契約結婚なのにと。

(今は、考えたくない)

 珠子は惇長に縋りつきたくなる気持ちを抑え、そっと目を閉じた。

 

 それから朝餉を寺で済ませ、二人は船乗り場へ向かった。船に乗る貴族は二人だけではなく、他に何組も居た。船がたくさん停泊していて、ざわざわと大勢の人々でにぎわっている

 漁師や商人達が、都の貴族が舟遊びをするというのを聞きつけて、遠巻きにじろじろ見ており、牛車からおりた珠子は、市女傘(いちめがさ)に虫垂衣(むしのたれぎぬ)で顔を隠していても緊張した。

「人が多くて、なんだか気が遠くなりそう……」

「珠子の顔をちらりとでも見えないかなと、皆思っているのでしょうね」

「こんな顔見てどうするのでしょう」

 珠子は行きかう船を見つめた。

 大小の物資を細長い船に乗せて、船乗り達が湖の上を渡っていくのが、邸の中で暮らす珠子にはなんとも珍しい。

 船乗り達の櫂の動きに従って船が揺ら揺らと左右に揺れ、今にも湖に転覆しそうに見えて、不安がふいに沸き上がってきた。

「あの船に乗るの? まるで一本の木から掘り出された棒のような……」

「あれは丸木舟と言います。沈まない船なのでもっぱら荷物運搬ですよ。ご安心なさい、珠子が乗るのはもっと幅広の大きな船ですから」

「良かった。あんな棒のような船、乗れそうもないわ」

 珠子の勘違いがとてもおかしかったらしく、はははと惇長が声を出して笑った。

「私でも乗れませんよ。あれはこの湖上で生業を立てている者だけが、乗れる代物でしょうからね」

「毎日、湖の上で生活しているような感じなのね」

「そう」

「とても素敵、殿方に生まれていたら、あんな仕事してみたい」

 おだやかな湖しか知らない珠子は、目を輝かせた。

 船乗り達が聞いたら、世間を知らなさ過ぎると失笑しただろう。結局、珠子は宮家の姫君以外にはなれないのだ。

 船が着岸し、珠子の前に並んでいた貴族達が船へ乗り込み始めた。

「あ、……!」

 惇長に手を貸してもらって船に乗り込んだ珠子は、足元がふわふわと不安定になって惇長の腕にしがみついた。

 その時、またあの屋敷で漂っていた香が香った。

 どきりと胸が嫌な鼓動を立て、恐怖から身体中の毛が逆立っていく。

 見上げる惇長は、やはり何も気づいていないようだ。

 珠子は言いようのない不安に包まれながら、惇長に誘われるままに用意された席に座った。

 珠子達の後に続いて貴族の男女が数人乗りこむと、船頭が櫂を操作して、船は穏やかな湖面を滑り出した。

 波は凪いでいて舟遊び日和だ。珠子は惇長が船頭と談笑しているのを見ていた。妖しい匂いはいくらか薄らいだが、まだ消えていない。もし湖に住んでいる妖が、この匂いを発しているのだとしたら……。

(怖い)

 鼓動が速くなってきて気持ち悪い。珠子は早く船から降りたくてたまらなくなった。

 付いてきた従者達が、皆湖岸で待っているのが見える。自分も見ているだけで良かったのかもしれない……。

 その人々は、もう砂粒のように小さかった。

 周りは楽しそうにしているのに、珠子はまったく舟遊びに興じられない。

「湖面を間近に覗いてはいけませんよ」

 唐突に隣から声がかかって、珠子はぎょっとした。

 隣は惇長の席なのに、いつの間にか桔梗(表が二藍、裏が緑)の水干を着た若い男が座っていた。惇長はまだ船頭と話し込んでいる。

「え?」

 珠子は男の顔に驚いた。

 その造作は、あまりに自分に似通っていた

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