天の園 地の楽園 第20話

 今日も恵美は佐藤邸の圭吾の寝室で診察を受けていた。あの日、佐藤邸を出たところで事故に遭い、圭吾が救急車を呼ぼうとしたが、執事達の意見もあり佐藤邸内の病院へ結局入院させられた。意識があったら恵美は拒絶したに違いないが、車にぶつかって気を失った間の出来事だったのでどうにもしようがない。今日で一週間目になる。

「もう点滴は不要になりました。良かったですね元気になられて」
「ありがとうございます」

 にこにこ笑う医師に恵美は頭を下げた。初老の優しい感じがする医師は明日も診察に来ると言ったが、点滴が外されたら逃げるつもりでいる恵美はその医師の言葉にひどく申し訳ない思いに駆られた。今までの恵美なら、病気などで世話になった人間を相手に何も言わずに逃げるなどありえない事だ。しかし、相手が圭吾になるとそんな常識は不必要だ。相手は自分を監禁して嫌がらせの為に子どもを作らせようとする、情けなどひとつもない男なのだから。

 恵美は明かりを消して、部屋の窓から外を見た。窓の外は夕闇の中で雪がひっきりなしに降っている。中庭の木々やベンチにも沢山降り積もり、こんもりと白く盛り上がった雪で元の形がわからなくなっていた。この雪で外は人が少ないのでこれならばすぐに逃げられるだろう。恵美はクローゼットに入っている山のような衣類の中からコートを取り出した。何ヶ月も監禁されたのだから少し拝借するくらい許されるはずだ。

「外出の許可は出ていないないはずだが」
「ひ……っ」

 いきなり圭吾が現れて、恵美は心臓がぎゅっと締まるのを感じ、気を失いそうになった。

「か、……海外にいるんじゃ」
「嘘だ。私がいるとお前は安心できなさそうだったからな」

 圭吾がいつもと変わらない切れ長の眼で、じっと恵美を見据えた。恵美は震え上がりながら外へ出なければと出口を目で探した。しかし出口は圭吾が立っている隣室へのドアと、その近くの窓だけだ。寝室なので窓が少ないのだ。隣室の明かりを後ろにしている圭吾の顔が黒く翳って見えない。前には無かったような熱をその翳りに見て、恵美はよりいっそう怖くなった。

 身体全体で拒絶している恵美に、圭吾が言った。

「……貴明に会わせてやろうと思うんだが」
「会っても話す事はないわ。私はもう貴明に会う権利なんて無いの」
「お前はそうかもしれないが、貴明はどうかな。まあどのみちあいつも話す事は無理だからちょうどいいのではないか?」
「どういう意味?」
「来ればわかる」

 圭吾に左腕を引っ張られ、恵美は部屋から連れ出された。プライベートスペースを出ると、本社の人間に寮として利用されているスペースに入ったため一気に出会う人数が増えた。皆、社長の圭吾の愛人に興味しんしんで、物珍しそうに恵美をちらちらと見て行く。外と違うのはあからさまに恵美を論評する声が聞こえないくらいだ。そこを通り過ぎると、病院のような空間になり人が少なくなった。

「ここは……?」
「うちが出資している病院だ」

 一番奥のガラス張りの部屋の前に立たされた恵美は、信じられない貴明の姿に雷に打たれたような衝撃を受けた。

「……会社を捨てようとすると、ああなる」

 艶のある圭吾の低い声が恵美の耳元で囁く。

「そんな……」

 あまりの衝撃に足の力が抜けていく恵美を、圭吾が背後から左腕で抱えた。大嫌いな男に触られても、それを忘れているほどの衝撃だった。目の前にあるのは、最後に見た貴明と大きくかけ離れた無残な姿だ。

 包帯に巻かれて顔が見えず、頭もある部分が髪を刈られてしまっていてそこに包帯が巻かれていた。病院服を着ているので良く見えないがおそらく身体全体に手当てがなされていて、左腕が固定されているのは骨折したためだと思われた。貴明は起きて話をしているのか、右手を掴んでいるメイドに顔の包帯をわずかに動かしていた。どちらにしても、日ごろの気力に満ち溢れていきいきと輝いていた貴明からは、想像も出来ないほどの痛々しさだった。

「あの女は貴明に心底惚れていてな。どうしてもと懇願するからあの程度でおさめてやった」
「どうして……あんな……ひどい」

 のどがからからに渇いて、声を出すのも困難だ。それ以上に震える手が止まらない。

「社員を見捨てて逃げるような重役にはそれ相応の報いを。それがうちの方針だ。母親のナタリーが決めたもので、実子であっても例外は無い」
「だって、だからって……」

 言いながらも恵美は、メイドの女の真摯な看護のほうに目が行っていた。女は何かを熱心に話していて、見ているだけで貴明を真剣に愛しているのがわかる。自分はああだっただろうかと、恵美は自分を思い返していた。

「貴明はあんなに風に命がけで愛されても、お前がいいらしいな。男は振り向かない女の為に人生を棒に振りかけ、あの女はその男の為に自分をどうにでもしろと言った」
「私は……」

 恵美は怖いものから逃れたいとばかり思っていた。貴明のあの氷のような表情と底知れぬどろどろとしたもの、御曹司とつきあう事への重圧、捨て子とばれるのが恐ろしくてその話題にならないようにして、結婚も拒絶した。

「それに対してお前はどうだ? すぐに決断するべきだったのに、男に対する情にほだされて何ヶ月も期待させ、あげくこの様だ。お前は二人の人間を消してしまうところだったんだ」

 貴明が恵美を護りやすいアメリカへ移住しようとした時は、自分には夢があるのだからと不満たらたらで……、世話になった瑠璃にもあんなにひどい事を言った。

「そんな……つもりは……」

 涙すらもう湧いてこない。貴明のためと思いながら、結局それは自分のためだったと思い知らされた恵美は、心にひびが入りそれが身体全体に広がっていくのを感じた。そこに圭吾のたらした毒が染み渡って行き、彼女の心まで蝕んでいく。

 修復しかけていたものが再び砕け散った恵美は、そのまま深く俯いた。もうあの二人に対して向ける顔がない。圭吾はそんな恵美の背中を押して、その場を離れた。長い髪が通り過ぎる人間の好奇に満ちた視線を遮断し、あの飽きやすい圭吾が唯一夢中になっている女だと、より一層の興味を彼らは掻き立てた。

 部屋に連れ戻され、そのまま恵美は圭吾に抱きしめられて口付けられた。心の器が壊れて、中に湛えられていた自信や夢や希望が流れ出てしまった恵美は、さっきまでの怯えも恐怖もなく圭吾の思うがままに動いた。何も守りたい物がないのだから、何も怖くはない。昨年まで確かにあった温かな家族や幼馴染ややっかいなクラスメイトは、恵美をすり抜けて行ってしまい誰もいなくなった。

「ああ……あ! は……ん……っ」
「恵美……」

 圭吾に身体を愛撫されながら恵美は幸せな過去を思い出していたが、恵美の心は何一つそれに響きを返さない…………。


 翌朝、恵美はまだ生きていたんだと思いながら起き上がった。昨夜は圭吾にせめにせめられ、何度も何度も逃げない事を誓わされた。圭吾はもう起きていて隣の部屋で新聞でも読んでいるのか、紙の擦れる音がした、めちゃくちゃに吸われた赤あざだらけの身体はべたべたしていて、初めて圭吾に犯された日よりも数段ひどい状態になっていた。

 それでも恵美はあの日と同じように、裸足でベッドから降りてバスルームに行きシャワーで身体を洗った。あの日と違うのは真冬だというのに彼女が浴びているの冷水で、ボディーソープもシャンプーも使わずにそのまま洗い流している点だった。黒い目は排水溝に流れていく水を眺めていたが、顔に表情はなく人形のように白い。

 無言で冷水を浴びた後は指が真紫になっているのにも気づかず、適当に身体を拭いて置かれていた服に袖を通した。

 そのままとぼとぼとバスルームを出て、朝食の席に座った。なぜか圭吾が居なくなっていて、メイドが聞きもしないのにナタリーに呼ばれたのだと説明してくれた。機械的に朝食を口に押し込んだ恵美は、メイドが出て行くと昨日と同じように窓から外を眺めた。めずらしい事にまだ雪は降り続けていて、その白さがとても眩しい。

 目を閉じた恵美は、何故かその眩しさで放心状態から立ち直った。

「……駄目だわ」

 ”逃げる”では駄目なのだ。きっと自分がいる限り貴明は追いかけてくるだろうし、貴明が憎い圭吾は、貴明が恵美を追いかけている限りあきらめない。絶対に今回のように逃げる度に捕まって、貴明が傷つき……。

「…………!」

 身体の奥からどろりと生暖かなものが流れ、局部に滲んでいった。そうだ、そして嫌がらせの為にいつか自分が圭吾の子どもを……。身の毛がよだつ気持ち悪さに、また身体が震え始めた。ひょっとしたら、自分はそのような境遇に生まれて捨てられたのではないだろうか。

「や…………だ…………っ」

 耳鳴りがし始め頭痛が始まった。心も身体も冷え切って何もかもが灰色と黒に塗りつぶされていく。取り憑かれたように恵美は窓を開けた。吹雪が部屋の中に舞い込み、暖かかった部屋の中の温度が一気に下がった。部屋は三階で、下のほうに雪かきされて露呈している石畳が見え、恵美は窓枠に乗り上げて腰をかけた。

 昨夜、圭吾にせめ抜かれながら考えていた事はただひとつだ。

 圭吾の玩具になるのも、貴明の未来を真っ黒に塗りつぶすのも、あのメイドを悲しませるのも嫌だ。生きている限りもう絶対に逃げられない。

「恵美! 何をしているっ」

 背後で圭吾の大声と共に駆けつけてくる足音がして、恵美は一瞬だけ振り向いた。強風に揺れる長い黒髪の隙間に、見た事も無い悲痛な形相の圭吾が見えた。

 捕まってたまるものか。

 佐藤邸は普通の建物よりも部屋の高さがあり、今恵美がいるのは三階だが、実際は六階ほどの高さがあった。恵美は圭吾に捕まる前に窓の枠を手放し、石畳を目指して飛び降りた。叫んでいる圭吾の声を上から聞き、いい気味だと思った。気絶する寸前のような風の当たりが気持ちが良い……。


 庭に落ちた恵美を見つけた従業員たちが、事故だと叫びながら走り寄って行く。ぴくりとも動かない恵美の顔は雪のように白く美しかった。

Posted by 斉藤 杏奈