雪のように舞う桜の中で 第10話

 乞巧奠(きこうでん、七夕祭り)が無事に済み、宿直の惇長はなんともなし清涼殿の廂に座り、ふと置かれたままになっている盥の水面に目をやった。

 雲がひとつもなく星星の輝きが美しい。

 その美しさには、何か心の奥底にある熱いものを引き出さんとする強い思いがあるように思われた。

「星を見るにはいい夜だったね」

 御簾の中からお出ましになった帝に、惇長はすっと頭を下げた。

「御寝あそばせませぬか?」

「このような夜は、星を見ているほうがよい」

 惇長は、自分が見ていた盥をそっと帝の前に捧げ、御簾を上げた。普段星など見ないが、七夕の夜だけは別だ。庶民たちも貴族も、盥に水を張って、そこに映る星星に思いを馳せる。

「牽牛と織女は、一年に一度逢えるだけでもうらやましいものだな。世の中には年に一度でさえ逢えぬ者達が大勢いるだろうに」

「帝にそのような御方がおいででしたか?」

 帝は父母が健在で、妃達も誰も先立たれてはおられない。宮達も健やかに成長されている。

「私ではない。大将、そなただ」

 黙りこんだ惇長に、帝は言い過ぎたかと謝るように袖をお上げになった。

「唐の帝は方士に想いを託して、妃の形見を得られたが| 《※1》、我らにはそれはかなわぬ。ただただ、かつての思い出を形見に生きていくほかはない」

「はい……」

「だが、そなたは若い。まことの比翼の鳥| 《※2》が待っているのかもしれない」

「…………」

 帝が盥を押し戻してきたので、惇長は御簾を下げた。

「人は一度限りの生ゆえ美しい儚さに満ちている。そのひとつが消えたばかりに、己の美しさや世界を顧みないのはさびしい」

 惇長は内心で愕然としている。もしかして、帝は、己の恐ろしい計画を見抜いているのではないかと。袖の中に隠したこぶしが僅かに震える。

「色は移るのが世の常ではありますが、今宵はそれをつらく思います」

「そうではない。移るからこそ、人は生きられる。ただ、それが深まるか浅く散っていくか……」

 御簾の奥深くへお戻りになる帝を、惇長は乱れる心を抑えながら見守った。

(何を迷う。愚かしいとは最初からわかっていたではないか)

 心を乱すのは、珠子の穢れない瞳。何気ない美しい仕草。

 何もかも亡き正妻の詔子と違うのに、どうしてこうも何かにつけて自分のまなかいを散らつくのか。それがなんとも腹立たしい。

 

 秋の盛り、改築された桜花殿(さくらばなどの)へ珠子は入った。

 左大臣邸には及ばないが、それでも一般の貴族の邸以上の豪勢な造りで、美しく趣き深く整えられた庭がまたすばらしかった。

 やはりそうなのかとがっかりしたのは、西の対に車が付けられ、惇長にここが珠子が住まう場所だと引き入れられた時だった。

 契約妻の珠子は、やはり北の対には入れないらしい。

 北の対に入ってこそ、やっと世間にも正妻として認めてもらえる。

 それなのに。

 そう思ってしまう自分がおかしいのだと、珠子は自分自身のことでありながら気づいていなかった。それを口に出してしまった時も。

 入った記憶などない、この桜花殿に懐かしさを覚えたりするのも。

 常の珠子なら、疑問に思う感情だった。

「……何故北の対に入れないのですか? 妻だというのに」

「少しお待ちを。今は駄目です」

 惇長は珠子の不満を一蹴した。

 しょげかえる珠子を一条が痛ましそうに見ている。

 その夜、寝殿へ戻った惇長の後を追って一条は訴えた。

「どういうことです? あの方はとても珠子様には見えません!」

 燈台の下で脇息に肩肘を乗せた惇長はくすくす笑いながら一条を掻き抱いた。一条はその行為に我慢ならず直ぐに惇長の袖を振り払った。

「おかしいな。お前も言っていたじゃないか、珠子に詔子の香が香ると。彰親に行わせた詔子を呼び戻す術は承知済みだろうに?」

「それは来年の春のひと時だけだと!」

「馬鹿を言うな。一度黄泉の世界へ入り込んだ詔子を呼び戻すんだ。ずっと居てもらわなければ困る」

「……私は、ほんのひと時ならばとご協力したのです! あれでは珠子様のお身体を詔子様が乗っ取られるようではありませんか!」

「その通りだ。もうすぐ姿かたちも詔子になる。来年の春には完全に詔子になるんだ」

 反魂だ。

 陰陽の術でもっともやってはいけないとされる禁呪。

 もっとも、それができるのは術者が天賦の才を持っている場合のみだ。当代では安倍彰親以外には不可能だろう。

 なんという恐ろしい話だ。

 死者が甦って、生者を乗っ取ってもいいのだろうか。

 一条は恐ろしさに胸が潰れそうになり、脂汗が異様に滲みだした胸を押さえた

 身体を乗っ取られた後、珠子の魂はどうなるのだろう、死んでいるわけではないからあの世へはいけまい、正当な身体の持ち主なのに、この世にもあの世にも行く場所がなくなってしまうのだ。

「……あなたは、珠子様を哀れと思われないのですか?」

「あんな朽ち果てた屋敷を出て、この夢のように美しい屋敷に住み、色鮮やかな衣装に埋もれて暮らせるんだ。何が哀れだ」

「貴方という方は!」

 惇長が薄く笑って、怒りと恐ろしさに震える一条を再び抱き寄せ、その唇を合わせた。

 一条が嫌がって髪を振り乱しても力は格段に惇長の方が上で、為す術もなくそのまま流されていく。 震える一条を抱き寄せたまま、惇長が低く囁いた。

「愛する男の頼みなら、なんでも聞くといったのはお前だろう?」

「惇長様……」

「珠子と私とどちらが大事だ? 一条……いや、敦子」

「でも……」

 さっき見た珠子は、珠子らしさが完全に消えていて人形のようだった。花の盛りの姫があまりに哀れではないか。

 そう訴える一条に惇長は不機嫌になる。

 一条は惇長の正妻だった詔子の乳姉妹であり、惇長の初めての相手だった。

 三人は幼馴染でとても仲がよかった。それは詔子が惇長の正妻になっても変わらず、二人は恋人関係をずっと続けてきた。その一条が、惇長の心の何もかもを承知しているはずの一条が、この期に及んで珠子を心配しだした。心変わりされたようで不愉快だ。

「殺された詔子が蘇って来るんだよ。また三人で仲良くしたらいいじゃないか。珠子だって死ぬわけではない」

「人の不幸の上に幸せなどあってはなりませぬ。いずれ御仏の罰が下りましょう」

 一条は悲しそうに俯いた。惇長はそんな一条に唇を重ね、その肌に手を滑らせる。

 惇長の顔からさっきの傲慢さは消え、辛さを噛み締めるように一条に溺れていく……。

 それから数日が過ぎた。

 西の対は紅葉がとても美しい。

 昼下がり、頬を撫でる風に珠子は、はっとした。自分は今何をしていただろう。廂できょときょとと周囲を見回し誰も居ないと確認して安堵した。

 最近寝ぼけているのか記憶が飛んだりして、自分がおかしい気がする。

「あの変な香が香らなくなったのはうれしいのだけど」

 あれほど香っていた匂いが消えたのは、惇長が彰親の屋敷に突然現れた夏の夜の翌日だった。そして誰かが近くで見ているような不気味な気配も消えた。

 嘆息して、珠子は習字でもしようかとすずりを引き寄せた。そして古今集の和歌で覚えているものを筆写していく。最近、流麗な字が書けるようになったのでうれしいなと珠子は唇をほころばせる。

『姫は懐かしい良い字を書かれるのですね』

 惇長が言った言葉を思い出して、珠子は笑みを浮かべた。

 しかし、次の瞬間疑問が浮かび上がってくる……、今思い出した惇長は若すぎなかっただろうか? 年で言えば元服した頃の少年のような。自分はそんなに若い頃惇長に出会っていただろうか?

 まだみづらに結った髪を振り回して追いかけっこしている童の惇長……、捕まるまいと逃げる自分と一条。一条と仲良くお菓子を分け合ったりひいな遊びをする……。三人で楽しく遊んで……。大人になって結婚して……そして…………。

 春の嵐の夜、狩衣をずぶ濡れにして惇長が逢いに来た。

 とても切羽詰った顔をして……どうしてそんなに不安そうなの? ああそうか、私が病気で床から上がることが出来ないからだ。冷たい手を温めてあげたくて、私は惇長様の手を両手に挟んだ。

 そんな私に惇長様は訴えかけるように、噛み締めるように言った。

『愛しています、貴女だけを生涯。一条の事はご心配なく……ずっと三人一緒ですよ』

 私も愛しています。何があっても、ずっとずっと……。

「姫?」

 珠子は、またぼんやりとしていた自分に気付いた。いつの間にか御簾内に彰親が入ってきていた。

「……彰親様」

「まだ新しいお屋敷には慣れませんか? 惇長殿が姫の為に綺麗にしたのですよ?」

 お土産と言って、彰親は綺麗に色づいている楓の葉を二枚、珠子に手渡した。

 それは彰親の着ている水干のはじ襲(表が朽葉、裏が黄色)の色にそっくりだった。珠子はそれを受け取ってじっと見入った。

 懐かしい記憶が蘇ってくる。

 路と二人の貧しいけれど、それでも心は満ち足りていた楽しい暮らし。

 昨年、路と庭の楓の木の下で落ち葉を掃き集めていたのを思い出して、珠子はその日に帰りたくなった。

「いかがされました? 最近何処へも行きたいとか困らせないから、ちょっと惇長殿も物足りなさそうですよ」

「行くって……、あちこちいくのは貴族の子女としてはしたないのでしょう?」

「そりゃそうですけれども」

 彰親は虚をつかれたように黙り込んだ。

 さやさやと御簾の外の遠く離れた庭から涼しい風が入ってきて、今日はとても過ごしやすい日だった。

 以前の珠子は天気がいいとどこへに連れて行けとか、庭で遊びたいと言って一条を困らせる姫だった。それが今では全くない。

「私……、一人ぼっちなのよ」

「姫?」

「一人で平気だと思っていたのに、最近寂しくて寂しくて……」

「惇長殿がいるではないですか?」

 珠子は首を激しく振った。黒髪がさざ波立ち蛇のようにくねる。

「逢いにきてくれるしやさしいわ。抱いてくれるし満たしてくれる……その一時だけは。でも違うの、あの人は私の向こうに誰か見てる」

「…………」

 涙がこぼれそうになって、珠子は慌てて袖で眦を押さえた。

「わかってるのよ契約ですものね。来年の春には消えるのよね?」

「姫……」

 彰親が困っているのがわかり、なんとか無理に笑おうとするがどうにも上手くいかない。

 自分は所詮世間知らずの零落した宮家の姫で、教養も何もあったものではない。奥ゆかしい姫君ならこんな失態は見せないだろうにと珠子は思いながら、顔だけ背けた。

「姫……」

「そうだ、貴方の家の下女にでも雇ってくださるかしら。あそこは庭も素敵だったし、皆良い人だったし、食べる物と着る物だけくれたらただでお仕えす……」

 ふわりと彰親に抱きしめられて、それ以上は珠子は言えなくなった。

 彰親らしくない抱き方で、彼の水干に強く顔を押し付けられて息苦しい。

「大丈夫ですよ姫。何も心配なんていりません。お辛い事がこれからもあると思いますけれど、私は姫を絶対に裏切りませんから」

「何を言っているの……?」

「必ず元の元気な姫に戻れますよ」

「…………?」

 珠子は、顔を何とか横にして呼吸をした。

 彰親がそんな珠子に気付いて腕の力を緩めてくれる。

 そのまま珠子の視線はなんとなく彰親の腕を通り越して、先にあった鏡に移動し、布をかけなくてはと思った瞬間、鏡に映る自分に目を疑った。

 映っているのは自分ではなかった。

 彰親はそのままなのに、映っているのは珠子ではなく、あの湖の底から浮かび上がってきた得体の知れない美しい女だ。着ているのもあの時と同じ紫の襲で、今珠子が着ている楓紅葉(紅色から白、黄、鶯色)の襲ではない。

「な……っ」

 鏡の向こうの女も同じように驚いている。珠子は顔を触った、女も同じように触る。

「何よこれ……」

「姫?」

 訝しげに彰親が珠子の顔を覗き込んできた。

 珠子は彰親の腕を振り払って鏡のもとへいざり、じっと顔を覗き込む。どう見ても別人だ。背後からやって来た彰親が息を飲む気配がした。

「どういう事なの! これは誰? 私は一体どうなっているの!」

「姫……、貴女は疲れて……」

「疲れてなどいないわ! 貴方何か知っているでしょう! 別人になる術か何かかけているのではないの? 私はこんなの承知していないわ」

「これにはわけが、落ち着かれて……」

 彰親は珠子を引き寄せようとして、はっと気がついたように後ろへ素早く下がった。

 珠子の身体全体に白くまばゆい光が満ちていく。目も開けてもいられないほどのまぶしさに、珠子も彰親も目を瞑って袖で顔を覆った。

 むせ返るほどのあの香りが爆発し、雷が落ちたような轟音が響いて地面が揺れ、几帳や燈台がひっくり返った。

「……これは一体」

 辺りが静まり返ると、彰親は顔を覆っていた袖をそっと下に降ろした。部屋の中は家財道具が倒れてめちゃくちゃになっていた。燈台の油がそこいらへんに飛び散り、鏡も割れている。

「姫?」

 珠子の姿がない。

 彰親はとっさに庭に飛び出した。

 すると居た。

 庭の楓の木の枝の上で、珠子は美徳に抱かれて気を失っていた。

 強風が美徳の蘇芳菊(表が白で裏が濃い赤)の水干の袖を揺さぶっており、抱き込まれている珠子の黒髪もざわざわと揺れていた。

「姫を返しなさい!」

 美徳は、珠子と同じ美しい顔を悪意でみなぎらせて口だけで笑った。

 猫の桜が虎に変化して庭に飛び出して来て、美徳に牙を向けて唸る。

 同時に惇長と一条が駆けつけてきた。

 二人を見た途端に美徳の美しい瞳は冷たく凍りつき、汚いものを見るような目つきになった。

「惇長殿か」

「お前! お前が珠子の……っ」

「妹は返してもらいますよ。妹に渡した貝を奪って、私との接触を遮断しようとしたって無駄です。言ったでしょう? われらが兄妹で同じ血を持っている限り、敗れない術は無いと」

 美徳は珠子の身体から、ぼうと輝く桃色の光の玉を、自分の右手に吸い出した。

 一条が悲鳴を上げ、惇長は射殺さんばかりに美徳を睨みつけて手に持っていた刀を抜いた。

 大人の手のひらほどの大きさの桃色の光の玉の中に、美しい女が眠っている。先ほど珠子の鏡に映った女だった。

「詔子に何をする」

「恋人を蘇らせるのに、妹を使うのは感心しない」

「だまれ」

「だまるのはそちらだ。術を進めるというのなら、今すぐにでもこの詔子殿の魂魄を消し去ります」

 美徳はすうっと地面に降り立ち、刀を向けている惇長に向かって桃色の光の玉を突き出した。

 その気迫に惇長は僅かにひるんで一歩後ろに下がった。

 一条は怯えて蹲ったままだが、彰親は閉じた扇を構えて様子を伺っている。

「さあ、どうします?」

「……そのような真似をすれば珠子姫の魂魄も消える。術にかける際に結びつけたのですよ」

 彰親が静かに言うと、美徳は僅かに眉を上げた。

「完璧な術をかけたつもりでしょうが、至る所に綻びがある。こんないい加減な術など無きの如しだ」

「く……っ」

 その時、気を失っていた珠子が目覚めた。

「お兄様……?」

「気づいたのか珠子」

 美徳は桃色の光の玉を持ったまま、妹を優しく立たせる。

 珠子はどこにいるのかわからないようで、あたりをゆっくりと見回した。

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