雪のように舞う桜の中で 第16話

 優雅に扇を広げ、撫子の御方は面白そうに御簾の向こうを見やった。
 騒々しい足音と共に女房達が慌てさざめく声がする。やがて撫子の御方が言うとおりに、惇長が部屋に入ってきた。内裏から急いで帰ってきたらしい彼は、黒い束帯姿のままで、撫子の御方の隣にどっかと座り、乱暴に長い袖を払った。

「聞きましたぞ。この鄙びた娘を女房に加えたいとかおっしゃったそうですね!」
「一条は本当に手際が良い素晴らしい女房だこと。ええ、大将、今お願いしたところです。お返事はいただいておりませんけれど」
「この者は一条よりさまざまな手ほどきを受けてはおりますが、とても内裏でやっていけるようなものは持ってはおりません。何をお考えか!」

 笏を床に叩き付けんばかりに、惇長は怒っている。

「珠子様を狙う者が私を呪詛に陥れた連中でしょう? 共に行動したほうがあぶりだしやすいのではありませんか?」

 すると、そばに居る珠子ですら聞こえないほど、惇長は声を小さくした。

「企てに加担した者は、貴女の女房の中に十中八九居るのですよ」
「あら、居たとしてもそのほか大勢が暴いてくれますわ。たくさんの監視の目がある内裏で、この子に害をなそうと動いたらとても目立つのよ」
「貴女はまた……」

 再び声が元の大きさに戻った。

「本当のところ大将は、姫が他の殿方にとられてしまうのではないかと恐れておいでなのしょう。貴方より優しく男気のある殿方は、内裏にはたくさん居りますもの」
「何を馬鹿な!」

 妹の撫子の御方にたじたじとしている惇長の様子に、珠子は一条が言っていた、「荒くれ姫」の意味がやっと飲み込めた。撫子の御方の言葉には、相手の反論を許さない鋭さが時折見え隠れするのだ。
 東宮妃とは、未来の帝の正妻が約束されている立場ではないが、家柄も容姿も素質もケチのつけようがなくて後ろ盾が万全な撫子の御方の場合は、確約されているようなものだろう。歌などは中務が代わりにやっていたとしても、その一癖も二癖もありそうな女房達をまとめる力量が彼女にはあり、人を適材適所に置ける才能が備わっている。
 そこまで考えて、珠子は不思議に思った。
 では一条が言っていた、姫らしくとは一体何なのだろう。穏やかでなよやかで素直で愛らしいのがいいのだと珠子は解釈していたのだが、ひょっとしてそれは違っていたのだろうか。
(殿方の前でだけってことなのかしら?)
 ふいに、珠子は惇長の怒っている目とまともに視線がぶつかり、どぎまぎすると共に現実に戻った。どうも最近惇長は怒ってばかりなような気がする。珠子は怒っている惇長がとても怖くて苦手だ。しかし、撫子の御方はそれをものせずに艶やかに笑うのだ……。

「ほほほ。父君は先の帝の弟君であらせられる冬の宮様。特に怪しくなどございませんわ。宮家の方を得体の知れないなど、不敬ではありませんこと?」
「しかしですね」

 撫子の御方はぱしりと扇を閉じた。もう笑ってなどいない。

「いい加減になさりませ。ただ囲うだけでほったらかしにするような貴方に、翠野を扱える方を預けることなどできません。翠野はあの枯野の対の名琴。持ち主を選ぶという神が宿る琴です。それとも……珠子様は貴方の北の方(正妻)なのかしら?」
「それは……」
「違うでしょう? 珠子様には貴方などよりふさわしい殿方がおいでのはず。私は命の恩人を護りたいし、その方の幸せを祈りたいのです。大将は珠子様を押し込めているだけでしょう? 今のままでは、いずれお屋敷から珠子様を身一つで追い出しそうで、とても見てはいられません」

 痛いところをつかれた惇長が言い淀んだところを、撫子の御方がそう止めを刺したが、それでもなお惇長は食い下がった。

「しかし……支度が」
「母君にお頼みします。反抗は許しませんよ、姫を北の方にしたいのなら誠意を見せるべきではありませんか?」

 黙った惇長の代わりに、珠子は撫子の御方の好意に感じ入りながらも、恐る恐る言った。

「あの……。惇長様は別に私を押し込めてなど……。私の願いであちらに……移っただけなんです」
「珠子様のお願いで……、ですか」

 撫子の御方は、扇を口元に寄せながら、目だけで惇長を見た。惇長はそっぽを向いたままだ。

「お優しい方ね珠子様は。大丈夫です。世の中をもっと知れば、いかに自分がとんでもない境遇かおわかりになりますとも。用意が出来次第こちらで寝起きしてください。そして私のお話し相手になってほしいの。私は物語よりもこの現実の人間のお話の方がもっと好き。貴女の琴をもっと聞きたいですし、ね?」
「え、でも……」

 助けを求めて珠子は惇長を見た。しかし惇長は怒ったまま顔をそらしてしまっており、珠子からその表情は窺い知れない。

「それに貴女の兄君の美徳様からもよしなにとのお返事でしたの。今日木津から使いが戻ったばかり。だからこのようにお誘いしているのです」
「は……あ。でも兄は熊野に行っているはずですが」
「彼ら独特の伝達方法があるそうよ」

 本当だろうかと内心で怪しんでいると、目を奪うような螺鈿細工が施されている文箱から、撫子の御方が一通の文を取り出し、珠子の目の前でゆっくりと広げた。

「歌のお返事でしたの」

 確かに美徳の伸びやかで流麗な筆跡で、歌が書かれていた。

『君をのみ頼むたびなる心には ゆく末遠くおもほゆるかな     美徳』※

 貴女に珠子を任せますという意味だ。どうやら美徳は、一度も会った事ない撫子の御方の人柄を信じているらしい。偽物かもしれないと一瞬珠子は思ったが、撫子の御方にとって、珠子はいちいちそんな面倒な小細工をしてだます相手ではないだろう。

「兄君が賛成されているのですもの。構わないでしょう」

 それはいいのだが、でもそうすると惇長と昼も夜もという望みはどうなるのだろう。珠子は内裏という華やかな世界にはあまり興味は無い。中務たちを見ていて余計にその思いを強くしている。
 今は、ただ惇長の傍で幸せを祈りたい。
 なのにすがるように見た惇長は、我慢ができないと言わんばかりに立ち上がり、じろりと撫子の御方を睨みつける。

「勝手になされよ。私はもう知りません」

 そう投げやり気味に冷たく言い、そのまま部屋をどたどたと足音を立てて荒々しく出て行ってしまった。残された珠子は、胸の奥深くに空いた小さな風穴から冷風が吹き込んでくるのを感じた。どうしてこうなるのだ。

(気にすることはありません)

 久しぶりに聞く詔子の声に、珠子ははっとした。

(撫子の御方様は、惇長様を試しておいでなのです)

「そうかもしれませんが……」

 一人ごちた珠子を撫子の御方が不思議そうに見やったが、珠子は気にしなかった。
 ただ、自分は惇長を見ていたいだけなのに、それすらも許されないのだろうかと気分が沈むばかりだ。名残惜しくて、ゆっくりと惇長が出て行った方を見ると、艶やかな黒髪がはらはらと肩から袖に流れた。
 惇長への想いで揺れている珠子は、物憂げで壊れてしまいそうな美しさで、撫子の御方は、このような姫君にはもっと幸せにならねばと改めて思うのだった。
 美徳の歌は、撫子の御方に送ると見せかけて、本当は惇長に宛てたものだ。彼は、撫子の御方が惇長に披露するのを見越して、あの歌を詠んだに違いない。
(大将はお気づきでない様子だけど)
 養女の伝を探さなければ、と、撫子の御方は落ち込んでいる珠子を尻目に、有力そうな貴族達を探す手はずを考え始めた。

 惇長はいらいらしながら部屋に戻り、乱暴に束帯を脱ぎ捨てた。
 そのまま大袿を羽織って人心地がつくと、ため息をつきながら珠子の翠野を膝に乗せた。
 七弦琴は多少は奏せる。本来は笛の方が得意なのに、今はこの琴が弾きたくてたまらなかった。

「……何を怒っているのだ私は」

 弦を押さえ指で弾く。珠子が弾くような音色は出ない。あの悩ましくも魅惑に満ちた不思議な音は、どうやったら出せるのだろう。

「翠野。お前は人の心が読めるか?」

 当然ながら翠野は答えない。
 琴にまで拒否されているのかと思いながら、惇長は爪弾く。その音はすべて自分に返ってくる山彦のようだった。
 先程の珠子の様子が脳裏にちらついて離れてない。
 兄の許しがあるからと聞いた途端に、ほっとしたような顔を見せた珠子。自分の前ではいつも緊張してこちらを伺うばかりのくせに、それなら最後まで惇長の意見を優先すべきではないのか。東宮妃と兄、二人が許せば内裏に行くのか。
 そんなにここから離れたいのか!
 一緒に居たいといったのは嘘なのか!
 珠子は局が狭くなったとガッカリしているが、惇長にしてみれば彼女に言い寄る男達を追い払いやすい場所に替えただけなのだ。惇長と一緒の局なので警護の侍を見回らせ易くなったし、信頼の置ける女房の局を近くに置く事もできた。
 それなのにこの結果なのだ。己が招いた事とはいえ……。

「……女の考えはさっぱりわからないな」
「惇長様がいけないのです!」

 いつの間にか一条が部屋に居て、脱ぎ散らかした束帯などを丁寧に畳んでいた。気を使っていたようだが、我慢ができなくなったらしい。これはうるさくなるなと警戒した惇長に、案の定一条はやいやい言い始めた。

「本当にかまわないのですか、珠子様を手放されて」
「撫子の御方の仰せだから仕方あるまい。それにたしかに内裏の方がこっちよりは安全だろう」
「何をのんきな! 貴方様は、ついに珠子様に愛想をつかされてしまわれたんですわ。何故あの時に謝罪されなかったのです。このまま内裏にあがられ、もし敵方に誘拐でもされたら……」
「内裏ではおいそれできぬよ。あの厳重な警備の中でばれたら、それこそ相手の身の破滅」
「まあまあなんと言う冷たさ、詔子様はさぞお嘆きですわ!」

 うるさい一条に惇長は何もかも面倒くさくなり、琴を押しやって寝転び、寝たふりをする。そのうちに中務がやって来て一条を連れ出して行き、惇長はほっとした。

 御簾の向こうで、雪がしんしんと降り積もっていく。

「愛せるのか、あの姫を……」

 もう心が張り裂けるような想いはもうごめんだ。いっそ本当に正妻をどこかから迎えたらいいかもしれない。そうしたら、今のこの苛立ちと落ち着かない気持ちも晴れ晴れするだろう。
 しかし、そう考えた時点で、もやもやとした不可解な気持ちがせり上がり、余計に惇長の心を苦しめた。
 昨日あった温かな存在は、もう無い。
 惇長は、すべてをまぎらわせるために文机に向かった。

Posted by 斉藤 杏奈