天の園 地の楽園 第15話

 目覚めると圭吾の姿はなかった。熱っぽかった身体は楽になっていたので、恵美はほっとした。圭吾はどこかの社長の挨拶を受けているはずだから、とりあえず十七時までは自由の時間だ……。暇なのでテレビを観ようかと思ってソファに座った恵美は、ドアが開く音にもう圭吾が帰ってきたのかとがっかりしながら振り返り、そしてびっくりした。

 入ってきたのは圭吾ではなく貴明だった。

「た、たか」
「しー……。黙ってついて来て」
「でも、圭吾が」
「お願いだから、早く。逃げるんだ」
「駄目よ。戻って」

 しかし、貴明は駄目だと言う恵美の手を引いて部屋を出て、エレベーターに乗った。

「ど、どこに……行くの? 私、私……あそこにいなきゃ」

 固く握り締める貴明の右手が痛い。恵美は不安でいっぱいだ。圭吾に貴明とは別れると言ったのだから、これでは今までの苦労が水の泡になってしまう。恵美の気持ちに反比例して、貴明の右手はより強く恵美の手首を握り締めた。

「馬鹿言わないで。それとも親父に心底ほれたとか?」
「そんなわけ、ない」

 意地悪な貴明の言葉に恵美は涙が出そうになった。それに気づいた貴明が言いすぎたと謝り、エレベーターが目的の階に着くと周りを警戒しながら降りた。そして貴明が奥から一部屋手前の部屋のドアをノックすると、ドアがさっと開き、さっき見たあの美しい女性が現れた。

「お入りになって」

 恵美は貴明に部屋の中へ押し込まれ、女性がドアを静かに閉めた。部屋はさっきまでいたスイートほど大きくはなかったが、それでも広いツインの部屋だった。貴明が恵美の為に椅子を引いてくれたので、恵美はおとなしく座った。まだ胸の鼓動がひどく、手先が震える。女性が笑った。

「……良かったわ。あとはここを出るだけね。ここはうちの系列のホテルだからなんとでもできるわ」
「ありがとう」

 二人は相当親しいようだ。恵美が一体誰なのだろうと思っていると、女性が言った。

「紹介が遅れましたわね。私、鹿島瑠璃と申します。こちらの貴明様と先日お見合いさせていただいたばかりなんです」
「……お見合い」
「あら、誤解なさらないで。お付き合いはさせていただいておりますけど、私にも恋人がおりますの、それなのに父の言いつけでさせられただけで。伺ったら貴明様も私と同じとおっしゃるから、協定を結ばせていただきました。お互いがつきあっているふりをしたらお互いの親をあざむけますもの」
「…………」
「マンションが偶然に同じですのよ。貴明様は最上階、私はその直ぐ下。お互いの恋人を誘いやすいと思いません。うふふ」

 貴明を見ると、貴明は静かにうなずいた。

「さすがに期限はある。それが来年の一月十五日。それまでに僕たちは資金を貯めてアメリカに飛ぶ用意をする。いきなりだと直ぐに悟られて妨害されるからね」
「では私は隣のお部屋に移動しておりますから……。多分大丈夫だと思いますけど、何かあったら、貴明様は携帯で私の付き人に連絡を」
「了解。じゃあ君も楽しんで」

 瑠璃は足取りも軽やかに部屋から出て行った。

 二人きりになると、恵美は急に恐ろしくなり貴明から目をそらした。自分はきっと変わっている。もう前の小川恵美ではない気がする。

「恵美」
「触っちゃ駄目」
「どうしたの?」
 
 近づいてきた貴明から離れようとして、恵美は椅子から立ち上がって壁を背に立った。

「……私、汚いから」
「汚い?」

 怪訝な顔をした貴明に恵美ははっきりとうなずく。圭吾に散々弄ばれて、それに歓んでいた自分は汚い。貴明に助けてもらう資格などないのだ。恵美は泣きそうになるのを必死にこらえた、ここで泣いたりしたら貴明がほだされてしまう。

「私、圭吾に抱かれて歓んでたの。だからもう放っておいて」
「恵美……」
「貴明のお母さんを悲しませる事に協力してるの。とんでもない話だわ。だから、助けてもらう資格なんかないの。こんな私はめちゃくちゃになっちゃえばいいのよ……っ」
「恵美っ!」

 貴明がとても心配しているのがやりきれない。かといって恵美は貴明をうまく騙せるほどの悪女でもない。貴明の目にはぼろぼろに傷ついている恵美にしか見えず、それがかわいそうで、とてもこのままにはしておけないという思いがより強くなるのだった。

「大丈夫だよ恵美。恵美はきれいなままだから」

 恵美はぶんぶんと頭を左右に振った。

「きれいじゃない、きれいじゃないっ。お願いだから触らないでっ」

 ばんと音を立てて、貴明が恵美の顔の横に両手を突いた。怒ったのかと恵美はおそるおそる貴明を見上げたが、その目は優しい光が宿っていた。

「恵美、聞け。お前はあいつが一時でも好きだったんだから、そんな相手に抱かれたりしたら許してしまうに決まってる。それを僕は責めないよ。でも、ぜんぜん幸せそうじゃない恵美を見ているのは辛い。僕は恵美が好きだ。だからそんな恵美を見ているのは辛いんだ。幸せになってほしいんだよ」
「……幸せ?」

 貴明の手がやさしく恵美の髪を梳いた。それだけで自分の汚いものが剥がれ落ちていく心地がする……。
 
「恵美、お前はとりあえず明日、瑠璃さんと一緒に僕のマンションへ行くんだ。僕は親父の秘書だからあいつにつきあわなきゃいけない。それにお前の事を根掘り葉掘り聞いて探しまくるだろうから、それをかわす必要がある」
「圭吾……、そうよ、逃げられるわけないじゃない! あの男はっ」
「大丈夫だ。絶対にうまくいく。いかせてみせるから。だから恵美はもう自由になれるよ。アメリカに行ったらもうあいつの手は届かない。あいつだってそんな暇はないから次の女に行くに決まってるさ」
「……貴明の会社はどうなるの? 跡継ぎなんでしょう?」

 貴明の顔色がとても冷たいものに変わった。

「佐藤グループなんかいらない。親父の傀儡になってうれしいやつがいるわけない。ナタリーの自己満足につきあうのもまっぴらだ! もう……親父とナタリーがどういう人間か知っているだろう? 僕はあの二人が大嫌いだ。あいつらは僕をロボットのように扱ってる。何もかも恵んでやっているんだから感謝しろだと? 僕が三十五歳になったら社長職を譲ってやるだなんて言いやがったんだ! 冗談じゃない!」

 恵美の悲しそうな顔に気づき、貴明は叫ぶのをやめて深いため息をついた。そしてスーツのポケットをごそごそとして、恵美の目の前に小さなダイヤモンドが輝いている指輪を差し出した。

「僕は、恵美さえいたらいい」
「でも貴明私はっ」

 この指輪は絶対に受け取れない────。
 
 貴明に口付けられ、恵美はその先を言えなかった。自分は捨て子なのだと言いたい、どんな血が流れているのかわかったものではないのだと。口付けを止めようとした手に指輪がするりと冷たくはまった。よりにもよって左手の薬指だ。恵美は口付けをされながらその指輪を抜こうとしたが、その手を壁に押し付けられて片腕で抱きしめられた。

「大丈夫だよ。心配ない」

 大して重くないはずの指輪がとても重い。貴明の胸に顔を押し付けている恵美からは、貴明の目がとても冷たいものに変わっているのを確認できなかった。

「……私は、貴明に幸せになってほしいの」
「それなら」

 貴明の腕が緩んだので、やっと恵美は貴明の顔を見上げられた。

「……それは、貴明が素敵な女性と結婚する事なの。どうか忘れないで」
「恵美以外はいらない」
「私が圭吾から逃げるのが貴明の幸せと言うなら逃げる。でも、貴明は佐藤グループから逃げちゃ駄目だわ。貴明にだってそれはわかってる。わかってるから……私を連れて行こうとするのよ」
「恵美……」

 貴明の携帯が鳴った。静か過ぎる室内に圭吾の声が響き、恵美が居なくなったと言っている。その声は恵美を一気に縛り上げ、貴明の腕の中に居ても落ちつかなくさせた。そのか細い背中を貴明の手が安心付けるように撫でながら言った。

「僕は知りませんね。鹿島さんの部屋にずっとおりますから。まあ、探せといわれるのなら探しますが」

 貴明がそう言うと通話が切れた。がたがた震えている恵美に、貴明がおかしくてたまらないと言う感じで吹き出した。

「ふふ……! ざまあみろだよ。恵美、もう大丈夫だからね。僕が戻るまではずっとここに居てね」
「……貴明」
「ここは鹿島さんのホテルだから、あいつは何もできやしないさ。ゆっくりしてて」

 ゆがんだネクタイを鏡を見て直し、貴明は部屋を出て行った。

 恵美はその場にへなへなと座りこんだ。左手を見ると、銀色の流れるようなデザインの中央にダイヤが埋め込まれているカルティエの指輪が輝いていた。

 自分はまたとんでもない方向へ行くのではないだろうか。今、圭吾の元に戻れば、事は小さく収まるのではないかと恵美は思った。昨日の圭吾の口ぶりからすると、貴明の母のナタリーはとても自分や貴明が太刀打ちできそうな相手に思えない。恵美の事に関してはナタリーは放って置いてくれるだろうが、一人息子が会社を捨てて逃亡を企んでいると知ったら…………?

 恵美は急に何もかも恐ろしくなって、圭吾の元へ戻ろうと思いドアに飛びついた。しかし、なぜかドアが開かない。どういう仕様かわからないが解錠してもドアレバーは回らなかった。

「そんな……」

 部屋を見回したが電話がなかった。まるで佐藤邸の圭吾の部屋のように。

「貴明、貴方もなの?」

 恵美は、恋人の自分に対する執念を恐ろしく思った。流される自分を悔しく思ったが、味方が居ない今は流されていくほかはない。どうすれば自分は本当の意味で自由になれるのだろう。圭吾の檻は出られたが、新たな檻に入れられただけのような気がした。

Posted by 斉藤 杏奈