ディフィールの銀の鏡 第64話

 テーレマコスは、魔界のルシカの家でもんもんとして暮らしていた。ディフィールやケニオンの状況が知りたいのに、まったく聞こえて来ないのが生真面目なテーレマコスの不安を煽る。魔界でもこの辺りは平和そのもので一見人間界とまったく変わらない。それだけに余計に焦燥だけが募っていく。

「テーレマコス!」

 ふわりとルシカが屋根から飛び降りてきた。この石造りの家の隣にりんごに似た果実が沢山実っていて、屋根伝いに収穫していたのだ。籠にはてんこ盛りに果実が盛られている。

「見つかるとさすがにやばいんだから家に入ってよ。いくら神と魔族の合いの子のエリアだと言っても、何があるかわからないんだからね!」

「半月もこんな狭い家に押し込められていたら気が滅入る……」

 ルシカに文句を言われテーレマコスも文句で返したが、彼女の言い分の方が通っているのでテーレマコスは仕方なく家に入った。もっともぼーっと過ごしているのはテーレマコスだけで、ニケはほとんどここには戻らないし、ルシカも出ずっぱり気味だ。何をしているかと問えば秘密だという。

「お前達、何かよからぬ企みをしているのではあるまいな?」

 テーレマコスの問いに、ルシカが大笑いしながら籠をテーブルに置いた。

「してるわよ。どうしたらあんたを旦那にできるかとか、魔族に仕立て上げられるとかー」

「なんだと! そんなものなってたまるか、ここから出せ!」

「馬鹿ねえそんなの企んでるわけないじゃない。魔王や魔女についてそれとなく情報収集しているだけ。魔女のヘレネーのほうは調べが付いてるの。母親は蛇が進化したような竜で父親はケニオンのリクルグス将軍って男。でも魔王が謎過ぎて父親がわからないのよねえ」

 テーレマコスはぽんと果実を投げ渡され、両手で受け取った。ルシカも同じ果実を手にし、椅子に座っているテーレマコスの反対側にある寝台にごろりと寝転ぶ。淫魔独特の裸体に近い衣装は嫌に扇情的で、テーレマコスは目のやり場に困って自分の果実に目を落とした。

「異母兄妹という事か?」

「それは間違いないわ。とにかく相手は強力な魔族よ、あの魔王の魔力の強さを考えるとね」

「ふうむ」

 その時、首に下げていた袋の中のジュリアスの石が異様に熱くなった。

「!」

「どうしたの?」

 険しい顔になったテーレマコスにルシカが気付いた。同時に窓から入っていた陽射しが消えて雷鳴がとどろく。みるみるうちに夜のような真っ暗闇に包まれた。

「伏せろ!」

 テーレマコスはこの家に向かって放射された魔力を感じて叫んだ。この魔力には覚えがある、以前自分の家を破壊したものと同質だ……。ルシカは何も感じないのかぼんやりとしている。

「え、どうして?」

「馬鹿、感じないのかお前はっ!!」

 そう言えば淫魔は戦闘能力はゼロだったと思い出し、テーレマコスはルシカの腕を引き寄せて床に転がり、すばやく空中に魔方陣を描いて防御壁を出現させた。その直後に火山が噴火したような衝撃が落ちてきて、あの時と同じように石造りの家が木っ端微塵に砕け散った。女ならではの感情に任せたやり方だと思いながら、テーレマコスは震えるルシカを強く抱いてやった。家が無くなって大雨の雨粒が二人や家の残骸を容赦なく叩きつける中、ぼう……と赤い光が空中に出現し、長い黒髪をなびかせる魔女ヘレネーが姿を現した。

「見つけたぞ。なんとまあ淫魔と暮らしていたのかえ?」

 どさりと大きな荷物が二人の前に落とされた。頭陀袋のような真っ黒なそれは黒馬のニケだった。人間の姿ではなく馬であるところに、彼が攻撃を受けて弱っているのが一目瞭然だ。身体中の至る場所に裂傷や火傷があり息も絶え絶えの状態で、ぴくりともニケは動かない。

「我らをなめるゆえこのような目に遭う。神と魔族の合いの子である落ちぶれ者が我らに敵うと思うてか。見せしめの為にこの辺り一体を大掃除させてもらう。お前達もああなりたいかえ?」

 ヘレネーの長い爪が伸びた先には、信じられないほど増水した川の水が溢れ、濁流が海のように魔族達の家々を飲み込み、そこから逃げようとする魔族達を泥水の触手が掴んで水中へ引きずりこんでいる。ヘレネーが作り出したのだろう、ただの濁流ではなくそれは赤黒く光っていた。テーレマコスの腕の中にいるルシカが身じろぎをした。

「……おかしいわ。タダの人間と魔族の子供がこんな力を持てるなんて。私達は神と魔族の……」

「そなたらの調べはすべて我々の操作が入っているのじゃ。真実などそなたらごときが掴めるはずもないわ。神が親でも低い位の神の血等恐れるに足らぬ」

 悪意に輝く瞳を二人に向け、ヘレネーが指先から赤い衝撃波を放った。テーレマコスはそれを避けようとしたが、魔力を伴った濁流の触手が彼の腕を掴んだため避けきれず、ルシカを庇って背中にその衝撃を受けた。

「ぐ……っ!!」

 ぶすぶすと音がして、焦げた臭いと血の臭いが辺り一面に広がった。

「テーレマコス!」

「さわ、ぐな……」

 焼け付く痛みで脂汗を雨と一緒に流しながら、泣きそうになっているルシカにテーレマコスは微笑んだ。しかしその微笑みも彼の背後に立ったヘレネーが、後ろに束ねられている髪を掴み泥でぐしゃぐしゃになっている地面へ引き倒した事によって消えた。

「きゃあ!」

「お前は邪魔じゃ」

 ヘレネーがルシカとニケの身体を魔力で浮き上がらせ、荒れ狂う濁流へ立て続けに放り込んだ。止めようとしたテーレマコスの手はわずかに届かず、彼の目の前でルシカの姿が濁流に消えていく。テーレマコスが動けないのは、ヘレネーが放った衝撃波が背中から入り込み、彼の身体を支配したからだ。

「さあ、ジュリアスの石を渡すのじゃ」

「だれが……!?」

 ヘレネーの命令など聞きたくもないのに、ヘレネーに支配されているテーレマコスの身体は彼女の命令どおりに動いた。ジュリアスの石が入った袋を、勝手に右手が首から下げられている紐から引きちぎり、差し出したくもないのにヘレネーの手に渡そうとする。石はさっきと同じ様に熱かった。テーレマコスは必死に抗ったが、ヘレネーの赤い瞳の呪縛の前では無力だった。事実、ヘレネーの魔力とテーレマコスの魔力では天地ほどの開きがある。

「く……誰が」

「精神力は大したものじゃが、魔力は大したものではないのう。ほっほほ……。ほう……これかえ、ジュリアスの石は。なるほど、あの男と同じように深い青色をしている」

 赤い光を身体全体から放射しながら、ヘレネーは袋から石を取り出してためつすがめつ見た後、右手に握った。テーレマコスが雨と泥で汚れても、彼女は雨に濡れず美しい姿のままだ。

「くそ……返せ!」

「その減らず口もそこまでじゃ。そうじゃ……あの世に行く前にここでお前に面白いものを見せてやろう」

「……返せ。ぐああああっ!」

 テーレマコスの身体中に雷のような痛みが走り、背中の重症の傷も合わせて引き裂かれた。地面に転がって喚くテーレマコスを、ヘレネーは残忍な微笑を浮かべて眺めている。やがて、びくびくとかすかに動くのみになった身体がヘレネーの魔力によって空中に浮かんだ。そして、砕け散った石の残骸の上に疾風の勢いで叩きつけられ、水や石塊と同時にテーレマコスの血も飛び散った。

「…………」

痛みで意識が朦朧としているテーレマコスの身体は再び引き上げられ、今度はヘレネーの前に浮かんだ。

「主人を護れなくて悔しいかえ? 案ずるな、一緒にそなたらはあの世へ行けようぞ」

 テーレマコスは目を開けるのも困難極まる状態だった。しかし、ジュリアスの石だけは絶対にこの魔女に渡せない、その気力が彼を支えていた。そんな彼をヘレネーはあざ笑う。

「ほうれ、見よ!」

「!」

 右手に集中したヘレネーの魔力が、テーレマコスの目の前でジュリアスの石を握りつぶした。テーレマコスの目がこれ以上はないという位に開かれ、心が叫ぶ。

(そんな、わが君───っ!!!!)

ジュリアスの石は砂のようにさらさらと青色の光彩を放ちながら、荒れ狂う濁流に消えた。

「我らの勝利じゃ。あはははははははははっ!」

 高笑いをするヘレネーに、テーレマコスはルシカと同じ様に濁流へ放り込まれた。雨はますますひどくなり、濁流はあらゆるものを飲み込んでいく……。

 真っ暗な地下牢で失神から目覚めたソロンは、何かがぱんとはじけ飛ぶのを感じた。

「…………?」

 何かが違うと起き上がったソロンの耳に、そのままでいろと上のほうから男の声が響いた。それは預言者の男のものだった。

「光の神ソロンよ。魔女の呪縛から開放されたのはしばらく隠して置かれるほうがよい」

「……誰だ、お前は?」

「私の名前はメテウスと申します」

「メテウス……」

 喚いていないソロンの声は珍しく、二人の会話に囚人達が聞き耳を立てた為に牢内が静まり返った。ソロンは万梨亜を想ってもあの恐ろしい呪いの声が聞こえない事に安心しながら、メテウスの声が聞こえる方角を見上げた。しかしかすかに蝋燭のともし火が見えるのみだ。

「ここに入れられる囚人に罪を犯した者は居りませぬ。皆権力者によって濡れ衣を着せられ地位を奪われたのです。それゆえ永久に出られない運命でした」

「そなたもか?」

「さようです。ですが、貴方がいらしてここより解放される希望が見えました」

 おお、と囚人達の声が喜びにどよめいた。反してメテウスの声は淡々と響く。

「その希望の光を消したくないのです。なに、我々の都合ばかりではありません。貴方も出生してからずっと苛まれていた苦しみから解放される」

「……苦しみ」

「さようです」

「そなたは私の生き様が見えるのか? ただの人間であるのに」

 ソロンは子供のようにメテウスの声に縋った。メテウスの声はまるで真っ暗な谷底に佇んでいるソロンの足元に指した、一条の太陽の光のように思えた。

「神々ですら力が及ばぬものを秘めているのが人間です。また、神々も万能ではありませぬ、生み出してくれた宇宙には彼らとて敵わない。それ故宇宙の力を手に入れれば人間でも神に勝てる……。光の神ソロンよ、それを理解されておられぬ貴方だったから、魔女の呪縛に囚われたのです」

 以前のソロンなら怒ったであろう人間の言葉だが、今のソロンは不思議と何の怒りも沸いてこなかった。メテウスの声の波動はまっすぐにソロンの心の奥深くに侵入し、彼の内部を巣食っているものをわずかに破壊した。考え込んでいるソロンにそれ以上を話すことはせず、メテウスは上に居る囚人達に言った。

「この事は他言ならぬぞ。牢番達に告げればここを出る機会は永久に訪れぬ」

 その声に反論が起こるはずもなく、メテウスは微笑した。

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