天使のキス ~Deux anges~ 番外編 天使のお芝居 第1話

 ある日、麻理子が部屋で貴明の服の仕上げをしていると、みどりがへ飛び込んできた。

「麻理子様! 大変! 貴明様がっ」
「びっくりするじゃないの、みどり。なあに?」
「一人で車に乗ってどこかへ行かれました!」

 麻理子はあきれながら一旦止めた運針を再開した。貴明はもう大人なのだから一人で行動した所で心配する程の事はない。そう注意しようとすると、みどりが言った。

「出かけられる寸前に、女性からの電話を受けていらしたんです」
「そんなのよくある事でしょう? 仕事関係の方でしょ……」

 みどりは、麻理子の落ち着き様に焦れた。

「違いますよ、なんでも昔おつきあいされていた女性らしいですよ?」
「ふうん、同窓会か何かなの?」

 麻理子の同僚達や、まだ麻理子に憧れている男性社員達から聞いてはいたが、本当に男女関係の事には鈍感の百乗が付く位にぶいのねと、みどりは頭が痛くなった。
 同じく鈍感で不器用な貴明と結ばれたのは、奇跡としかいいようがない。

「気にならないんですか? なんでコンタクトをとってきたのかとか、また貴明様を狙っているのかもしれませんよ?」
「貴明が承知しないわ。私を最後の人にするって約束したもの」
「……ものすごい美女らしいですよ……その方」

 運針する麻理子の手が止まった。

「そんなに綺麗な方なの?」
「過去の女性の中ではダントツだそうです。過去におつきあいされていたのは4人でその中で一番だそうですよ?」
「……私は5番目の女なのね」

 みどりは再びがくっと来た。どうしてこうも突っ込みどころがずれているのだろう。

「とにかく、間違いがあったらいけないじゃないですか? 後を追いかけましょう!」
「そんな、はしたない……第一どこに行くかなんてわからないじゃない……」

 みどりはにんまり笑った。

「行き先は碧川プリンスホテルです」
「なんでそんな事知ってるの?」
「麻理子様と同じです。貴明様も発信機を付けて行動なさってますもん。さ、早く行きましょう!」
「え、私、行くと決めたわけでは……」

 確かに貴明の過去につきあっていた女達が、気にならないわけではない。だが、こそこそと後をつけるのは、どうも気が引けた。でも何故その女性は呼び出したのだろうと、麻理子はそこが気になった。  


 ホテルに着くと、貴明がホテルのフロントフロアのテーブルについているのが見えた。濃いグレーのスーツに身を包んだ貴明は、やはり素敵だなと麻理子は思った。しかし、あのスーツに麻理子は見覚えはない。おそらく麻理子が勤務する前のものなのだろう。

 麻理子は目立たない様に、帽子をかぶってみどりと席に着いた。いつも薄いカラーの服を麻理子は身につけるのだが、貴明の目を欺く為にわざと濃い黄色の服を着ていた。

 貴明が席をさっと立った。見るとワインレッドの服をきた、スタイルがいい女が貴明に向かって歩いていく。
 ちらと横顔が見えた。
 自分など足下にも及ばないと麻理子が思うほど、美しい女だった。

「……本当にお綺麗で、スタイルの良い方ね」

 麻理子がぽつり言うと、みどりは焦ったように言った。

「いえ、大丈夫です! 麻理子様の方が絶対に勝ってますって! 化粧でごまかしてるんですよ」
「……私、あんなに彫りの深い顔ではないし、肌は透き通ってないし、手足も長くないし、髪もあんなに長くて綺麗じゃないし、胸も大きくないわ……」

 恋愛の機微には異常に疎いが、さすがにファッションデザイナーだけあって人を細部までよく見ている麻理子だった。

 楽しそうに二人が話しているので、麻理子はなんだか辛くなってきた。あきらかに仕事関係の女ではなさそうだ。

「会話が聞きたいけど、聞こえませんね……麻理子様?」  

 みどりはそこまで言って、はっとした。麻理子が涙を流して泣いている。
 みどりの視線に気づいて麻理子ははにかんだ様に微笑み、ハンカチで涙を拭いた。

「私は帰ります。もう充分だから」
「え、でも、あの二人これからどこに行くのか……」  

 静かに麻理子は席を立った。
 観葉植物がおいてあるので、貴明からは見えない角度だった。

「私には関係ないわ。誰にだって人には知られたくない過去があるし、全てさらけだせるわけじゃないわ。私は貴明を信じてるの。だからこそこそ後をつけるのはやっぱり嫌だわ。みどり、心配してくれるのはうれしいけど、もうやめましょう。気になるのなら貴女だけ残りなさい」  

 そう言う麻理子は侵しがたい気品に満ちて、みどりは反発する気が失せた。

 出口に向かって麻理子が歩くと、周りの人が視線を投げ掛けている。

 みどりはため息をついた。

(……やっぱり麻理子様って……お綺麗なのよね……)  


 貴明は人のざわめきに気づき、視線をそこに向け、麻理子が背を向けて歩いているのを見てびっくりした。

「ちょっと失礼」

 女性に言うと貴明は麻理子を追いかけた。みどりはヤバいと思って貴明を掴まえようとしたが、貴明の動きは速くて掴まえられなかった。

「麻理子!」

 いきなり背後から手を掴まえられて、麻理子はびっくりした。しかもそれが後をつけていた貴明だったため、蒼白になった。思わず声が震える。

「あ……あの。どうぞ、あのお綺麗な方と……お話になっていてください」  

 貴明は厳しい目になった。

「後を付けてきたの?」  

 麻理子はこくりとうなずいた。

「おしかりはお屋敷で受けます」  

 みどりが横から貴明に頭を下げてきた。

「みどりがそそのかした事だね? 君がこんなふうに行動するはず無いし」
「みどりが悪いのではないわ。私が気になっただけです! 叱らないで!」
「いいえ! 麻理子様が悪いんじゃないんです! 私が悪いんです」  

 厳しい目のまま貴明は麻理子を見つめていたが、やがて言った。

「今回は大目に見よう。こんなことは二度とするんじゃない。みどり、お前は屋敷へ帰れ。麻理子にはまだ話がある」  

 麻理子を心配そうに振り返りながら、みどりが歩いていってしまうと麻理子は安心した。

(良かった。みどりをなんとか叱責から守ってあげられたわ。問題は……)

きつくつかんだまま貴明が手を放してくれないので、麻理子は貴明が歩く方へ歩くしか無かった。一番行きたくない、あの美女が座っているテーブルに麻理子は連れて来られた。

「塩谷さん紹介するよ、僕の妻の麻理子です」
「……佐藤麻理子と申します。初めまして……」

 よくわからないまま麻理子は挨拶する。女性は微笑み、立ち上がった。

「塩谷初美と申します」

 貴明が強く手を引いて麻理子を座らせた。
 麻理子が逃げようとしているのが分かっているので、貴明はずっと手を離さなかった。

 初美は本当に美しい女性だった。大輪の紅い薔薇の様に派手やかで、ふくよかな、やわらかな身体付きをしている。女の麻理子でもほれぼれとして見とれてしまう。

「佐藤さんは、ついに天使のかたわれにお会いできたんですねって、お話ししていたところでしたのよ」  

 麻理子は意味が飲み込めずに首を傾げた。スピリチュアルな話だろうか。

「私では何故駄目だったのか、こうして直接お会いするとよくわかりますわ。佐藤さん、本当にお幸せですわね」

 本心から言っているらしく、初美の表情には何の違和感も無かった。

 貴明は優しくうなずいている。
 その時、貴明の携帯電話が鳴り、貴明は麻理子が逃げないかどうか心配しながら席をはずした。それを見送りつつ、初美は麻理子に温かい微笑みを向けてきた。

「麻理子さん。貴女もとてもお幸せでいらしてよ……。佐藤さんは本当に素敵な方。大昔の私との約束を守ってくださるのだもの」
「約束?」
「別れる時に、『貴方を愛してくれる女性が現れたなら必ず私に会わせて欲しいって』お約束させていただきましたの。……私は本当にあの方を愛しておりましたから」
「…………」
「でもまさか十年もかかるとは思っておりませんでしたわ。だって佐藤さんならどんな女性でも望みのままだったでしょうに。本当は復讐のつもりで申し上げたのですけど、私は数年で今の夫と結婚して、子供まで産まれて幸せになれましたの。十年と言うのは恨み続けるには長い歳月でしたわ……。最近では、独身を通されるのかと心配していたくらい」

 初美は紅い口紅をひいた口元を押さえて、微笑んだ。

「でもよかったわ。やっと私と佐藤さんの恋に決着を着ける事ができましたもの。どうか幸せになってくださいね。そして敵の多いあの方を護って差し上げてくださいね」

 麻理子は首を振った。

「護られているのは私の方ばかりです」
「いいえ、そんなことはないわ。今のあの方を見ていると、どれだけ貴女に護られているのかがよくわかるわ。あんなに穏やかで幸せそうなあの方を見るのは初めて」
「はあ……」

 席を外していた貴明が戻ってきて、また麻理子の手を握りしめた、もう逃げないんだけどな、第一恥ずかしいから止めて欲しいなと麻理子は思った。

 何か思い出した様に、初美は自分のブレスレットになっている腕時計を見て言った。

「ごめんなさい、もう時間だわ……」
「すまなかったね、忙しいのに。日本へは次いつ帰って来れるんだい?」
「早くても五年後よ。短い時間だけでもお会いできて良かったわ。こっちに来る時はいつでも連絡してください。主人も子供達も喜ぶわ」

 初美が立ち上がると、ほのかに香水の香りが漂ってきた。

「どうぞ、お幸せに……」
「…………」  

 麻理子は何も言えずに初美の後ろ姿を見送った。  

Posted by 斉藤 杏奈