雪のように舞う桜の中で 第22話

 惇長が、高熱でこんこんと眠っている珠子を抱いて彰親の屋敷へ入ったのは、亥の刻を小半時ほど(午後十一時)過ぎた頃だった。雪が降る中、女房の楓が紙燭をわずかに灯して出迎え、先導する。そして惇長の後ろに彰親が続き、用意された局に入った。

 惇長は珠子を褥に横たえて大袿をかけ、額の汗を拭ってやった。

「火のような熱さだ。何故今祓わぬ?」

「姫の体調次第で早急に祓う事もしますが……、今祓うのは余計な力の消費です。妖に宇宙の気が味方しておりますのでね」

 楓に珠子を看るように言い、彰親は惇長を自分の部屋へ誘った。

 一条は右京を見張る為に淑景舎に留まっている。

 屋敷の廂は凍えるような寒さだったが、彰親の部屋も珠子の局も火桶の用意がされていて暖かだった。二人とも無言でいるところへ、もう一人の女房の桔梗がやって来て二人の間に瓶子と杯を置いて、静かに下がって行った。

 彰親が瓶子を持った。

「とりあえず、酒でも」

「飲めるか。このような時に」

 勧めた彰親に手を振り、惇長は腕を組んだ。

「あの妖の正体は一体なんだ?」

「金の気を元に作られた厄神です。風邪をこじらせて肺を病むというのはよくあります。ああ、肺は五行の木火土金水の中での金。金は収斂の性質を持ちますが、これを害されますと一身の気……、宗気を担っている肺はまともな働きができません。呼吸によって排出されるはずの邪気が胎内に残り、病になるのです。私も騙されておりましたからうまくやったものだと思います」

「そのようなことが人に可能か?」

「……知る限り四人。祖父と父と私……そして……兄である陰陽頭」

 惇長は鋭く彰親を見る。

「生きているのはお前と陰陽頭殿か。陰陽頭は兄上のところによく出入りしていたな」

「……ええ、義行の中納言殿の」

「一連はやはり二人の仕業と見るか」

「義行の中納言殿と、今の東宮大夫殿は仲がよろしいですから。あの大夫は東宮を護ろうなどと爪の先程も思っていない輩だ」

 吹雪になってきたらしく、凍み入る風がどこからともなく吹き込んできた。

「そうそう、意外な話を右京から仕入れたんですが」

「あの女の話はよせ。頭が痛くなる」

 こめかみを押さえた惇長を面白そうに見て、彰親がくすくす笑った。

「素晴らしく貴方に熱愛されて困っているとか、言っておりましたがね」

「数回寝たぐらいで熱愛か。何人私は熱愛をしておるのかわからぬな。とにかくその名を口にするのも耳に入れるのも嫌だ」

「はは、それは同感ですが……。彼女のおかげで大方は分かったので、良しとすればよろしいのでは」

 東宮妃の病を兄の仕業と睨み、つながりがあると見た右京に接近した惇長だったが、右京も惇長から何か情報を引き出そうと引っ切り無しに喋り、貪欲に身体を求めてくるので、性に淡白でさらに寡黙な惇長には苦行な付き合いだった。

 おまけにお喋りなわりには右京はなかなか口を割らない女だった。それは向こうも同様だっただろうが。

 結局掴めたのは、あの呪物であった香炉だけだった。

「……血のつながりがある者に敵視されるとはな」

 ようやく惇長は瓶子に手を伸ばし、二つある杯にそれぞれ酒を注ぎいれた。

「……血のつながりがあるからこそ、でしょう」

 惇長が飲み干すのを待って、彰親も杯に口をつけた。それを飲み干してしまうと、今度は彰親が惇長の杯に酒を注いだ。

「それで、意外な話とは?」

「陰陽頭の北の方が、冬の宮の妹君……つまりは珠子姫の叔母に当る方なのですよ。ただし、母の出自が低すぎまして内親王宣下されていないようです」

「ほう……。先の先の帝は好きであらせられたと聞くが、卑しい女にまで手を出されていたのか」

「内裏が火事になり、里内裏先で結構手をつけられたようですね。それでもお子様方は少ないほうですよ。親王、内親王の方は六名。宣下されていない方が四名ほど……。ま、調べればたくさん出てくるかもしれませんが」

「それで、それのどこが意外だ?」

 彰親は、くく……と笑った。

「それの娘が東宮妃の女房の一人として紛れ込んでいます。霧の君とかいう名前で。もちろん密偵目的でしょう」

「何? 密偵は右京一人ではなかったのか?」

「残念ながら。右京は囮のようなものでしょう。あきらかに目立ちすぎます」

「何故お前にわかった」

「私が見破ったのではありません。見破られたのは東宮です。夜のお召しの際に東宮妃のお傍にあった女房の一人が彼女、妙に怪しいそぶりが見受けられたと」

「…………」

 東宮妃の女房の顔は全員頭に入っている惇長だったが、どうしてもその霧の君とやらの顔が浮かんでこない。一度見た顔は大概忘れない為、惇長は首をかしげた。

「密偵が目立ってはいけないでしょう? でもあまりに目立たぬようにしているから見破られたのですよ。それに、妖の病に罹っている者の為に薬湯を作っていたのは彼女です」

「右京ではなかったのか?」

「一条に調べさせたところ、配っていたのは右京ですが作っていたのは彼女。父親である陰陽頭から薬を渡されていたのでしょうよ」

「それは一体なんの薬だ?」

「重くなった金の気を散らす薬です。あれだけの瘴気を当てられて死なない女房はいません。重い病気になって宿下がりさせると、珠子姫を引きずり出せませんからね。軽い風邪ぐらいなら女房達も宿下がりなどしません」

「病を流行らせて、珠子に妖を……というわけか。翠野はあらゆる呪いや魔を払うというからな」

「奏者がおらねば翠野は唯の琴、ですからね」

 熱で苦しむ珠子の姿が脳裏に蘇り、惇長はわずかに顔をしかめた。

「珠子の中に詔子がいるだろう。妖に喰われはせぬのか?」

「それはないです。ただ、姫が死ねば……詔子様は開放されます、姫の魂魄から。つまり振り出しに戻ります。ねえ? 姫を見殺しにして、また妙齢の女を使い詔子様を蘇らせる術をかけますか?」

 体温を全く感じさせない彰親の物言いに、惇長は憮然とし、持っていた杯を置いた。

 風がごうと吹く。

 雪が壁に当たる音がした。

 彰親はじっと惇長を見、惇長も見返した。

 二人の脳裏にあるのは、明るく微笑む珠子の姿だった。

 深夜、珠子を看ていた楓は、惇長が局へ入ってきたので平伏した。

「朝まで私が看るから、お前は下がっていなさい」

「え? ですが……」

「何かあったら知らせる」

 楓はしばらく渋っていたが、隣の局で控えておりますと言い残し出て行った。

 惇長は燈台の芯を短くして室内を暗くしてから、直衣を乱暴に脱いだ。そしてそのまま珠子の横に臥せり、大袿の上に直衣を広げる。

 抱き寄せた珠子はやはり熱かった。

 しかし豊かに流れている黒髪だけは、冷気をまとってひんやりとしている。

 惇長は目を閉じて眠ろうとしたが、先程の彰親の言葉が頭から離れない。

 珠子を見殺しにするなら……。

 そう言われて初めて、珠子が消える事の重大さを惇長は思い知った。

 珠子は珠子で彼女の代わりなどいない。

 詔子が死んだ時の喪失感はこの世の終わりのような悲しみだったが、珠子が消えるのは自分が消え去るような心地がする。

「あの右京が今の珠子なら、放っておくがな」

 一人ごちて惇長は自嘲する。

 珠子はどうやら使い捨ての女では無くなってしまったらしい。

 慕われているうちに情が出てきてしまったのだろうか。それとも他の男が珠子を欲しがっていると知って、惜しくなったのかもしれない。

 昨日、一条の局までもう少しというところで彰親の声が聞こえた。また何か起こったのだろうかと思いながら聞き耳を立てると、そうではなかった。妙に甘さが滲む声は、彰親が珠子を必死に掻き口説いている声だった。

 立ちすくんだ惇長のもとへ、一条が音もなく廂側の御簾へいざり寄ってきた。

「熱心でございましょ。ほほ。先程こっそり覗きましたら、長い間接吻されてました……」

 吐息のような小さな声で一条が言う。

 惇長は、言い様のない怒りでかっと顔が熱くなった。

 居ても立ってもいられず珠子の局へ押し入ろうとした惇長の袖を、一条が強く引いて止めた。

「お止めください。このようなところで痴話喧嘩など、撫子の御方を醜聞で汚されるおつもりですか?」

「お前は……っ」

「大将という重いご身分をお弁えくださいまし」

 一条の手を振り払って、惇長はその場を逃げ出した。そう……逃げ出したのだ。

 格子戸の隙間から雪が吹き込んできた。珠子は吹雪の荒れ狂う音が耳に障るようで、惇長の腕の中でわずかに身じろぎをする。

「う……」

「痛むか?」

 うなされている珠子の細い身体を、惇長は何度も摩ってやった。

 彰親によると、こうすると妖の力がわずかに弱まるらしい。見ていると確かに少し楽になったような表情を珠子が浮かべる。

 それが最後に見た詔子に似ていて、惇長は自分の罪がまたひとつ重くなったように思えた。

 隅に吹き零れている雪が、地に降り積もった桜の花びらに見える。

「世の中に絶えて桜のなかりせば……か」

 桜が無ければ、春をもっとのんびりと過ごせるだろうにという歌。

 だが桜が無ければ、春の美しさも楽しさも消えてしまう。

 しかし、その桜の儚さが消え行く雪と重なり、惇長は物悲しくなるのだった。

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