あとひとつのキーワード 第02話
私は俗に言う、天涯孤独の身の上だ。
父と母は想いあう仲だったらしいけれど、とある大企業の跡取りだった父と、普通の家柄の母とは結婚を認めてもらえなくて、駆け落ちして結婚したという。
父と母が二年ほど無事に生活できていたのは、父には弟がいて、いわゆる私の叔父に当たる人が跡を継げばと父方の両親が望みをかけていたからだそうだ。しかし、なんとその叔父までもが駆け落ちして、こちらは海外に逃げてしまった。国内ならともかく国外では探しようがなく、仕方なく、父方の両親は諦めていた父を探し出して、母と離婚させ、叔父に当てられていた許婚の女性と結婚させた。
どういう話し合いが行われ、父が母と離婚したのかは知らない。
父と別れた母は、お荷物の私を抱えて大変だったと思う。それなのに、記憶の中にある母はとても明るくて優しい、理想そのものの母親だった。
病気で数年前亡くなった時は、自分も死のうかと思ったぐらい、母が好きだった。
父とは一度も会っていなかったけれど、そんなことを考える暇もないくらい母の愛情に包まれていた。
私は確かに幸せだった。
それは、母のお葬式やさまざまな手続きがやっとひと段落ついた、ある夕方のことだった。
このアパートで一人分のご飯を作っていると、呼び鈴の音がした。いつもよくしてくれているご近所の大家のおばさんだろうと思って出ると、見知らぬ中年の男女と若い女が立っていた。
男はともかく、女二人の蔑むような目がひどく不愉快だった。
「お部屋を間違えておいででは?」
私が言うと、中年の男がが小さく首を横に振った。
「いや、間違えてはいない。私は上塚昇一。すみれ、お前の父親だ」
「……は?」
「麗子が亡くなったと聞いた。だから……迎えに来たんだ」
父の写真は一枚も持っていなかった。だから新手の詐欺行為かと思った。
「はあ?」
にらむ私に、女が馬鹿にしたように笑った。
「不細工な娘ね。おまけに飲み込みが悪そうだこと。せっかく迎えに来てやったのに、こんな口を聞くなんて」
「本当。嫌だわママ、こんな子、姉だなんて認めたくないわ」
きれいだけれど性格は悪そうな女二人に、私の眉間に深いしわがよったとしても誰も責められないと思う。こっちは最愛の母を亡くしたばかりで、その死から立ち直っていないのだ。それなのにずっと音信普通にしていた父親と、母から父を奪った女がこんな風に言って来たら、誰だってこうなるはずだ。
「ご足労いただいて申し訳ありませんが、私はもうとうに成人していますし、貴方が父親だったとしても何も支援を必要としておりません。つまり貴方に私の扶養義務もありません。お帰りください」
父ははっとしたように、違う、そうじゃないと言った。
「麗子が亡くなる前に私に電話してきたんだ。自分が死んだら、お前の面倒を見てやってくれと。だから」
母は、癌で半年闘病生活を送っていた。そういうことを言ったとしても不思議はない。
だけどきっと母は父に逢いたくて電話をしたに違いないのだ。それなのに、なぜすぐに来てくれなかったのだろうか!
お腹の中で怒りが煮えくり返った。
「つまり母が何も言わなかったら、そのまま知らん振りだったってことでしょう!? 二十数年もほったらかしにしておいて、今頃来てなんなんですか!」
かっとして思わず怒鳴ってしまい、左右の部屋のドアから人の顔が覗いた。
父は隣人を気にしつつ、小さくぼそぼそと言った。
「とにかくここでは話せないから、今すぐこちらの家まで来て欲しい」
「必要を感じません。お引取りを」
私がそう言ってドアを閉めようとすると、三人の背後から突然若い男が現れて、ドアを大きく開いた。
「そうはいかないんですよ」
「誰よ貴方」
男は慇懃無礼な感じで頭を下げて、ビジネスライクな笑みを浮かべた。
「……はじめまして倉橋すみれさん、私は榊原靖則と申します」
「…………」
使用人ではなさそうで、かといって一般のサラリーマンといった風でもない。ただ、女と娘よりも綺麗な顔立ちをした男で、目にした瞬間何かを思い出しそうになった。
「やはりそうだ、間違いない」
言うなり靖則と名乗った男は、私に人差し指を突き出し、いきなり額に押し当てた。
何をするんだと言おうとした瞬間、なだれ込んできたのは前世の記憶。
私はジョセフィーヌという、魔女だった女性。父と女二人は前世で私が不幸にした家族。償いのために母と私は生まれ変わってきた。母は私の姉だったのだと。
脳裏にジョセフィーヌが、前世で行った数々の悪行が送り込まれてきた。人の夫や恋人を平気で寝取ったり、味方に見せかけて寸前で裏切って、その人たちを処刑台に送り込んだり、内通して情報を横流しにしたり……。私は女の娘の婚約者を奪い取り、当主だった父を賄賂の罪に引き落として、家を断絶させたらしい。
あまりの記憶? に呆然としていたら、靖則はにっこり笑った。
「麗子さんは今世でちゃんと罪を償った。貴女もそうしないといけませんよね?」
麗子とは母の名だ。
ばかばかしい、と普段の私なら言っただろう。
でもこんな白昼夢、そうそう見るわけが無い。私は精神科に通うほど疲労はしていなかったし、既往歴もない。
「あのな、すみれ……」
ちらりと見る父の顔色は、ひどくすぐれない。この人は私を案じているようだ。だけど何を?
前世の罪など知らない。
私は何もしていない。
……だけど。この男に逆らうととてもまずい気がした。
この男は私にとって一体なんだったのだろう。
「……明日から会社に復帰するので、それの妨げにならないのでしたら」
「今日中には返します。さ、来てください」
『おいで、ジョセフィーヌ』
誰かの優しい声が重なった。
くすくすと一人で笑っていると、あの時と同じように呼び鈴が鳴った。
開けたくは無いけれど仕方が無い。
重い腰を上げて、しぶしぶ鍵を開けてキーチェーンを外した。
「早くに帰っていたんですね。やはり会社には居づらいですか?」
押し入るように入ってきたのは、あの時の若い男、榊原靖則だ。
「関係ないわ……」
さっさとチェーンをかけて、狭い部屋に戻ろうとした途端、壁に乱暴に背中を押し付けられた。
「──────……っ!」
そして押し付けられてくる、靖則の唇。嫌でたまらないけれど、受け入れるしかない。絡まる舌に逆らわずに応えて、息が止まりそうになりながらも、拒絶はしない。ブラウスの上から弄ってくる手が嫌でも逆らわない。
「誰も……触らせてはいないでしょうね?」
掠れた声が男の劣情を帯びていて、それが怖かった。
「それが、償いなんでしょう?」
私が荒い息をつきながら言うと、また唇が重なってきた。
嫌だ。
嫌だ。
本当は嫌だ。
真嗣さんじゃない男と、キスなんてしたくない。これ以上も嫌。
だけど仕方がない……。
靖則は嘲るように含み笑いをして、私の腰を抱き、すぐそこにある畳の部屋に私を押し倒した。
「そうですね。貴女は妹から婚約者を奪おうとした。悪い女ですから、彼女の言葉には逆らえませんよね? 真嗣がその気にならなかったからよかったものの、もしその気になったりしたら、貴女は今世でも罪を負うことになるところだった」
「…………」
唇を噛んだら、血が出ると言って靖則は自分の指を差し込み、それだけじゃなく舌を絡ませるような動きをした。
「沙彩が言ったのは、貴女が苦手に思っている私と同棲して、恋人同士のように過ごすこと。貴女には屈辱でしょうね? 毎夜毎夜嫌いな男に組み敷かれ、かといってほかの男に逃げることもできない。人の恋人を寝取ろうとして失敗した女、という評判は貴女の会社中に流れている……」
弄りながらスカートの中に入ってきた手は、不意に左足の関節を軽く叩いた。
いまだに残る痛みに私は呻き、涙を滲ませる。
「馬鹿ですよね。二度と走れない足にしてしまうなんて、たかが妹の恋人を寝取ろうとするだけで……」
「やめ……痛い」
「懲りたら、二度とほかの男に目を向けないことですよ。ねえ? ジョゼ?」
そういって耳を齧られて、痛くて。
……私は、それでも靖則に逆らわない。
私はまだ死にたくない。
靖則の愛撫が強くなってきて、それがいつもよりなんだかひどかった。何か気に入らないことがあったんだろうか。
少し湿り気を帯びただけのそこに、靖則が割り入ってきて、快感より痛みが強かった。
「私以外の男に、言い寄られていたそうですね? なんでそうなるんでしょうね?」
唇を震わせていると、靖則の指がゆっくりと触れてきた。
そんなの、沙彩がビッチだと噂を流したからよ。
私は靖則に抱かれるまで、誰も知らなかったのに。これからも知ることはないのに……。
それよりどうして、違う会社の靖則が知っているのだろう。
突き上げの擦れに甘さが出てきて、沸きあがる快感を懸命に逃した。
「可哀相なすみれ。こんな私に抱かれてよがるなんて」
靖則はそう言いながら、私の中に出した。