雪のように舞う桜の中で 第27話

 珠子の局は、主が居ない為ひっそりと静まり返っていた。

 猫の桜はおそらく彰親が連れ帰ってしまったのだろう、いつもの畳の上にその愛らしい姿はない。

 衣擦れの音がした。

 珠子の留守に入ってきた人影は、極端に細く絞った紙燭(細くねじった紙の先に火をつける照明道具、松の木が使用されている場合もある)の炎を頼りに、きちんと整頓されている調度品を物色し始めた。

 それは|急《せ》いているようであり、また、余裕があるようにも見える。

 相当な場数を踏んでいるような、そんな探し方だ。

 やがて、うろうろしていた紙燭の灯りはぴたりとある位置で止まった。

 その先には、布に包まれた翠野があった。

 侵入者は翠野を片手に抱え、そのまま珠子の局を出ようとした。

「それは貴女のものではないでしょう?」

 ぎくりと足を止めた侵入者は、相手がぼろをまとった雑色(無位の役人)であったため、気を取り直し、そのまま廂から縁へ降りようとする。

 しかし、その雑色に袖を乱暴に引っ張られた。

「身分をわきまえぬか。雑色ごときが上臈に手を出すとは! そなたらは物であるぞ」

「物であれど、盗賊を見過ごすわけにはいきませんね。その為の雑色も居るのですよ」

 声高に威嚇しても一向に動じず、優雅な物言いをする雑色に、侵入者の女は呆気に取られた。

「霧の君」

 通り名を呼ばれ。侵入者の女はさすがに身体をびくつかせた。

「その翠野は偽物。本物はこちらにございますよ」

 美徳がぼろの袖から出した翠野に、霧の君の顔は鬼のように気色ばみ、そこで初めて、いつの間にか惇長と彰親と美徳三人に囲まれていることに気づいた。

 ようやく焦った霧の君は、隠し持っていた琴をそのまま廂に放り出して、美徳の琴を奪い取ろうと飛び掛った。その所作はおおよそ貴族の女とは思えない俊敏さで、いち早く動いた惇長が素早く霧の君の腕をねじりあげて動きを封じた。

 ぎり……。

 容赦のない力加減で、霧の君の額に汗が滲む。

「いっ!」

「……香の匂いを消すのに昨夜は大変だったようだな」

「何を、おっしゃっておいでか」

 彰親が、腕の中の桜の頭を撫でた。

「桜を侮っていたようですね。匂いを消して、直ぐに殺す予定だったのが式神に変身して取り逃す失態。哉親もさぞ怒っているでしょう?」

「…………」

「昼の撫子の御方との語らいは、貴女を泳がせる為に惇長殿が仕掛けた罠。どこぞに忍び込んで聞いていたのでしょう? 我々は右京と貴女が繋がっていたのをとうに知っている。人払いで局に下がった女房達をいいことに、貴女がこの局で何をしていたか、この美徳殿が見張っていたというわけだ。昼に翠野を持ち出せば必ず他の女房に見咎められる、だから夜にしたのでしょう?」

 大人しそうな外見とはうらはらに、霧の君はなかなかしたたかな女のようで、先ほどまでの焦りはどこへやら、今度はさもごきげんな姫君のように笑い出した。

「ほほほ。そのように睨まれるといつもの麗しいお顔が台無しですわ」

「中将の君はどこだ?」

 惇長が背後から腕を捻ったまま聞くと、霧の君はさらに笑った。

「ほっほほ! 零落した宮家の姫にしては、格別の待遇を賜っておいでのようですわ」

「格別?」

「成時の中将様の北の方におなりあそばすのですよ。ほほほ」

 やはりそうだったのだと惇長は思いながらも、尋問を続けた。美徳も彰親も厳しい顔だ。

「翠野をどこへやるつもりだった?」

「これは私の母ものです。それをあの中将の君の父親、冬の宮が母から奪ったのですわ!」

「何を世迷言を言っている?」

 意味がわからず、惇長は美徳に視線を向けた。冬の宮に関しては美徳の方が詳しい。

 美徳は小さく首を横に振った。

「聞いておりませんね。翠野は、父、冬の宮が父帝である先の先の帝に賜ったものです。内親王宣下もない女に先々帝がお会いになる機会などなかった。翠野を渡せるはずがない」

「父? そなた雑色では」

 霧の君は美徳に向き直り、珠子に良く似た顔に合点がいったらしい。その顔は何故か一気に憎悪に染まっていった。美徳はその霧の君の態度に覚えがあるようだが、惇長と彰親にはわからなかった。視線で人を殺せそうなほど睨みつける霧の君に、美徳は静かに言い放った。

「宣下があろうがなかろうがどうでもよいというに、貴女達はおろかだ」

「だまりなさい。母の屈辱がいかほどのものか、お前たちにわかるわけがないわっ」

 唾を飛ばさんばかりに怒り狂っている霧の君に対して、美徳の態度は氷のように冷たい。

 美徳にとって身分などあってないようなもので、そのようなものにかける矜持は持ち合わせていないのだ。

「冬の宮の母は、当時の右大臣の娘の尚侍《ないしのかみ》。そなたの母の母は、受領階級の、身分の低い典侍《ないしのすけ》。従三位以上の身内が必要な内親王宣下が、そなたの母に下るはずがあるまい」

「……おのれ、どこまで愚弄する気か」

「愚弄していると思うのはそなたの俗念。私は事実を言っているまで」

「うるさいっ!」

 恐ろしい声で、霧の君は美徳を怒鳴りつけた。

 ついで長い黒髪が舞い上がったかと思うと、その身体が炎で燃え上がる。炎の熱で、惇長は霧の君の腕を放して後ろに下がり小太刀を抜いた。

 彰親と美徳はとっさに印を結んだ。

 燃え広がるかに見えた炎は、彰親と美徳が張った結界に阻まれたが、結界の内部は炎の熱で熱され、たちまち三人は汗にまみれた。

 霧の君は三人の目の前で、人をいくらでも食い殺せそうな牙を生やした。袿の袖を長く伸びた爪で引き裂き、二つの角を持つ恐ろしい鬼に変化していく……。

「これは!」

 生成り《なまなり》だ。

 生成りとは生きながら鬼になる人間を言う。霧の君の中に宿る恨みや憎しみなどが、彼女を鬼へ変化させたのだ。

 妖相手では惇長はどうする事もできない。

 見ると、生成りの妖気を受けて、ぼこぼこと怪しげな透けた異形が床から沸いてきた。

 霧の君が化けた生成りは美徳に飛び掛った。余程憎くて仕方がないらしい。美徳は巧みにかわしているが、狭い局内では限界があり苦しそうだった。

 彰親が叫んだ。

「惇長殿っ。その女の背に縫い付けてある呪物を取れ!」

「呪物?」

 黒髪の隙間に袿が見えるだけで、惇長が目を凝らしても何も見えなかった。目に見えない呪符があるのかと首を傾げると、今度は美徳が苦しそうな面持ちで、霧の君の炎を避けながら言った。

「重ねた袿の中に縫い付けてあるのです。我々は、妖気と妖共を押さえつけるのに手一杯です。霧の君は操られているに過ぎません、呪物さえ取れればっ」

 惇長は戸惑った。炎に包まれて鬼に変化している妖に、普通の人間が近寄れるものではない。

 いくら惇長が胆力のある男だと言っても、炎に飛び込むような無謀さは持ち合わせていなかった。すると、そこへ炎を吐く虎に変化した桜が飛び出してきて、鬼の霧の君の袿を咥えてひっぱった。

「何をしやるっ」

 床に倒れて暴れる霧の君の袿を、桜が獣の皮を剥ぐ様に引き剥がした。

 すると袿の裏側に守り袋の様なものが現れた。

 透けていた妖は実体化し始めており、そのうちの一匹が彰親の指貫を掴んだ。

 もう限界なのか几帳に火が移り始めている。

 彰親が再び叫んだ。

「それだ! 早く」

 その守り袋を掴んだ惇長は一瞬手をとめた。手のひらの肉に焼け付くそれは、尋常な人間なら悲鳴を上げる熱さと痛みだっただが躊躇っている場合ではない。惇長はすぐに、縫い付けられている守り袋を、持っていた小太刀で素早く切り取った。

 途端、炎と妖が煙のように消え去り、霧の君はだらりとそのまま倒れ伏した。

「惇長殿、それをこちらへ」

 彰親の手に水の入った碗があった。

 焼け付いている手ごと惇長が守り袋を浸すと、ぶすぶすと黒煙を上げながら急速に熱は冷めていった。

「もうよろしいでしょう。蓋をします」

 惇長は彰親の言うとおりに碗から手をあげた。すぐにその碗は蓋がされ、呪符がぺたりと貼り付けられた。不思議なことに焼け付いていた右手は元通りになっていて、やけど一つない。見ると、焼けかけていた几帳も、何もなかったように綺麗な状態に戻っていた。

 手を擦りながら首を傾げる惇長に、美徳が微笑した。

「この手のものは、呪いの元が封じられれば癒えるのです。返しても良かったのですが、作った者のそばに珠子が居たら、巻き添えになりかねないので封じました」

「巻き添え……?」

「呪符には作った者の気が宿ります。それを承知で術者は呪符を作るのです。そして失敗した時には、掛けた数倍の呪が作った者へ返っていくので、最悪死ぬ場合もあるのですよ。この女はおそらく御守りと騙されて持たされていたのでしょうね、親子であるはずなのに恐ろしいものだ」

「…………」

「霧の君の母親は、娘に恨みつらみを言って聞かせていたのでしょう。自分が受領階級と結婚する羽目になったのは、帝のせいだ。弟宮のせいだと。そして霧の君は珠子が不幸な境遇なのを嘲笑い、不幸を喜んでいた。しかし、惇長殿に愛されて幸せと聞き悔しくて憎らしくてならなかったと……。愚かしい恨みだ」

 彰親が深く美徳の言葉に頷いた。

「まったくですね。姫はどれだけ落ちぶれても常に自然で、前向きで汚れのない目をお持ちだ。だからこそ愛されるというのに何故分からないのか。不平不満で一杯の者は人の幸せを妬み、自分の不幸を人のせいにする愚か者。己のその醜い心を正せば幸せであるとわかるものを……」

 うつ伏せになっていた霧の君を美徳が仰向けに寝かせてやると、人間に戻った彼女は泣いていたらしく、涙でその頬は濡れていた。炎を発していたのに涙は消えなかったらしい。

「まああっ。こんな夜中に何をしておいでですの」

 素っ頓狂な一条の声に、惇長は呆れたように振り返った。

「そなた、寝込んでいたのではなかったか?」

「朝から今まで寝ていたら起きます。誰も居ないはずの中将のお部屋で物音がすると思ったら……。あ」

 美徳と目が合い、一条はばつが悪そうな顔をした。

 しかし美徳は、一条の心の動きを読んだらしく、優しく笑った。

「一晩中妹を探し続けた貴女に、感謝しこそすれ怒ったりしません。もうしわけないのですが、彼女を看てやってくださいませんか? 」

「え? あ……、はい」

 そこで初めて一条は霧の君に気づいた。

 その場で褥をしつらえて、彰親が手伝い、霧の君を寝かしつけた。

 一方で、惇長と美徳は円座に座り向かい合った。

 美徳は熊野から帰ってきたばかりの足で、真っ先に内裏にやって来たのだ。美徳が入れたのは、雑色としての身分があるからなのだろう。とはいえそれも庭先までで、殿舎へ入るのはおおよそできる事ではない。撫子の御方の女房達が見たら、霧の君と同じように物扱いをして横柄な物言いで追い出す風体だった。

「……大事《だいじ》があります」

 美徳の目は、かつてない深い色を漂わせており、惇長の胸を不安で騒がせた。

「今上が、東宮に譲位すると仰せになりました」

 その場に居た全員が、美徳の言葉に凍りついた。

 燈台の火が四人の心に反応したかのようにゆっくりと揺れる。

 一瞬、美徳の姿に主上の姿が重なり、惇長は苦笑した。

「馬鹿げている。無位無官のお前が、何故主上の御心を知っている?」

「事実です。近いうちに蔵人の頭を通して発表されるでしょう。だから、義行の中納言殿は強引過ぎる手を使って、珠子を貴方の手からもぎ取ったのです。私はそれを熊野の山奥で知り、急いで帰ってきたのですが、遅かったようですね。父である左府の言葉ばかりを重んじて、兄への警戒を緩めてしまった貴方の落ち度です」

 美徳の言葉に感情の温度はなかった。

 感情がないゆえに、その言葉は時として氷の刃のように人の心に突き刺さる。先ほどの霧の君のように。

「珠子とこれとどう関係がある……」

「貴方が後宮へ送り込む駒として珠子を引き取ったと、中納言殿は思っているようですが。過去に彼は、何度も珠子を養女として迎え入れようとして、亡くなった路に追い返されていたのでしょう?」

 珠子との関係を惇長は一部の者にしか明かしていない。中納言義行にとって、翠野の奏者などよりも、後宮へ送り込める駒を持つ、惇長の権力の増大が恐ろしかったのだ。

 帝の覚えもめでたい、誰もがその才覚を認めている中納言兼左近衛大将である弟の惇長。

 それに引き換え、漢字一つ書けないと嘲弄される、無能なお飾り中納言である兄の義行。

 ただでさえ今、圧倒的な差が開いてしまっている。

 姉である中宮も、妹の東宮妃も、父の左府も、兄の大納言も、皆が皆惇長に一目置かざるを得ない。むしろ頼りにしている節が多々見受けられるのだ。

 義行の焦りは、ここに来て、頂点に来ているのかもしれない。

(栄達を望んだのは、ただひとえに御守りしたいと願ったからだ。それなのに御仏はそれすらも私からお取り上げになるのか……)

 帝に拝謁するなど不可能なはずの男から発せられた言葉は、惇長がようやく忘れられそうだと思っていた恋の思い出を強く引き出し、修復されつつあった心を再び引き裂いていく。

 譲位は主上の本意だろう、おそらく覆せようもない。

 今朝、撫子の御方が言いよどんだのはこれだったのだ。確かにそんな大事はおいそれとは言えまい。

 だが違う。そうではない。そんなことが問題なのではない。

(なぜ今譲位されるのだ。まだ早い、早すぎる……)

 正妻の詔子が亡くなってから、すべてを主上や宮の御為に捧げてきた惇長は、力のない己を見限られたのだと思った。

 次いで、恐ろしい虚無の闇が彼を包み込む。

 いつもそうなのだ。立ち上がろうとすると誰かに足を引っ張られ、より深い闇の底へ引き込まれる。

 天の光は間違いなく注がれているのに、どうやってもそれに近づけず、他人がその場所へ行き、幸せそうにしているのを、暗闇の底から見ているしかない。

「譲位……」

 惇長は、震える右手を額に当てて俯いた。

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