天の園 地の楽園 第30話

 旅行カバンには、着替えやいくばくかのお金が入ったバッグなども入っている。一月ぐらいは持つはずだ。恵美は圭吾を起こさないようにそっと静かに着替えた。そして、その旅行カバンの取っ手を取ろうとして……手を引っ込めた。

「…………」

 そのカバンは、先日圭吾と二人で買いに行ったものだ。圭吾は小柄な恵美に合うようにと、いろんな店を先に廻ってめぼしをつけたものを恵美に勧めてくれた。取っ手を握ろうとした左手薬指には、ブルーダイヤが相変わらず光っている。あの宝石店の店長の言い草だと、おそらく圭吾は恵美の好みを考え、デザインにいろんな注文をつけたのだろう。月明かりが照らす本棚は恵美の好きな歴史書がいっぱいだった。

 確かにそれはお金で買われたものだが、圭吾の恵美を想う気持ちが至るところに溢れている。服にしても宝石にしても、どれも恵美の気持ちに沿うように作られていた。本当に金にものを言わせる男だったら、恵美の好みなど考えず、とにかく上等なものを押し付けてきただろう。

(馬鹿ね、何をためらっているの。それがこの男の常套手段かもしれないじゃない)

 首を横に振って、恵美は旅行カバンに手を伸ばした。しかし、その時圭吾がベッドの上で寝返りを打ち、再び恵美は手を引っ込めた。振り向いたが圭吾はやはり眠っているようだ。部屋のドアに背を向けている。

 心臓はどくどくと音を立てていて、静まり返った夜の室内に響きそうなくらいだった。時計は夜の一時を指しているが、恵美は昼以上に目覚めていた。異常な緊張状態が彼女を落ち着かせてくれないのだ。

 ある一種の縋るような気持ちが恵美の中にある。しかし、彼女の望む展開は訪れそうもなかった。それに寂しさを覚える自分に愕然としたが、ひょっとするとそれも圭吾の計算のうちなのかもしれなかった。恵美は自分を詰ったが、どうやっても自分の心は恵美に対して肯定の言葉を言わない。

 深いため息が漏れた。

 恵美は外出着に着替えたのに脱ぎ落とし、夜着を拾って再び着た。着ている内に涙が流れて止まらなくなった。圭吾を起こしてはいけない。気づかれてはいけない……。外出着をクローゼットへ音を立てずに戻し、静かにベッドに入った。ベッドはまだ恵美のぬくもりを残していてとても温かで、圭吾のつけているコロンの香りが微かに香った。嫌いなのに好きだ。憎いのに惹かれている。

「……出て行かないのか?」

 唐突に圭吾が言い、恵美は一瞬飛び上がる心地がした。いつ気づいたのだろう。

「記憶が戻ったのだろう?」

 何もかもわかっていると言いたげな広い背中が憎らしくて、恵美はその背中を両拳で叩いた。

「私を追い出したいのなら、まどろっこしい演技なんてしないで放り出せばいいでしょ! 貴方の望みどおりに妊娠して路頭に迷わせそうで満足でしょう?」
「……何を、馬鹿な」
「贅沢に慣らせたところで手を離すつもりだったんでしょう、わかってるんだからっ」
「恵美」
「ナタリー様と二人で、どうしてそこまでして私をおとしめるの? 私がいらない子だったから? 良い家のお嬢様じゃないから?」
 
 こんな事が言いたいのではないとわかっていても、恵美の口からは違う言葉ばかりがぽんぽんと飛び出して止まらない。圭吾がベッドヘッドの暗い照明をつけ、恵美を抱き締めるまでそれは続いた。

「……お前は私に何を言わせたい。謝罪か? 懺悔か? ……それとも」

 恵美は横倒しになったままで抱きしめられていたが、その広い胸に顔を埋めて強くしがみついた。

「お前は自分を陵辱した男と一緒に居たいのか?」
「そんな言葉が聞きたいんじゃない……」

 恵美が嗚咽交じりに言うと、大きな手が恵美の頭をゆっくりと撫でて長い髪をやわらかく梳いた。そんなやさしさが今欲しいのではない。かつてのように自分を強く求めて奪って欲しいのだ。自分はずるくて愚かだと恵美は思ったが、出て行く出て行かないの瀬戸際の今は強い行動が欲しかった。

「私が施設育ちだと言ったのを覚えているか? 実は、私も捨て子だ」
「……え?」

 恵美は顔をあげようとしたが圭吾がそれを許してくれず、そのまま圭吾の胸に顔を埋めたままになった。圭吾は淡々と話しはじめた。

「母は身持ちの軽い水商売の女だった、私の父が誰だか皆目見当がつかないくらいの。それでも私は母を愛していたし、信じてたさ……五歳の時に雪の中で置いてけぼりにされるまではな」

 圭吾はその時の寒さを思い出したのか、一瞬身震いをした。

「『いい子にして待っててね』と、そう言って母は私にスーパーの袋一杯の菓子パンを私に渡した。一日一食の食事ですら食べられるかどうかの私には、ごちそうに見えたな……。『待ってる』と私は笑い返して、その後ずっと同じ場所に立って母を待っていた。菓子パンは母と一緒に食べようと思ってずっと何も食べずに……待ってた」
「…………」
「新しい男が私をいらないとでも言ったのだろうな。私は母を信じていたがそれを裏切られたわけだ。施設にひきとられてからは、もう何も信じないと思った。とにかく金と権力が欲しかった。そうすれば、必ず満たされると信じてた」

 まるで他人事のように圭吾は続ける。ナタリーとの仲を告げた時もそうだった。

「だが……いつも何かが足りなくて、いらいらしていた。何かが欲しくて、ナタリーと結婚したのだが、それは満たされるどころか無くなっていく一方だった。ひどいものだったさ、散々な当てこすり非難中傷、嫌がらせ、ただ生まれた時の運が悪かっただけで、ひどい目に遭うんだな……」
「圭吾……」
「貴明やナタリーにはわからない。捨て子とさげずまれた人間の辛さやさみしさなどわかるわけがない。光り輝く星には地中に埋もれている石など、ゴミくずのように思えるだろうな」

 圭吾の腕が緩んだので恵美は圭吾を見上げた。圭吾の切れ長の目は優しい炎を浮かべて恵美を見つめている。恵美は涙をぬぐって毒ついた。

「よくそんな境遇で、私の事が言えたものよね」

 圭吾が苦笑しながら、恵美の肩に降り掛かっている黒髪を背中へ流した。

「私はお前がうらやましくて妬ましかった。どうして同じような目に遭っているのにそんなに真っ直ぐで人を想えるのかと。……お前は私にもナタリーにも負けなかった。弱そうで、お前は強い。その強さと何にも染まらない心が私達にはひどく眩しい」
「強くなんて……」
「ひどい事をしたから、愛してくれなどとは言わない。だが私は……お前を愛している」
「本当?」

 それが一番聞きたい言葉だったのに、恵美は圭吾がうそをついている気がした。

「言い方を変えるか。子供が欲しいと思ったのはお前だけだ」
「復讐のために子供を産ませるとか言ってたわ。それに私は捨て子で佐藤グループにふさわしくないって……」
「あれには語弊があったな。貴明にはふさわしくない。私にはお前はふさわしい……それだけだ」
「なに……それ」
「お前も思った事があるはずだ。親からいらないと捨てられた自分が幸せになる権利などあるのだろうかと。もし子供を持っても、その子は自分より要らない子供になるのではないかと」
「…………」
「それでも私はお前が欲しかった。監禁して記憶を間違えているお前をよしとした。でも一方で記憶を欲しがるお前にも応えたかった……。非道と言われても構わない、やっと手に入った宝石を手放せるほど私は人間ができていない。お前は言った、幸せになる為に生きるのだと」

 恵美はごろりと仰向けにゆっくりと転がされ、圭吾が覆いかぶさって肩に顔を埋めるのを許した。その温かさと力強さに恵美ははっきりと悟った。自分が怯えていたのは非道な圭吾ではない。そんな圭吾でも惹かれていく自分が怖かったのだ。

 ゆっくりと圭吾の顔が近づき、やわらかな唇が重なった。恵美はその熱が今ほど愛おしいと思った事はなかった。同時に嫌な男だと思う。悲しい過去を他人事のように話して、どう思うかを恵美の判断に任せるあたりが計算高い気がする。そんな話を聞かされたら、ますますこちらは突き放せないではないか。そう思っている段階で、恵美は圭吾を心底嫌いになれない自分に気付いた。これ以上好きになりたくない……相手はひどい男なのだ。でも圭吾の黒い瞳は貴明の茶色の瞳以上に魅力的で、ずっと熱く自信に満ちあふれていて、恵美を虜にしてしまう。

「貴明が三十五になるまで……お前は日陰の身だが耐えられるか?」

 恵美は涙を流しながら笑った。

「圭吾に捨てられる他に、私に怖い事なんてないの。子供も圭吾の子供だもの……耐えるどころじゃないかもしれないわ」
「……そうかもしれないな」

 恵美は心の中で貴明に深く詫びた。殺されても仕方がないと思う。傷つけたくないと思っていたのに、かえって深く傷つける結果になってしまった。ナタリーが許しているとはいえ、本来なら許されるべきではない恋なのだから。

Posted by 斉藤 杏奈