雪のように舞う桜の中で 第23話

 翌日はひどい吹雪だった。邸はみしみしと風を受けて軋み、格子や蔀戸の隙間から粉雪が舞い込んでくる。女房や家人たちは建物の中に舞い込んだ雪を外へ掃きだすだけで、これはとても敵わないとばかりにすぐに屋内に篭っていた。

 格子が降ろされたままの暗い部屋の中で、彰親が珠子に憑いた妖を祓う準備をしていた。部屋の各方位に呪符を貼り、呪を唱えている。普通の人間には何が変わっているのか分からないが、これは妖を外に逃がさないための結界を張っているのだった。惇長は静かに座り時を待ち、その膝の上で猫の桜が丸くなって眠っている。

 小半刻ほどで準備が終わった。惇長は目の前に座った彰親が手に持っている鈴に眼を落とし、不思議そうに顔を傾げた。

「神楽鈴か」

 小さな鈴が沢山ついているそれは、純金でできているようにきらりと光った、

「金の妖を滅するには火が一番なのですが、屋敷に放火するわけにはいきませんしね」

「しかし、同じ気を持つ者に……」

「同じ気同士がぶつかると、どうなるかお楽しみあれ……と言いたい所ですが、姫のために穏便に済ませるにはこれが一番です」

 惇長は部屋の中央に寝かされた珠子を見やった。相変わらず熱で苦しそうで、見ていると可哀想になってくる。もともと珠子は元気すぎる身体の持ち主なのだが、術をかけられたりあれやこれやで人に振り回されたせいで、最近は弱りきっているようだった。

 いつになく珠子に気を使っている惇長を、彰親がからかった。

「昨夜、無理にしたりはしてないでしょうね?」

「何を?」

 惇長はこういう冗談が大嫌いだったので、ぎろりと睨んだ。しかしそんな怖い目を気にかける彰親ではない。

「もう長い間共に寝ておられないと聞いてますよ。桜花殿では一緒の局でも褥は別だったとか」

 何故ばれているのだと惇長はぎょっとしたが、すぐにあの一条の顔が浮かんだ。つくづく彼女は惇長に含むところがあるようだ。

「そういうお前はどうなんだ」

「私? 私は仕事が忙しくて近頃はさっぱりです」

「……淑景舎にはしげしげ通っているのだろうが」

「仕事ですよ。陰陽師の仕事は妖退治だけではありません。宇宙の理を乱さないようにするのが第一、一番やっかいなのはそれを乱す人の欲望です。欲望が鬼に変化して災いをもたらすのですから……」

 彰親の切れ長の目がじっと惇長を見た。惇長は渋く笑い、狩衣の袖をぎゅっと絞って結んだ。

「人の心配より己の事を心配せよ。己の一番の敵は己だ」

「そうですね。それは確かです」

 しゃら……と彰親の手の鈴が音を立てた。

 燈台の灯りだけが頼りの暗闇の中、二人は静かに眠っている珠子にいざり寄った。

 彰親は珠子に貼ってあった呪符を剥がしながら、惇長に注意した。

「祓いを始めると珠子姫の中の妖が暴れまわりますから、惇長殿は押さえつけて下さい。呪符がない彼女を何があっても離してはいけません。離したら最後、部屋を突き破って姫は妖に持っていかれてしまいます。十中十、珠子姫という存在は消え去るでしょう」

「あの結界は飾り物か」

「あれはほとんど気休めです。この祓いの成功は貴方にほとんどかかっておりますのでお忘れなく。よろしいか?」

 惇長は無言で頷いた。珠子の身体の温もりは今や心底愛おしく、手放しがたいものだった。

 珠子をぎゅっと抱きしめる惇長に向かって彰親が立ち上がり、鈴を高く掲げた。

 魔を祓う鈴の音と共に彰親が呪を唱え始めると、見る間に珠子に変化が現れ、苦しそうに眉を歪めて惇長の腕から這い出そうとした。

「珠子、じっとしていなさい」

「……う……ああ!」

 珠子が両手をばたつかせて暴れだした。息を荒げて長い髪をざわざわと震わせ、惇長の腕に爪を立ててもがく。

「離してっ……苦しい、ああ……!」

「駄目だっ」

 惇長は暴れる珠子を今度は床に押し倒し、渾身の力で押さえつけた。見る間に珠子の姿が美しい女人から、醜い妖へ変化していく。灰色の長い毛が伸び、眦が裂けて大きな黄色の目玉がぎょろりと見開く。口も裂けて鬼のような牙が生え、髪がざわざわと波立ち怪しくうねる。

「うぬのような人間に、我が押さえつけられると思うてか!」

 妖は臭い息を惇長に吐きかけて叫んだ。あまりの変化に常人なら度肝を抜かれるところだが、惇長は押さえつけながら笑っただけだった。

 彰親の手の鈴が冷涼な響きで強く空気を震わせた。妖にはその音がたまらない苦痛を与えるようで、袿の裾から飛び出した鋭く大きな爪で惇長の腕をひっかいた。たちまち腕から血が流れ滴っていく。

「離せえっ……、この小童が!」

「…………っ!!」

 声が惇長の聞き覚えのある男の声に変化する。それは兄の義行中納言のものだった。

「己さえいなければ俺の天下であるものをっ。……くそ、正室の子でもない一番格下の身分の母親の子供くせに」

「……だまれっ」

 はははははと妖が義行の声で哄笑する。

 封印されている記憶が惇長を内側から切りつけ、外側からは、ぐにゃりと伸びた妖の腕が自由に動き、その爪で惇長の狩衣の胸を切り裂いた。新しく血が流れ、惇長はその痛みにわずかに顔をゆがめた。

「くやしいかあっ? 頼みにしていた右大臣が没落して悲しやのうっ。ははははっ。最愛の詔子を殺したのは、頼みにしていた姫の兄ぞ、父ぞ、姉ぞ。奴らは人を殺して生きて居るぞ。お前はなーんにもできぬまま過ごしているしかない。哀れよのうっ」

 惇長は妖の首を絞めかけて思いとどまった。

 これは珠子だ。

 珠子は妖に身体を乗っ取られているのだ。これを殺しては珠子が死ぬ。

「…………っく」

「その我慢が何時まで続くかのう……ひっひっひ」

 妖の鋭い爪が背中の肉にきつく食い込んだ。

 焼け付くような熱さと痛みで、全身から汗が噴き出して腕の力が緩みかけたが、彰親の決して離してはならないという言葉を思い出して、惇長は懸命に堪えた。

「このままぼとりと首を落としてやろうかのう……。嫌なら我を放せ」

「……誰が、離すか!」

 ぐっとさらに身体を押さえつけられ、妖は口から臭い息を大量に吐き出して悔しがった。

 彰親の呪と鈴の音がますます調伏の力を高めていき、このままでは祓われてしまうため妖は焦った。惇長には彰親の呪がかかっていて乗り移ることは不可能だ。なんとしても惇長の腕を払わねばならない。

「死ねえっ」

「…………っ!」

 妖の爪が惇長の首に食い込みかけた瞬間、妖が叫んでその手を離した。

 惇長が痛みに耐えながら降ろされた妖の腕を見ると、火を噴く虎がその腕に噛み付いている。虎は猫の桜が変身した式神だ。

「おのれおのれおのれえっ。うぬらごときに祓われる我ではないわ!」

 妖は暴れながら叫んだが、それに応えるのは彰親の容赦ない呪と鈴の攻撃で、いくら妖気を放っても鈴の音の霊気が打ち壊していく。

 それに共鳴して珠子の霊気が高まり、珠子の身体にいる妖は苦しみが増すのだった。

「邪魔だああっ。のけえっ、小僧っ」

 今度は妖の首が伸びて、その鋭い牙が惇長の肩に噛み付いた。

「ぐっ……」

 激烈な痛みに再び惇長の押さえる力が緩みかけたが、すぐに以前より強い力で妖を床へ押し付ける。妖の腕に噛み付いている桜が火を噴きながら妖を威嚇した。そこへまた彰親の呪と鈴の音が襲い掛かる。見る見る妖の力が弱まって噛み付いていた口を離し、顔が珠子の美しい顔に戻っていった。

 珠子の眼に涙がにじんだ。

 彰親の鈴と呪はずっと続いている。だが先程までの激しさはない。桜も噛み付いていた腕を離した。

「惇長……さま」

「なんだ……?」

「すみません……、私のせいで、こんな……怪我を」

 震える珠子の細い手が、惇長の肩の傷に触れた。惇長は馬鹿にしたように笑う。

「己でやっておいてしおらしい事を言う……」

「すみません、私がもっとしっかりしていれば……こんな事には」

「そうだな、貴女がしっかりしていればこんな事にはならぬ」

 相変わらず冷たさの極致の惇長に、珠子はぼろぼろと涙をあふれさせていく。消え入りそうな美しさは雪の妖精のようだった。

「もう……大丈夫です。ですから……」

「姫……」

 惇長の腕が緩み珠子を優しく抱きしめ、その唇に口付けた。泣き咽ぶ珠子に惇長は優しく言った。

「貴女は……」

 その時、珠子の手から爪が伸び惇長に襲い掛かった。しかしその腕は惇長に叩き落とされ、再び床に押さえつけられた。

 珠子の姿のままで妖がくやしそうに泣き叫ぶ。惇長は肩で息をしながら言った。

「馬鹿め、小ざかしい戯言にこの私が騙されるか。第一、珠子がそんな言葉を言うものか……、この女は決して言い訳などしない……」

「ぐはあっ……」

 口から緑色の得体の知れない唾をたらしながら、妖が断末魔の声をあげた。

 すさまじい腐臭が部屋に満ちた。

 その中で彰親の呪が終わり近くになり、いったん静まりかけた鈴が再び高らかに響く。

 妖の力がだんだんと弱まっていくのがわかるが、惇長は押さえつける力を緩めなかった。

 珠子の顔の横に歩を進めた彰親が、怜悧に見下ろして止めを刺しにかかった。

「金妖鬼 退散! 急急如律令」

 鈴の音に乗って厳かな黄金色の霊気が妖に降りかかり、妖は黒い煙になって四散した。

 ぐらりと傾いた惇長の身体を、彰親が受け止める。

「妖は滅しました」

「……ならば、良い」

 惇長は荒い息を繰り返しながら珠子を見下ろした。珠子は黒髪が乱れ、袿も裾が裂けてすさまじい事になっていたが、表情が穏やかに戻っていた。

 震える手で額に手を当てると熱はまだあったが、峠を越えたような穏やかな熱で惇長は安心した。

「この私に……こんな事をさせて……」

 文句を言っているが惇長の口調は、恋人に語りかけるようなとても優しいものだった。

 

 かたり、と音がして珠子は目覚めた。

 ずっと温熱地獄のような暑苦しさで気持ち悪かったのが、すっきりとしている。

 身体はだるいものの、嫌なものが抜け出でて清清しい気分だった。珠子は内裏から彰親の屋敷の寝殿に移動していることを知らないので、見慣れない場所に居るなと思いながら頭を動かし、横を見てぎょっとした。

 隣に首を包帯に巻かれた惇長が眠っている。その包帯は全身に及んでいるようで着物が着膨れし、薬草の匂いが漂っていた。顔には傷跡があり、そこにも何か塗られていた。

「惇長は、必死に貴女を救おうとしていましたよ」

 彰親の声がして珠子はそちらを見た。先程の物音は、彰親が部屋に入ってきた音だった。

 格子はやはり下げられたままで、部屋は燈台の灯りが照らすのみだ。

 彰親は優しく微笑みながら珠子の枕元に座り、そっと優しく抱き起こした。

「これをお飲みなさい。少し苦いですが身体の回復が早まります」

 差し出された椀を手に取り、珠子は苦いのを我慢して飲んだ。

「本当は口移しで差し上げたいのですが、隣の朴念仁が怒りますからね」

「あの……この、惇長様の傷は」

「妖が大暴れしましてね。暫くは出仕できないでしょう。病を得たのでひと月ほどこちらで養生すると左府に使いをやりました。骨には届いていないようなので一安心と言ったところです」

 惇長は、深く眠っているようで起きる気配はない。

「眠ったほうがいいので眠る薬を飲んでいただきました。……しかしこの人も変わりましたね」

「…………?」

 どう変わったのだろうと珠子が思っていると、桜が鳴きながら珠子と惇長の間に歩いてきて丸くなった。薬臭いのは平気らしい。彰親は楽しそうに続ける。

「以前の彼なら、妖の牙に殺される前に殺していましたよ。身分や己が何より大事な男ですから」

「じゃあそれは私が……、私の中の妖がつけた傷……?」

 珠子の身体はどこもなんともない。しいて言えば右腕に包帯がまかれていてちくちく痛む程度だ。

 思い出したように彰親がくすくす笑った。

「珠子ならそんな言葉は言わない……か。ふふふ、この血も涙もない男の惚気に、思わず呪をとぎれさせるところでしたよ」

「は?」

 意味不明な事を言う彰親に、珠子は説明を求めようとしたが楓が入ってきたので口を噤んだ。

「殿、六条の緑陽が、星を見てほしいと参りました」

「そうですか。やれやれ、小心な楼主だ。では姫、明日から惇長殿を看てやってくださいね。撫子の御方には長い里帰りの許可をいただいてあります」

「はい」

 頬を染めた珠子を眩しそうに見やり、彰親はにっこり笑いかける。

「そうそう、ご褒美をいただきますね。私も頑張ったのですから」

「え……?」

 見る間に彰親の顔が近づいて唇を奪われ、珠子は顔を赤くさせて口を袖で覆い睨んだ。

 匂うような美しい姫は、まだ惇長のものにはなりきっていない。彰親は流れている珠子の艶やかな黒髪を掴み上げ、妖しく煌めく眼で珠子を見つめながらそれにも口付けた。

「何を……っ」

「私は諦めておりませんから。邪魔しにちょくちょく参上しますよ。ふふふ」

「え、あの、彰親様……っ?」

 彰親は髪を名残惜しげに離し、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 呆気に取られている楓と目がばっちり合ってしまい、珠子は赤面した。なんと言ったらいいものかと珠子が焦っていると、

「……珠子」

 眠っているはずの惇長の腕が伸びてきて、珠子は強く掻き抱かれてしまった。 

 仰天し、赤面した若い楓は逃げるように部屋を出て行く。このままでは、ぱっとあらぬ噂が屋敷の人間の間で囁かれるに違いない。二人の男を相手にしている女だと。

 珠子はもがいた。

「惇長様、離してっ」

「…………」

「……なんて怪力なの、殿方って」

 恥ずかしいから惇長の腕を離そうとした珠子だったが、反対に身体全体で抱きつかれて動けなくなった。ごろりと転がった二人に、桜までびっくりして部屋から飛び出していってしまう。

「惇長様、本当に離して下さい。ゆっくり眠れませんので困ります……、ひあっ」

 ますます強く抱きしめられて珠子はどぎまぎした。どうやら惇長の中ではまだ妖退治が続いているようだ……。

 されるがままになっていると、今度は惇長の顔が近づいてきて、口付けられた。

 だがそれは、彰親とは比較にならないほど熱く、甘く、優しい。ひさしぶりの接吻に珠子は陶然とした。

 やがて唇は離れていく。

 起きているのではと惇長を見たが、やはり惇長は眠っていた。

「惇長様……」 

 夢の中でもいい。惇長が自分に接吻したのだとわかってくれていれば。

 そうだ。これは幸せな夢なのだ。

 珠子はそのまま惇長の腕の中で、寝やすいように身体をもぞもぞさせて、眼を閉じた。久しぶりの接吻で、しばらく胸はどきどきと高鳴って眠れないかもしれないと思ったが、それは一瞬のことで、直ぐに珠子は再び眠りの闇に吸い込まれていった。

 にゃう……。

 桜はそんな二人を確認するようにそろそろと再び二人の元へ歩いてくると、二人の足元の辺りの大袿の上で丸くなって眠った。

 雪は、いつしかやわらかな牡丹雪に変わっている。

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