天使のかたわれ 第22話

 そうして十一年の歳月が過ぎた。
 今日も大きなアルブレヒトの館の中の自分の部屋で、雅明は熱心に絵を描いていた。
 大学へ入って初めての冬だ。 
 学生時代と変わらず、抜群の容姿と明るい性格で雅明は人気者だった。ひっきりなしに友達が訪れ、また雅明が訪問し、遊びにクラブに勉強に忙しい。
 ソルヴェイとの交流は、学校へ通いだした途端に途絶えがちになった。ソルヴェイが通う学校が、雅明やエリザベートの通う私立の学校ではなく、公立の学校だったためだ。それでも休日には会っていたのだが、成長するにつれて極端に疎遠になっていった。
 それを寂しいと思うものの、雅明も新たにできた人間関係に忙しく、時間を作るのは難しかった。何よりシラーに教えてもらう絵の勉強が楽しかったし、没頭したかった。また、ソルヴェイのほうも何かと忙しくしており、すれ違うのは仕方がないと二人とも思っていた。……程度の差はあったが。

「こんにちは、アウグスト」
 数ヶ月ぶりに部屋へやってきたソルヴェイに、絵画に向かっていた雅明は振り返り、優しく笑いかける。
「久しぶりだなソルヴェイ。元気だった?」
「うん」
「最近全然来てくれないから、私の事なんか忘れたのかと思ってたよ」
 ドイツでもレベルが高いと言われている大学へ入学し、画家としても成功し始めている雅明の口調は、すっかり紳士的なものに変わっていた。それが雅明の美しい容姿に似合っていて、ソルヴェイにはとても眩しい。
 ソルヴェイは、絵を描く雅明の後ろ姿を眺めるのが好きだった。習い始めた頃は壁に絵を描いているのでは? と思うくらい小さかった雅明の身体も大きくなり、180センチに届こうとしている。黒と銀が入り混じっていた髪はもう銀だけになっていた。
 美しい雅明にソルヴェイは恋していた。でもエリザベートのように美しくない自分では、とても相手にしてもらえそうにもない。だから自然とこの館からは足が遠のいても、それを幸いとも思っていた……。
「いろいろあったものだから……」
「ふうん、そう」
 会話が途絶えた。
 雅明は、ソルヴェイの気持ちなど気づいてもいない。ソルヴェイを幼なじみとしか思っていないのだ。
「あのね……アウグスト」
「うん?」
 雅明の筆は止まらない。 
 ソルヴェイは今日、彼女の人生を左右するかもしれない出来事があった。それを雅明に相談したいと思って来たのだが、どうしても絵に没頭している雅明には言い出せなかった。
「ううん。やっぱりなんでもない……。これは薔薇?」
「ああ。リシー(エリザベートの愛称)が書いてくれってうるさくってさ」
「リシーは綺麗だものね」
「そうだな。だけど性格がなあ……」
 エリザベートと雅明は喧嘩ばかりをしていても、結局は仲がよかった。お似合いの二人だと誰もが言っている。美しい二人が居るだけで、場がぱっと明るくなる。
 ソルヴェイはそんな二人を羨ましく思っていた。

 そのまま結局何も言わないまま帰っていったソルヴェイに、雅明を首を傾げた。
「なんか変だったな、今日のソルヴェイは」

 翌日、雅明は画商からの帰り道でソルヴェイを見かけ、声をかけようとして立ちすくんだ。となりに知らない茶髪の男がいて、妙に親しそうだ。同じ年と思われるその男とソルヴェイは、話をしながら喫茶店に入っていく。
 その日はちょっと心が痛む程度だったのだが、たびたびその光景を見かけるようになった雅明は、いらいらしてくるのを覚えていた。それから時間ができるたびに、雅明は同じ時間に同じ道で二人を尾行するようになった。
 そんなある日、雅明はエリザベートに呼び止められた。
「あなた尾行してるの?」
 寒い中、喫茶店から二人が見える角度で建物の影にたたずんでいた雅明は、ぎくりとして振り返り、白い息を吐きながら口を歪めた。
「あっちいけ。お前みたいなド派手女が寄ってきたら、見つかるだろ」
「今日はシラー先生の日でしょ? すっぽかす気?」
 雅明は舌打ちして屋敷へ足を向けた。
 同じ方向に館があるエリザベートが、隣にひっついて歩き、コツコツとお互いが履いているブーツの音がする。空は今にも雪が降りそうに灰色の空だった。
「お前、あの茶髪の男知ってるのか?」
「知ってるわよ。ソルヴェイのお見合い相手で、名前はペーター」
 エリザベートの口ぶりは、誰でも知っていると言いたげだった。雅明は驚いた。
「見合い相手だって? ソルヴェイはまだ十八歳じゃないか!」
「お馬鹿さんね。ソルヴェイは私ほどじゃないけどお嬢様なのよ。そんな話珍しくもないわよ」
 雅明は胸に穴が開いて、風が吹き抜けるような心地がした。
「最近来なかったのは、あの男とデートしてたからなのか?」
「さあね。でもアウグストには関係のない話でしょ?」
「関係ない事ない! ソルヴェイは……」
「……ただの幼なじみでしょ?」
 黙り込んだ雅明に、エリザベートは意地の悪い笑みを浮かべた。
「安心なさいよ。貴方の奥様には私がなってあげるから」
「死んでもごめんだな」
 そこまで言って雅明は、エリザベートが手を寒そうにしているのに気づき。自分の手袋を渡した。エリザベートはうれしそうにそれをはめ、手袋の手で両頬を挟んだ。
「大好きよ、アウグスト」
「素直になったねえリシー。男に可愛がってもらえよ?」
「もう!」
 笑いながらアルブレヒトの館に入っていく雅明を、切ない目でエリザベートは見つめていたが、雅明はまったく気づかないまま、彼女と別れた。

 館では、雅明の部屋ですでにシラーが待っていた。すぐに絵を描き始めた雅明は、ぐちゃぐちゃの心を持て余した。
(参ったな)
 ソルヴェイの事を頭から追い出したいのに、初めて出品し、入賞したあの絵が部屋に飾られているので、それはとても難しかった。
 どうも気分が乗らない。
 シラーは、そんな雅明の絵の色使いを見て、うれしそうに笑った。
「いい色が出せるようになったね。やっとか……」
「は?」
 今日、まともに描けていないと思っていた雅明は、不審そうに眉を歪めた。
「まだ荒削りの段階だけどね。大人になったら、もっと鮮やかな色が思うように出せるようになるだろう。今のうちにいろいろ経験しておくといい」
「は……あ?」
 九十歳に手が届こうとしているシラーの考えは、若い雅明にはさっぱりわからなかった。戸惑いつつも絵の具を混ぜている雅明を、しわの多い顔を優しい笑みでいっぱいにしてシラーは見ていた。

 翌日、ついに結構な量の雪が降った。
 大学から帰ってきたソルヴェイは、自分の屋敷の前で待ち受けていた雅明にびっくりした。しかもいつから待っていたのか、銀色の髪の上に雪が積もっている。慌てて駆け寄り、ソルヴェイはその頭の上の雪を手で払った。
「アウグスト、何してるの?」
「話があるから来て」
 雅明はとまどっているソルヴェイを、自分の部屋に連れ込んだ。部屋の中はとても寒かったので、雅明は暖炉に火を焼べた。火がしっかりつくのを見ている雅明は、ソルヴェイに背中を向けていた。その背中はなんだか機嫌が悪く見えた。
「……どうしたの? 何怒ってるの?」
 やっと離してもらえた手をさすりながら言うソルヴェイに、雅明は振り返った。ソルヴェイは、その雅明の真摯な眼差しにどきりとする。
「結婚するのか? ペーターって男と……」
「!」
 ソルヴェイは顔を強ばらせた。
 ああやっぱりと雅明は思った。同時に許せないという熱い怒りもわいてくる。
「好きなのかあいつの事」
「……アウグストには関係ないでしょう? 貴方は知らないかもしれないけれど、貴方はリシーとの結婚が決まっているのよ?」
「なんだって?」
 雅明には初耳だった。
 暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。
「またあいつの悪ふざけだろ? 真に受けるなよ」
「本当よ。アルブレヒト様がおっしゃってたんだから……」
「私は承知してない。そんな話」
 部屋は夕暮れで薄暗く、暖炉の火だけがお互いの姿を浮かびあがらせる。
 ソルヴェイは明るく微笑んだ。
「よかったじゃない。リシーは美人だし、賢いわ。アウグストにはお似合いよ。それにリシーは貴方を愛しているんだし……」
「……本気で言ってるのか」
「当たり前じゃない」
 とっさに雅明はソルヴェイの肩を痛いほど掴んでいた。ソルヴェイは痛みで顔を歪めながらも驚いている。雅明は今まで一度だって、ソルヴェイに対して、こんなふうに力任せに行動しなかったからだ。
「アウグスト……?」
「自分に結婚相手が見つかったからって、おさらばなのか」
「……アウグストだってそうじゃない? 何を怒っているのよ。幼馴染で仲良しな……」
「違う!」
 ソルヴェイの柔らかな身体を、雅明は抱きしめた。ソルヴェイは出会ったあの頃と変わらない甘い匂いがする。自分が求めてやまない懐かしい温かさだ。
「私は……リシーと結婚なんかしない」
「馬鹿言わないで」
 雅明は腕から逃れようとしているソルヴェイを、よりいっそう強く抱きしめた。胸の中からくぐもった声で、ソルヴェイが言った。
「……お願いだから私を困らせないで」
「ソルヴェイ……!」
 気がついたときには、雅明はソルヴェイの柔らかい唇に自分のそれを重ねていた―――。
 足下に崩れ落ちそうなソルヴェイを、再び雅明は抱きしめる。
 雅明は低く囁いた。
「……いやなんだ。ソルヴェイが離れていくのが」
「でも、それは……気のせいよ。子供がおもちゃをほしがっているように、私を思ってるだけだわ」
 違うそうではない。雅明は首を振る。
 いとおしさが胸に込み上げてきて手が震える。あの茶髪の男と楽しそうに笑っているソルヴェイを見て、雅明はやっと自分の気持ちに気づいた。
 自分はこんなにも彼女が……。
「私は、ソルヴェイが好きだ」
「アウグスト……」
 泣いているソルヴェイの涙をすくって、雅明は頬にキスをする。
「ソルヴェイは私が嫌い?」
 ソルヴェイは首を横に振った。雅明はそれを見てうれしそうに微笑んだ。泣いているソルヴェイの頬を両手で挟んで、覗き込む。東洋人の顔なのに、目だけはアイスブルーのソルヴェイ……。
「好き。私……」
 最後まで聞けず、雅明はソルヴェイをキスしながら抱き上げた。
 熱い感情がお互いを包み、一方の方向へ歩き出した。

Posted by 斉藤 杏奈