白の神子姫と竜の魔法 第31話
「銀……」
私の呟きに、オトフリートはくすりと笑った。
「最初に貴女の夢に訪問した時に、そう言ったでしょう? 私は銀の竜族だと」
「…………」
言ってたかもしれないけど、覚えてない。だってあの時は、何もかも本気にしてなかったから。
「銀の竜族は存在したのか。滅びたと言われていたが」
ジークフリードが言うと、オトフリートは滅びはしないと言い返した。
「銀の竜族は蘭の世界に住む竜族。魔法も竜も居ない世界に、我らは存在している」
二人は鋭い爪のついた手を下ろし、激しくにらみ合った。
先ほどまで激しく戦っていたのがうそみたい。二人は微動だにしない。オトフリートの腕は絶対に外れないとわかったので、私も抵抗は諦めた。下手をすると、ジークフリードが攻撃を受け損ねかねない。
ラン様は、こんなに緊迫した空気が漂っていても、ぼんやりしていた。ひょっとすると夢の世界だと思っているのかもしれない。そこまで病んでいるとなると、正気に戻る確率は限りなく低いのではないだろうか……。
強風が、少しだけ開けられていた窓から入ってきて、内開きの窓をこじ開けていく。
そこでやっと、ラン様ははっとしたように動いた。
「まあ大変……。皆散らかってしまうわ」
大変なのはこちらなのに、ラン様は、一番どうでもいいテーブルの上の本や刺繍道具を片付け始める。
あの人は、本当に狂っているんだ……。
そう思ったら背中がぞくぞくとして、寒気が一気に全身に走った。窓を閉めるラン様を横目に、オトフリートが殺気の篭った右手をゆっくりと上げていく。
「蘭は……、私の恋人だった。それをお前の父親が奪った」
「だから?」
「私と結ばれていれば、あんなふうにはならなかった」
「それで?」
「お前が生まれてくることもなかった」
「……一体何が言いたい?」
オトフリートの右手が斜めに一閃した。ジークフリードが大きく横へ飛んで、それをかわすと、はるか後方の壁が五本の線を描きながら倒壊する。衝撃で棟全体が震えた。
「これ以上、お前たち親子に人を不幸にさせてたまるか!」
「たわごとを」
今度は、ジークフリードがオトフリートに飛び掛る。襲い掛かる鋭い爪をオトフリートもかわした。一瞬離れたかと思うと再び激突し、二人とも攻撃を次から次へ繰り出す。恐ろしい速さと力だ。実力は五分と五分で拮抗している。
魔法を使わない接近戦は、実力が拮抗していればしているほど激しい。爪がぶつかり合うたびに火花が散った。
ジークフリードの服の裾が引き裂かれ、髪が数本宙に舞ったかと思えば、オトフリートが同じように髪を散らせる。私を抱えている分、オトフリートは不利なはずだ。それでも後ろに引かず、むしろジークフリードが圧されている感すらある。
「…………っ!」
オトフリートの爪が、ジークフリードの頬を切った。少し深く切ったのか、赤い血が飛び散った。
「フィン!」
そうか、ジークフリードは、私を傷つけまいと力を加減しているのだ。
昨日のギュンター王子の時より、戦いは激しい。私は人形のように、がくがくと振り回されているしかない。
目の端に、のんきに窓の外を見ているラン様が映る。
二人の攻撃の余波で、花瓶が割れて床に花やら水がぶちまけられ、暖炉が砕けて崩れたため、灰が空気中に散乱する。天蓋が床に落ちた。ジークフリードの攻撃をオトフリートがかわしたから、衝撃波が壁にぶつかって穴が空き、戦闘の音を聞きつけて駆けつけていた使用人たちが、廊下で悲鳴をあげるのが聞こえた。
とてもそんな、のんびり窓の風景を楽しんでいられる雰囲気じゃない。ラン様は完全に、自分以外をシャットアウトしているのだ。
「蘭は! お前の父親に心を殺されたんだ!」
オトフリートが爪を一閃させる。
「だからなんだ。私や父を殺せば、母が正気に戻るとでも思っているのか!」
「!」
ほんのわずかな怯みだった。それを見逃すジークフリードではない。
オトフリートの身体が大きく揺れ、硬いものが切断する振動が伝わってきた。血の臭いが濃く漂い、床にぼとりと何かが落ちる。見たくないのに、気になって私はそれを見てしまう。
切断されて、びくびくと動くオトフリートの右腕を……。
「く……!」
さすがのオトフリートも、私を放して、その場にがくりと膝をついた。開放された私がジークフリードに走り寄ると、ジークフリードは私を背後に回した。切断されたオトフリートの右肩から、どくどく血が噴き出している。ものすごく痛そうだ。
「フィ……フィン。手当てしたほうがいいんじゃ」
「今は近寄れません」
殺気が衰えていないから、それは当然だった。
オトフリートは俯いたまま動かない。
最愛の人が致命傷を追っているというのに、それでもラン様は窓の外を眺め続けている。その隣に、ふわりと黒竜公が音もなく転移してきて、ラン様を抱きかかえた。
「ラン……」
ラン様は、悲鳴をあげるどころか、黒竜公に微笑んだ。
「来てくれたの?」
「ラン……。移動しましょうか?」
ラン様には、黒竜公が正樹さんに見えているに違いない。
それより黒竜公! 来るのが遅いよ! 自分の城で死闘が繰り広げられているのに、何で今まで放っておくの! しかも、そのまま部屋を出て行こうとする。どこまでラン様中心なんだ。
「父上!」
ジークフリードも同じように思ったのか、黒竜公を呼び止める。でも、次に彼の口から飛び出したのは、全く違う言葉だった。
「貴方は、知っていたのか……? この者が銀の竜族であることを」
「何をいまさら。知らぬお前が不思議だが」
黒竜公の、ジークフリードを見る瞳はいつもと同じで、感情のひとかけらも無い。
「その娘をさっさと始末しろ。その娘のためにお前は情に流されて、とんだ茶番劇を演じている。何がリン王后の替え玉だ。そんなものがなくとも、お前ならウルリッヒと王太后を抑えられたはずだ」
さっとジークフリードの顔に、赤みが差した。
「お前は、リン王后に心を奪われていた。だが、あの女は国王しか愛さない。奪う度胸も無いお前はそれでも諦めきれず、眠り病をいいことに、リン王后にそっくりなその娘を作り出した。相手を束縛し意のままに操れるあの白紙帳を……、白紙のノートを一緒に添えて」
衝撃の事実に、私はジークフリートを食い入るように、見つめた。
うそでしょう?
ロザリン姫だと思ってた。ジークフリードが愛していたのは、リン王后だったの?
見上げるジークフリードの横顔は、完全に凍り付いていた。
「面倒な記憶を植えつけて、何を考えていた? 宰相の地位もこの世界も捨てて、リン王后の世界に逃げたかったか? そのような愚かな考えをするから、その竜とアインブルーメに付け込まれて、お前は失脚しかけたのだぞ。少しは自重するがいい」
言い返さないの? ジークフリード。それは事実なの……?
嘘だと言ってよ、ジークフリード。
お願いだから!
だけどジークフリードは、ちっとも私を見ない。
黒竜公は私をちらりと見て、身を翻す。
「さっさとその娘を消せ。私をこれ以上失望させるな」
外道が……と、オトフリートが小さく呟く。声が小さいのは黒竜公に怯えているからではなくて、失血で弱っているからだ。
がくりと、ジークフリードの肩が落ち、部屋を覗く使用人たちが、いっせいに私を見た。
ああ、そっか。
黒竜公は引退したとはいえ、マリクの最高権力者だ。現役で宰相のジークフリードでさえ、その命令に逆らえば命はないことを、皆、知っているんだ。その証拠に、ジークフリードは否とは言わない。
逃げてと、ロザリン姫が叫ぶ声が聞こえる。でも私は動けない。
悲しいけれど、私はジークフリードによって作られた人形だもの。作り出した人間に生殺与奪の権利がある。オトフリートが言ってたっけ……このままだと殺されるって。いつかは来る今日だったんだ。
オトフリートは、私を逃がそうと思ったのか立ち上がりかけて、再び床に崩れ落ちた。ごめんね。貴方には、こうなる未来が見えていたから、ギュンター王子とか、光の神殿とか、魔法を断ち切るとか、必死になってくれていたんだね。
「鈴」
呼ばれてジークフリードを見あげると、ジークフリードが私を見ていた。
わかってるよ、貴方が黒竜公には逆らえないってこと。
ギュンター王子の時と同じように、透明な魔力が心の奥底から沸きあがってきた。
勘違いしないでね。これは、改心させたり眠らせるものじゃないの。ジークフリードを苦しめないためのものなの。
私、知ってる。ジークフリードが、どれだけ私を愛してくれているか。だから、私を殺す時に苦しんで欲しくない。
だから、傷つかないように、そんな祈りを込めているの。
貴方が愛してくれているから、私は貴方の為に殺されたって構わない。貴方が私を殺したくて殺すんじゃないとわかっているから。
ジークフリードが歩み寄ってくる。
不思議だ。全然怖くない。
殺されるのに怖くないなんておかしい。
でも……いい。
ジークフリードの両腕が背中に回ってきて、抱きしめられた……。
人前なのに。
死ぬ前は許されるのかな。だけど、こうしてくれたほうが、私の魔力が浸透するから、この人は苦しまなくて済む。
「私を、許してください。鈴」
ジークフリードの右腕がゆっくりと離れていく……離れて────。