天使のかたわれ 第25話

 フランスの絵画展を終えた雅明を待っていたのは、ディートリヒ邸の人々の冷たい視線だった。
「おかえりなさいませ」
「……ただいま」
 出迎えた執事は、いつもと同じ丁寧な口調なのに、その表情に温かさがまったくない。
 心当たりが無い雅明は、首をかしげながら自分の部屋へ向かった。そしてその途中で、執事以上に冷たい視線を家人たちから投げかけられた。
 何かが起こったのは明白だ。
「ただいま、ソルヴェイ、ミハエル」
 事情を聞かなければと思いながら、部屋の扉を開けたが二人の姿がない。テラスにも居ない。
「ソルヴェイ? ミハエル?」
 買い物に行ったのだろうか。
 それにしては、部屋の空気が妙に淀んでいる。まるで何日も人の出入りがなかったかのように……。
 嫌なものを肌で感じながら、雅明は空気を入れ替える為に部屋の窓を開け放った。
 部屋の外は明るくて優しいのに、雅明の周りだけ妙に寒々しい。
 ノックの音がした。
 雅明はソルヴェイが帰ってきたのだと、ほっとして腰掛けていた椅子から立ち上がったが、入ってきたのは、執事以上に冷たい視線を投げかけるディルクだった。

「君が脅して誘拐したソルヴェイ嬢は、父親が迎えにきて連れて帰ったよ」
「!」
 本名を口にされて、雅明の胸は一気に冷えた。
「君の本名はアウグストと言うらしいね? は! ごたいそうな名前だな。尊厳なる者? 君には不釣り合いすぎるよ」
 ディルクは雅明の旅行鞄を蹴飛ばした。旅行鞄は派手な音を立てて床に転がる。
「君には愛想がつきたよ! ソルヴェイ嬢が冴えない顔をしている時があるから、怪しいとずっと思っていたんだ。そりゃそうだろう、言うことを聞かなければ殺すと君が脅していたんだからな!」
「違う! 脅してなんかいない、私は彼女を愛していたんだ」
 ディルクは鼻で笑った。
「君が一方的に、だろう? 無理やり家族から引き離して、結婚していたなんて最低だよ。さっさと出て行ってくれ。婦女暴行の誘拐犯を、屋敷に入れておくわけにはいかないんだよ!」
「無理やりなんてしていない……っ!」
「パウルもお前の顔など見たくもないと、ものすごく怒ってる。ソルヴェイ嬢と父上殿のお情けで、警察には言わないでやる。シラー氏もとんだ男を紹介してくれたものだ!」
「待てディルク、それは違うんだ。話を聞いてくれ!」
 ヨヒアムが、恐ろしく事実をねじ曲げたに違いなかった。それを説明しようとしても、ディルクは話を聞こうともしない。さも汚らわしいと言わんばかりに、雅明に唾をはきかけて部屋を出て行ってしまった。

 雅明は呆然として部屋を見回した。寒々しいのは道理で、ソルヴェイとミハエルの荷物がすべて無くなっている。
 ソルヴェイが父親の影に怯えていたのは、わかっていた。だからなるべく傍に居て、仕事はすべて近場を選んでいた。だが……。
 携帯電話が鳴った。
 知らない番号だったが、ある予感がして雅明は通話ボタンを押した。果たして予想通りに冷たい壮年の男の声が響いた。
『ソルヴェイとミハエルは連れて帰った。ミハエルは本当なら孤児院へ送りつけるところだが、ソルヴェイの結婚相手の方が寛大な方で、全てを了承した上で面倒を見てくださるそうだ』
「……彼女は私と結婚したんだ。離婚には……」
『お前なしで成立した。もそもそも結婚などという事実は、最初から無かった』
 どうしようもない怒りが雅明の胸の中で渦を巻いた。
「貴方は! ソルヴェイが望まない結婚を押し付けて、彼女を不幸にするなんて……! それが親のすることなのか!?」
 受話器の向こうから哄笑が響いた。
『笑わせるな! 娘を不幸にしたのは世間知らずのお前だ。駆け落ちするような馬鹿を、世間が認めるとでも思っているのか!』
「それは……!」
 虚を突かれて雅明は絶句する。
『よくも娘を傷物にしてくれたな、本当なら殺してやりたいくらいだが、ソルヴェイの命に免じて許してやる』
「ソルヴェイの命? 彼女は生きているんでしょうね!?」
『ああ、生かしてやる。だがお前はもう二度と我が家とは関わるな。ソルヴェイの嫁ぎ先は誰にも教えない。また誘拐されたらたまったもんじゃないからな!』
 通話は唐突に途絶えた。

 雅明は、パウルとディルクに詳しい事情を説明したいと執事に頼み込んだが、パウルもディルクも会ってはくれなかった。
 偽名を使っていたのが致命的だった。嘘をついて、家中の者を二年に渡って騙し続けてきたのだ。親切にしてきた分、裏切られた憎しみは相当なものだろう。

 一時間も経たない間に、雅明は家の外に突き出されていた。
 雅明は今頃になって、自分のしでかした事の重大さに気づいた。
 どんなにソルヴェイが好きでも、駆け落ちなどしてはならなかったのだ。雅明がするべきだった行動は、誠心誠意を込めてアルブレヒトやヨヒアムを説得し、結婚を許してもらうことだったのだ。
 確かに二人はにべもなく、雅明の願いを却下した。でも、このような手段は使うべきではなかった。失敗した時のことを、雅明はあまりにも楽観視していた。自分の才能を過信し、何も言わずについてくるソルヴェイに甘えきった結果がこれだった。
「いや……」
 雅明は首を横に振る。
 いずれにしても、生まれる前にミハエルは闇に葬り去られたに違いない。だがそれすらも結局は、雅明が全て招いた災いだった……。
 固く閉ざされた門に頭を下げ、雅明は行くあても無く歩き出した。夏の陽射しは暑いほどだったが、ちっとも暑く感じられない。

 ヨヒアムは雅明を徹底的に痛めつけた。
 雅明の家族と生活する場を奪った次は、高名な批評家を囲い込んで雅明の手がけた絵画をすべて酷評させ、画家としての生命を奪った。
 絵はまったく売れなくなり、画商からすべて返品された。沢山いたスポンサーたちも酷評を信じて雅明を見放し、サロンに呼ばなくなった。
 雅明は、たちまち生活費に事欠くようになり、他の仕事を片っ端からあたってみたが、どこも雇ってくれない。
「あんた、あちこち雇ってくれと回ってるようだが、この辺であんたを雇う奴はいないよ。痛い目に会う前に国へ帰りな。世間知らずなあんたのために言ってるんだぞ」
 そう言ったレストランの支配人は、雅明の鼻先で裏口の戸を閉めた。

 いままでの活動が華やかだった分、マスコミはこぞって雅明の酷評を書きたてているらしい。
 特にひどく書いているのは、一番親切だったディルクだった。ここまでこき下ろす必要があるのかと思うぐらいそれは辛らつで、その評を読んだ雅明は別人が書いたのではないかと疑ったぐらいだ。
(仕方ない。私は彼らの好意を裏切ったのだから……)
 雅明は、震える足を懸命に動かした。とにかく眠ろう。アパートへ帰って一晩眠れば、何かいい考えが浮かぶかもしれない。
 しかしどこまでも現実は悪魔のように残酷で、アパートの部屋の前に白髪の老人の大家の姿となって、待ち構えていた。
 荷物が全て外に放り出されている。驚いている雅明に大家は言った。
「あんた、もう三ヶ月も家賃を滞納してるだろ? 悪いけど出て行ってもらうよ?」
「ま、待ってください。働く先を探している最中なんです」
「駄目だ駄目だ。人気のある画家だったから他国人でも貸してやったのに、とんだ見当違いだった。これ以上待っていられんよ」
「待って……っお願いです!」
 懸命にすがりつく雅明を大家は突き放した。
「働く働くと言って何ヶ月経つと思うんだ! 払えない奴に居座られると迷惑なんだ。こっちも商売なんだよ」
 気がつくとアパートの住人が、大家と雅明を見ていた。どの目もひどく冷たかった。
「早く出て行け!」
 罵声を浴びながら、雅明は寒くなった路上を、荷物を担いで歩いた。通り過ぎる者はそんな雅明を無遠慮にじろじろと見る。
 視線を避ける為に路地を曲がると、ゴミが山積みになって行き止まりになっていた。
 ゴミだらけで悪臭に満ちたそれを見て、雅明は自分の手荷物と画材をそこに向かってぶちまけた。
「こんな……っ!」
 絵などもう描けやしないのだ。売れない絵や画材など持っていても邪魔なだけだ。
 そして見つかったら警察に捕まるとわかっていて、火を放った。今夜は冷えるし、このままでは外で寝ることになる。それなら留置場の方がましだった。しかし放置されていたゴミは昼間の雨で水浸しだったため、延焼は無く、そのまま雅明の手荷物だけが燃えていく。
 誰も通報しないようで、警察はいつまで経っても現れない。どうやら自分は、警察ですら関わりたくない人物に堕ちたらしかった。
 ぶすぶすと煙が上がるだけになった頃、雅明は警察に捕まるのを諦めて、再び歩き出した。
 行き先は、ソルヴェイに近寄らないように注意しろと言っていた、あの歓楽街だった。

 あちこちに飾り窓があり、派手な電飾が雅明を照らす。とりあえず雨風がしのげそうな軒下に入ると、その家の家主が飛び出してきた。
「ちょっと! そんなところで汚い格好で立たないでよ!」
 力なく雅明が見上げると、えらく扇情的なドレスを着た厚化粧の女が立っていた。
「……汚い?」
「そうよ! …………ってあんた、格好はひどいけどとても綺麗な顔をしているじゃない。ねえ? 私なんかどう?」
「私?」
 一瞬何を言われているかわからず、雅明は瞬きを繰り返した。
 女が近寄ってくると、ひどく甘い香水の臭いが漂う。
「そうよ。私はそんなにふっかけないわ。一晩たったの100ユーロだし。いろんなプレイをしてあげる」
「……一晩? プレイ?」
 ますます何を言われているのかわからない雅明を、女は良いカモとばかりに自分の家へ引っ張り込んだ。けばけばしく飾り立てられた寝室に入れられて、ようやく雅明はここが売春宿なのだと気づいた。
「私は1ユーロも持ってない。だからしない」
「あら、いいわよあんたほどのいい男なら。朝食つきでタダでやってあげる」
「タダより高いものはないというから」
 雅明はぞっとして部屋を出ようとしたが、そこにもう一人のけばけばしい化粧の女が現れて、出口を阻んだ。
「あら、いい男じゃない。やったわねシンディ」
「そこに立ってたのよ。あんたには譲らないよ。さ、出てった出てった」
「ふーん。私のほうが天国を見せてあげるのに。明日私のところへいらっしゃいよ!」
 雅明は二人から漂う香水の匂いにむせ返りそうになりながら、二人を押しのけて外へ飛び出した。背後からあけすけな爆笑が響いた。
 ほうほうの体でなんとか女から逃れた雅明は、人通りの多いところへなんとかたどり着き、壁に凭れ掛かった。

 息を整えて窓に映る自分を見た。派手な電飾に照らされた己の美しい顔……。
「……こんな顔がいいってか?」
 何も持たない己の唯一の財産が、ここにあった。
 シンディの先ほどの態度を思い出す。
 どうせまともな職になどありつけはしない。だったら…………。
 雅明は己の胸を弄り、プラチナの首飾りを取り出した。最終的に困った時にととってあったものだ。もっと早く換金して、アパート代を払っておけばよかったのかもしれない。だがあのまま職を探しても、だれも雇ってなどくれなかったに違いない……。

 だれも、自分など必要とはしてくれない。
 投げやりな諦めが雅明に襲い掛かり、あっという間にまじめにやり直そうとしていた心へ侵入し、その奥底にどっかりと居座った。
 もうどうなっても構わない。
 帰る場所も、名誉も、家族も、何も無い。
 シュレーゲルは己の愚かさで捨て、ソルヴェイとミハエルは己の浅はかさで消え去った。
 一人ぼっちだ。

 雅明は首飾りをユーロに換金し、その金で己の身なりを整えた。するとたちまち辺りを魅了する美男子に変身する。
 試着室から出てきた雅明の美しさに、目を丸くする洋服屋の店長に雅明は微笑んだ。
「この街で。一番いい女が揃ってる店はどこ?」
「あ、えっと……。二通り向こうを左に曲がってすぐの、『夜の白鳥』になりますが、客はすべて富裕層の方ばかりではないかと。失礼ですがいくらお持ちで……?」
「四十万ユーロ」
「それだけあれば数日は」
「ありがとう」
 雅明が礼を言うと、店長は顔をはっきりと赤くしたが、雅明はそれに気づかず店を出て、『夜の白鳥』を目指した。

『夜の白鳥』は、どこの王城かと思われるような建物で、軒並み建っている他の店とは確実に一線を画していた。なるほど、一般の客では入り口だけで恐れをなして、入るのも躊躇われる豪華さだが、どうせ数日だけなんだからと、雅明は臆することなく入った。
「お客様、紹介状はお持ちでしょうか?」
 出迎えた品のいい男がにこやかに言う。
「紹介状が要るのか」
 知らなかった雅明は、いささかがっかりした。
「ええ、この『夜の白鳥』では、お客様に最高のサービスと保守義務を誇っておりますので、ご紹介が無い方は入店できない決まりになっております」
 雅明は苦笑した。
 その時、ふと脳裏にひらめいたものがあり、雅明はそれを口にした。
「ヨヒアム氏から、何も聞いてない?」
「え?」
 店員は目を丸くし、雅明に少し待つようにと言い置いて、慌ててその場を立ち去った。オーナーでも読んでくるつもりなのだろう。
 
 店内をぐるりと見渡す。
 品のある豪奢なホテルのようでいて、どこか廃退的だ。場所が場所だけにそう思うのかもしれない。客が男だけなのもそれに拍車をかけていた。
 店員がオーナーを連れて戻ってきた。
「うちの者が失礼いたしました。こちらへどうぞ……」
 丁寧な物腰のオーナーの姿を見て、ここまで綺麗にお膳立てしたヨヒアムに笑いたくなった。まったく、あの悪魔のような男は、どうしてかこのベルギーで恐ろしい影響力を持っているらしい。街ぐるみで自分を陥れるのだから、大したものだ。

 雅明は、酒と水商売の女たちに溺れた。持っていたお金は、賭博と酒と女にすべて使い込み数日で使ってしまい、今度は美貌で女たちをたらしこんで、娼婦のヒモのような生活を送るようになった。
(早く全て終わりにしたい)
 汚い酒場で飲んだくれて、女に寄りかかりながら雅明は低く笑った。
「あら、今日はそれなの?」
「いや……膝枕のほうがいい」
「ふふふ、いいわよ、いらっしゃいな」
 きつすぎる香水を漂わせた女の腕が、雅明を己の柔らかな膝へ誘った。
 女の膝は、母のナタリーと同じだった。
 深い郷愁が蘇るのと同時に、佐藤圭吾の台詞が大きく木霊した。
『おまえはいらない』
 雅明は目を閉じた。
(ソルヴェイ、ミハエル……。どうか幸せに)
 独りよがりな自分は、どれだけの人々に迷惑をかけただろうか。
(母さん……、貴明)
 こんな男は惨めな結末を迎えたら良いのだ。
 自分が嫌いで許せない。
 家族を幸せにできなかった自分が、愚かしい。

Posted by 斉藤 杏奈