見つめないで 第03話

 翌日、ホテルから電車に乗ってそのまま旅館へ出勤し、退職するむねをお願いすると、当然のごとくチーフに文句を言われた。そこで、姉が結婚して寂しいと実家に泣きつかれましてと、苦しい言い訳をしたら、五十代のおばさんチーフは何故か納得し、若いんだから変な男に引っかからないようにね、親御さんに心配かけるんじゃないと忠告をもらった。

 もうそれ、とっくに手遅れなんですけど……。


 寮へ戻ったら、時間通り、午後三時に引越しセンターがやってきた。本気なのはわかっていたけど、いざ翌日にされるとたまらない気持ちになった。

 私はあの男の駒じゃない!

 でも、勝手に引越しの時間を決めるなと、言える立場ではない。

 ため息を押し隠しながら、引越しセンターの人たちと一緒に荷造りをした。単身なうえ、物を極端に持っていないのでほんの数十分で片付き、一緒に車に乗り込んだ。友達らしい友達もまだできずにいた職場だったけれど、好きになれそうな旅館だっただけに、バックミラー越しに遠くなっていくのを見るのは少し物悲しかった。仕事中だったので同僚達の見送りもない。

 ぼんやりと車窓を追っていると、スマートフォンが受信した。見ると、忍さんからのメールでいまどこにいるかという確認だった。スマートフォンを投げ捨ててやりたい衝動に駆られながらも、現在地をメールで送信した。

 本当に嫌味な男だ。GPSがついてるんだから、わざわざ私に聞かなくてもわかるだろうに。ばかばかしい。

 ホワイトシルバーのそれは、自分以外には使うなという俺様発言と共に、今朝の別れ際に無理やり忍さんに押し付けられたもので、既に持っている私には迷惑以外の何者でもない。

 それにしても小さい。私のスマートフォンの半分を少し超えた大きさしかない。まじまじと見ていると、真ん中の席の引越しセンターの男性が珍しいと言って、覗き込んできた。

「登山でもするんですか?」

「しませんよ」

「連れが登山好きで、邪魔にならない大きさだからって、似たような大きさのをよく使ってますよ」

「へええ……」

 あいつが登山なんてするとは思えない。なんなのこれ。ああもう、周一郎さんのことがなかったら、あんな嫌味男無視してやるのに!

 引越し先の都内にあるマンションに入ったのは、渋滞で遅れたせいもあり、午後五時を回った頃だった。

 ああ、酷く場違いだ。

 コンシェルジュが二人もいて、プールなどのスポーツ施設、喫茶店、談話室などがついている、いわゆる高級マンションだ。出入り口も床も天井もエレベーターも、ホテル並みに高級感が溢れている。

 前もって聞かされていたナンバーで扉を開け、荷物を持った引越しセンターの二人とエレベーターに乗った。三階で降り、僅か二部屋しかないうちの、ひとつの部屋の鍵を開けると、忍さんが待ち構えていた。

「思ったより早かったな」

「誰かさんの手際よかったので」

「ふん」

 忍さんは引っ越しセンターの人に部屋を案内し、私の荷物を運ぶのを手伝った。

 妙な男だ。手伝いをするとは思わなかった。

 聞いていたとおり、部屋は三LDKでリビングの隣が私の部屋だった。かなり広い。十五平米はあるだろう。見晴らしはとてもよく、マンションの前の公園の木々が目に優しい。

 搬入は搬出と同じですぐに終わり、引越しセンターの二人は帽子を取って挨拶し、帰って行った。

 二人きりになったらきまずい感じになるかと思えば、そうでもない。昨夜抱かれて、どういう類の男かはおおよそ検討がついているし、好きでもないのだから気を使う必要もない。脅しの材料の約束は果たしたのだから、秘密を漏らされたりもしないだろう。

 強引で脅してくるような男だけど、恐らく約束を破るようなタイプではない。

 それほど私を抱く手は丁寧そのものだったし、口に反して、酷く気遣いが際立っていた。抱かれた時間も二時間にも満たず、ゆっくり眠れたぐらいだ。

 ほとんど初対面の、それこそ脅してくるような男と眠れるあたり、私も大概だと自己嫌悪に陥らないでもないけれど……。

 性行為って人の性格を赤裸々に暴く。どれだけテクニックがあろうが、うまく言い繕うが、絶対にそれって愛撫に出る。確実に。

 大学時代の苦い経験のせいで身についた感覚なのが、少しやるせない。

「ずいぶん広いですけど、ここにずっと一人なんですか?」

「ああ。ここは変な人間は、確実に追い返してくれるからな。芸能人も住んでる」

「そうですか」

 冷蔵庫を見ると、食材が普通におさまっていて驚いた。

「料理するんですか?」

「基本嫌いじゃない。母親にしこまれた。お前もできるんだろうな?」

「普通には。高度なものはできませんが」

「だろうな。あんなものはレストランに行けばいいだけだ」

 金持ち発言だ。私なんかはそもそもそういう場所に興味がない。基本、家庭料理が好きだし、その辺にある食材が美味しく変わってくれる過程が好きだ。

 ご飯を作れと言うのかと思いきや、作り置きしてあったものを、忍さんはつぎつぎとテーブルの上へ並べた。

 トマトの冷やしパスタ。お魚のフリッター。具沢山の野菜スープ。パンナコッタまである。

「これ、貴方が作ったの?」

「ああ。早く食おう」

「…………」

 手を洗い、洗面台で私は首を傾げた。これもいじめのひとつなのだろうか? ひょっとしてあの中のどれかに、からしがめちゃくちゃ入ってるとか?

 それはどれも外れていて、少し蒸し暑い今日の気候に、冷たいパスタもからりと揚げられたフリッターも美味しかった。私より料理が上手なのかもしれない。

「支配人って暇なの?」

「三日ほど休みを作った。明後日は行く。お前もな」

 忍さんは真顔で言い、パンナコッタをひとすくいして、食べた。

「私も明日休むんですか?」

「行きたい場所がある」

 私もスプーンでパンナコッタを口に運んだ。パンナコッタは舌の上でとろけ、甘さがしつこくなくて、私好みだ。

「行きたい場所って、まさか、千夏の新居じゃないでしょうね」

「阿呆かお前。あいつらは一週間の新婚旅行で居ないだろ。そんなところ行ってどうするんだ」

 そうだった。

 二人は海外を嫌がって、日本各地をまわると言っていた。タフだなあと思う。

「行くのは、都内でオープンしたばかりのホテル」

「ホテル?」

「そ、ま、敵情視察みたいなもん」

 支配人なら、人に任せときゃいいのに。なんだってこの男と行かなきゃいけないんだ。

「嫌がってるな」

 忍さんはテーブルの上で頬杖をつき、にやりと笑った。

「そうでなきゃ面白くない。もっと嫌がれ」

 ばかばかしくなり、食器を持ってシンクで洗い始めた。すると忍さんも自分の分を持ってきた。

「その皿、値段が高かったから取り扱い注意」

「いくらなんです?」

「十万……だったかな」

 とんでもない価格に驚いて、思わず取り落としそうになった。そんな高価な食器で家庭料理を食べるなんておかしくない?

「まさか、他のもそうなんですか?」

「仕方ないだろ。おふくろが持たせたやつばかりなんだから」

「……貴方、マザコン?」

「母親への思いが強いのだとしたら、マザコンだろうな。まあ電話なんて一ヶ月に一回もしないし、それもあっちからかけてくるやつばかり、手紙もメールもしない」

 なんだつまらない。マザコンだったらそこから反撃しようと思ってたのに。

「日陰の女としてかっこよく生きてるからな。あそこまで親父に尽くして、俺を育てたんだから、尊敬する」

 素直にこんなせりふを言うなんて、意外すぎるなこの男。

「親父もなんだかんだ言って目をかけてくれてるし。ま、愛人の子でも幸せなほうだろう。正妻が嫌がらせしたくなるのもわからんでもない」

 忍さんは手酌で白ワインをグラスについで、美味しそうに飲んだ。

 私は食器をすべて洗い、手を拭いた。すると忍さんがグラスを手渡してきて、ワインを注がれた。

 まだ昼間なのに。休みだから飲んでいるのだろうか。

「貴方、昼から飲酒なんて、いつもしてるの?」

「してねえよ。普段は飲まない」

 本当かどうかはわからないけど、忍さんはまた一杯空けた。

「明日行くホテルはな、正妻が周一郎にせがんで、建てたやつ」

「は? なんですかそれ?」

「お前、天馬ホテルズっての知らないの?」

「えっと、国内はおろか、アメリカとかヨーロッパにも展開している……」

「そ、正妻は代議士の一人娘であるのと同時に、天馬ホテルズの会長の一人娘でもある。代議士が父で、母が天馬ホテルズの会長さ。現社長はうちの親父、専務の一人が周一郎ってわけ。そして俺が今、後釜を狙ってる」

「支配人でしたよね貴方?」

「たったひとつのホテルのな。本当は本社で専務になれたんだが、正妻がごねてな」

 何から何まで正妻が首を突っ込むわけだ。愛人の子供がのさぼってきたら、たまらないのはわかるけれど、会社にあれこれ言うのはどうかと思う。

「どれだけ業績上げても握りつぶされてね。正直困ってるところ」

「ふーん。私からしたらいい気味ですけど?」

 忍さんは苦笑して、グラスを置いた。

「お前やっぱりいいわ。うじうじだけじゃなくて、妙に反抗心があってプライドが高いところがいじめがいがある」

 こんな男に気に入られたって仕方ない。馬鹿馬鹿しい。

 ワインを飲み干してグラスをシンクで洗おうとしたら、忍さんの手に止められ、またワインを注がれた。

「……ビールなら飲みますけど」

「今日はこれで我慢しろ。意味あっての事なんだ」

 昼からの飲酒にどんな意味があるのやら。

 内心あきれていると、私のスマートフォンにメール着信があった。おそらく千夏だろう。そのままにしておいたら、今度は電話がかかってきた。

「出たら?」

 忍さんに言われ、対面キッチンの向こう側にあるリビングに置いてあった私の鞄の中から、スマートフォンを取り出した。やっぱり千夏の名前がディスプレイに表示されている。

「何よ」

『やっと出た! んもーすぐに出てよね。聞きたいことがあるんだけど』

 ひどく千夏の声はわくわくしていた。何を興奮してるんだろ。新婚旅行ってこんなにわくわくするんだろうか。

「聞きたいこと?」

『春香、忍さんと同棲することになったって聞いたけど、前から知り合いだったの?』

 昨日の今日で、千夏が知っている理由は明らかだ。ちらりとキッチンを見ると、忍さんと目が合った。ずいぶん楽しそうな様子から見ると、私の反応を楽しんでいるらしい。

『周一郎もびっくりしてるよ。だから昨日慌てて帰ったのかなって言ってる』

 最悪だ。

 こんなに早くばらされるなんて。周一郎さんはどう思っただろう。

 いずれ知られるとはいえ、正直面倒くさかった。

『忍さんって男の割にはとても綺麗な人よね。春香って面食いだったのかって驚きよ。私もいいなって思ったもん』

「ちょっと! 周一郎さんに聞かれたら……」

『今はいないわよ。庭を見に行くってさっき出て行ったのよ。私は興味なかったし』

 それを聞いてほっとした。

『ねえねえ。どういういきさつなの? いきなり意気投合なの? それとも本当は前から付き合ってたとか?』

 酷く疲れる。そんなのキッチンの根性悪男に聞いてよ。

 また家へ行った時に話すとなんとか言いくるめ、そうそうに電話を切った。ぐったりとソファにもたれていたら、忍さんが新しいワインのボトルを持ってきて、私のグラスに注いだ。

「ずいぶんとミーハーな人なんだな。才女らしいのに」

「会社では違うのよ」

「暗いお前とは大違いだ」

「お互い様よ」

 今夜は早く寝ようと思いながら、私は注がれたワインを飲み干した。

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