雪のように舞う桜の中で 第28話

 雪がしんしんと降り、恐ろしく冷え込む夜の都を、美徳と彰親はゆっくりと歩いていた。

 ともに、粗末な傘を被り蓑を羽織って身をやつしている。歩いているのは、二条にある右大臣の屋敷の塀に面した道だった。盗人や強盗が以前より徘徊する物騒な世の中になっているため、右大臣のような権門の貴族達は、常時侍に屋敷を護らせていて、一定の間隔で篝火が焚かれているのがなんとも物々しい雰囲気だ。

 時折すれ違う牛車も、従う侍の数が多い。

 屋敷の南の塀の角を曲がったところで、美徳は傘の中の美麗な顔を歪めた。彰親も同様で、彼は口の中で小さく呪を唱える。

 二人が目だけ動かしたその視線の先に、瘴気を放つ桜の老木が塀の中にそびえていた。まがまがしい瘴気に屋敷の者も感づいているようで、いろいろと処置がされているようだが、抑えきれないところまで来ているのがありありと見て取れる。影響を受けている者は大勢いるだろう。

 二人はいくつかの回り道をして、一条の彰親の屋敷へ入った。

 すぐに酒が用意され、二人はわずかな煮物をあてに飲み始めた。酒は冷え切った身体をじんわりと温めてくれ、煮物を半分ほど食べた頃、ようやく彰親が箸を置いた。

「どう視ますか……?」

「詔子姫が導いたとおっしゃった彰親殿の推測どおり、珠子は攫われるべくして攫われたとしか言いようがありません」

「……彼女の心残りは惇長殿だけだと思っていたのですが、あの桜の老木もあったのでしょう。確かにあの老木の瘴気を滅するには、強力な浄化の力を持つ翠野があればたやすい。ですが……」

「今は時期ではない、でしょう?」

 桜の老木は、一般の人間が感じられるほどの瘴気を発していた。末期状態である。

 彰親や美徳が力を合わせればなんとか浄化もできようが、二人の力を使い果たしてしまいそうな危険があり、翠野の力が必要不可欠だった。

 木の気が満ちるのは他の木々も同じで、その気を借りればより一層浄化がやりやすくなる。だが今度は、その時まで珠子が耐えられるかどうかが問題だった。翠野の浄化の力は、奏者の珠子の気持ちに大きく左右される。

 おまけに、成時に実質的な婚姻がなされやしないかという不安もある。

 彰親にもわかってはいるのだ。成時が何かしようものなら、珠子の中の詔子姫がきっと黙っていない、絶対に護ってくれるのだと。

 文なりなんなりで励ましてやりたいのに、二人が近づくと桜の老木の瘴気が警戒するように強くなり近づけず、かといって正攻法で惇長が訪れるのも、成時の妨害でできないのだった。

 珠子は不安で涙しているに違いないのだ。

「何事も熟する時期があるのは貴方もご存知のとおり。一時期の感情にとらわれてはなりません。精進なさい。」

「……貴方は、恋をなさったことがないのでしょうか?」

「私も人並みに恋をして結婚し、いとおしい妻がいます。狂おしい熱情から生じる悦楽も悲しみも焦りも知っております。わかるから言うのですが」

 微笑する美徳に、彰親はため息をつきたくなった。

 この美麗な男が心を乱すところが、どうにも想像できない。彰親も祖父の晴明について厳しい鍛錬を行った身であるのに、やはり上には上がいるのだろう。

 化け物のような神力だと思って厭わしく思っていた力も、美徳を前にすると大したものではないなと思わせてくれる。それが彰親にはとてもうれしかった。

 本当は、浄化に呪など必要としない。

 珠子と出会った時に、彼女が何気ない言葉で彰親の闇を払ってくれたように。人の我をふくませない一言、木々のさざめきや、延々と流れ続ける雲、滴る雨水や花々の中に、心を浄化するきっかけは存在している。

 呪の影響力など、広大な宇宙の中では、わずかの大きさもない。

 そして彰親の悩みなど、砂粒にもならない大きさだったのだ。

 

 美徳は杯の酒を飲み干し、床の上へ静かに置いた。

「……にしても、惇長殿が抱いているのは、まったくもって、はた迷惑な情ですね。愛妻の姉と言うだけで気に掛けて、余計な揉め事をつくっておいでだ」

 それには彰親も同意だ。

 陰ながらとはいえ、落ち目の幾子皇后にかける情は、一歩間違えれば男女のそれに取られかけない危険なものだ。亡くなった詔子姫への熱愛が噂されていなければ、そう言われていいたに違いない。

 惇長の栄達を憎らしく思う人間は多い。ただでさえ危ない身の上なのに、さらなる厄介事を招き入れてどうなるというのか。

 なんどとなく注意したのだが、惇長は聞く耳を持たない。

「……その情があるからこその、惇長殿とも言えます」

「情を掛けるところが間違っています。幾子皇后には御年二歳の徳平親王が居られる、この方を担ぎ上げようとしていると、噂が立っているのをご存じないとは言わせない」

「いけませんと申し上げたのですが」

「さらに珠子を自分の養女にして、現東宮の元へ入内させると思われています」

「まだその噂は広がってはいないようですが……」

「ええ。姫の存在を知っているのは、桜花殿で求婚していたごく少数の貴族です。ですが、それをやられたら困る人間が、珠子を攫わせたのです」

「成時殿はおおよそ影のたくらみとは無縁の人物なのに。どうして義行の中納言殿と手を組まれたのか解せません」

「桜の老木が引き寄せたとしか思えません。屋敷の外からでも、成時殿が熱に浮かされすぎておいでなのが伝わってくる。あそこまでなるには、彼の気弱さだけでは不可能です」

「……陰陽頭が巧みに操っているのかもしれませんね。兄は言の葉を粗末に扱われる」

「瘴気が邪気を呼び、気弱な彼につけこんだ……。それが正解ですね」

「詔子殿がいらした時からあの屋敷は暗くて、あの老木からよからぬ雰囲気が漂っていました。なにしろ一度たりとも咲かない桜なのですから」

「何百年も咲かぬ桜……」

 彰親は、前から右大臣家の桜の老木を問題視していた。

 しかし、それほどひどくなかったのと、他の急を要する案件の処理に忙しく、後回しになっていたのだった。

 陰陽寮の書物に、右大臣の屋敷の老木に関する記述はなかったのも、後回しになった原因のひとつだ。原因がわからなければ、封じるか滅するか判断がつかない。太古の昔からあの老木はあるらしいが、わざと記述がされなかったらしい。

 おそらく、右大臣家に連なる人間は理由を知っている。

 だがいつもはぐらかされて、ともすれば警告じみた妨害を受けるのが常だった。

「珠子と詔子殿の魂は似ている。だから詔子殿は珠子の中へ入れた。木津の叔父が言うには、詔子殿がいらした間は、あの屋敷の不幸はぴたりと途絶えていたと言うのです」

「ええ、ですから後回しにしていたのですが……」

「それが亡くなられた途端に一族離散の悲劇。家族というものはそれぞれの役割を持っているものですが、詔子殿の場合はそれが顕著に出ています」

「それで、姫が成時殿と結ばれれば良いと?」

 彰親はそんなことになったら面白くなくて、思わず美徳を睨んだ。

「そう思っていますが、珠子がそれを望んでいないでしょう。木津にさらに詳しい話を知る者がいるかも知れません。早速調べましょう」

「では私も陰陽寮で再度調べてみます。そうそう、惇長殿にこのことを確認をせずともよろしいのですか?」

 数刻前、惇長が譲位の情報で感情を乱したのはほんの少しの間だけで、すぐにいつものように立ち直り、左府に相談すると言って部屋を出て行った。

 大したものだと、美徳は冷めた目でそれを見ていた。

 惇長の感情の制御は、美徳のように欲を捨てた穢れなき心が生み出すものではなく、必要がないものは容赦なく排除する、処世術が生み出したものなのだった。

「こちらから言わなくても向こうから言ってくるでしょう」

「あと、霧の君のこともあります」

「霧の君は、彰親殿が看てやれば良いではないですか」

「兄の娘ではありますが、彼女は苦手なんですがねえ……」

 彰親は何か思うところがあるのか、首の後ろを握った拳でとんとんと叩いた。

 何のことはない、彰親は霧の君に好意を寄せられて困っているらしい。

 美徳が珍しく吹き出した。

「少しはいい思いをさせてやればいい。霧の君は彰親殿に想いを寄せているのだから。おかしなものだ、身分に焦がれていながら愛した男は大した身分でない」

「私は姫を愛しているのに」

「それの嫉妬もあって、珠子に対する憎念が煽られたのでしょう。やれやれ、もう少し恋を単純に考えて欲しいものだが、そうはいかぬらしい」

「知った事をおっしゃいますが、貴方だって北の方以外に言い寄られたら困るでしょう?」

「さあて。私は妻以外には嫌われておりますのでね」

 珠子と同じ美貌の持ち主が、女にもてはやされないわけがない。彰親は嘆息して再び杯を持ち、手酌で酒を注いで飲み干した。

 

 その頃、惇長は父の元へは行かず、二人も居る后の一人、義姉の幾子皇后がお住まいになっている麗景殿にいた。突然やってきた惇長を予測していたと思われる、皇后付きの女房の安芸の弁は暗い面持ちで惇長の言葉に頷いた。

「宮様(幾子皇后)はすべてご存知です」

「……それで、主上はなんと?」

「許して欲しいと仰せでした。私どもも、大将様のお心づかいには日ごろから感謝しております。宮様とてそれは同じ。ですが、主上はもうお年も召され、ひっそりと余生を生きたいと……、宮様もそれに伴われると……」

「お二人はそれでよろしいかも知れませぬが、幼い親王様は」

「保子様の二の宮様が、東宮に御立ちになるのは明らかです」

「そんな事はない、あと数年もあれば……!」

 風がひどくなり、囁くように言い合う二人の声は、周囲にはほとんど聞き取れない。

 夜の暗い殿舎の中で、燈台の明かりが細々と燃えていた。

 御格子がギシギシと音を立てて軋み、どこからともなく冷風が吹き込む。

 春はそこまで来ているというのに、その寒さがまだ冬は続くと教えているかのようだ。

 憤懣やる方ない風体の惇長に、安芸の弁は悲しみと申し訳なさで頭を下げた。

「何事も勢いがございます。ご一族の皆様がおいででない宮様の親王様が、東宮に御立ちあそばされますと、さらなる不幸を招き寄せてしまいます」

「まったく! 右府も何ゆえこちらを放置なさるのか。実の姪であられる宮様を何故お助けせぬのだ」

「仕方ありませぬ。それより大将様も、もうこちらへおいでになってはなりませぬ。貴方は左府の側の方、面白く思っておいででない方が沢山おいでです。それを主上と宮様がお心を傷めておいでなのです。どうか、このまま……」

 安芸の弁が袖を寄せてすすり泣く姿に主上を見て、惇長は積み上げていたものが跡形もなく崩れる音を聞いた。世のはかなさはわかっていたつもりだったのに、結局なにもわかっていなかったのだ……。

「……私のしていた事が、お二人をお苦しめしていたと?」

 宮様こと義姉幾子が、義父である前右大臣とこの世の春を極めていた頃、惇長も詔子との結婚で幸せの絶頂だった。

 その詔子を愛しつくせないまま亡くした時から、すべてが狂い始めた。

 間も無く起きた義父の右大臣の失脚と共に、父の左大臣が政権を握り、右大臣に連なる者達を栄転とは名ばかりの閑職へ追いやり、空いた席に己の一族を座らせ、さらに長女の保子を入内させて親王を生ませた。

 そして保子を中宮に仕立て上げ、幾子を強引に皇后に昇格させて、さらに隅へ追いやってしまった。

 幾子を溺愛している主上が、二后を立てるという強引過ぎる左大臣のやり口に、世を疎んじられても無理はない。

 保子中宮も愛されてはいるだろうが、幾子皇后への寵愛には及ぶべくもない。

 主上になるには、母の実家の身分と権勢が必要不可避だ。誰が見ても保子が生んだ二の宮が東宮に立つほうがうまく行く……。

 保子中宮に恨みはない。ただ、あまりにも幾子皇后と一の宮が哀れで、また義姉の行く末を案じていた詔子に報いるためにも、惇長は自分の立身出世に精力を注いでいた。

 まだ惇長は政事の中枢から遠い位置に居る。上には幾人も公卿が控えているのだ。

 それでもあと十年も経てば、政治の勢力図は変わってくるはずだ。皆、惇長より年上で、年功序列が守られるのなら、ただ、待っているだけで彼らは先に消える。

 なのに、主上の譲位ですべてが泡と消えようとしている……。

 父である左大臣がこの機を逃すはずがない。必ず二の宮を東宮にするはずだ。

 惇長は小さく笑った。

「私が愚かだった。私は何も見えていなかった愚かな欲望の鬼だ。私のしてきたことは、皆を不幸にするばかりだったようだ……」

「大将様……」

 安芸の弁は、惇長にかける声が見つからなかった。

 殿舎を出ると惇長はたちまち吹雪に襲われた。

 長い袖で顔を覆って歩いても、ほとんど意味がないように思われる。

『貴方の幸せは私の幸せ、忘れないで』

 不意に風の切る音にまぎれ、詔子の優しい声が耳の底に蘇ってきた。でもすぐにそれは、珠子のひたむきな想いのこもった声に変わる。

『前のように私と逢って下さい。夜も、昼も……』

「珠子」

 胸に懺悔とも哀憐ともいえるものがこみ上げ、惇長は誰も居ない雪の庭にうずくまった。雪は容赦なく彼の全身を叩き、たちまち衣が雪にまみれていく。

 手が凍えるように冷たい。

 絶望に打ちひしがれる惇長の手を包んでくれたのは、長い間逢っていない珠子の幻だった。

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