天使のキス ~Deux anges~ 第05話
頭が少し痛む。
麻理子は、ウォッカなどというアルコール度が高いものを、飲んだのは昨夜が初めてだった。
今日は休みだ。この痛みは少なくとも午前中は続きそうだ。休みで、本当に良かったと思いながら、麻理子は布団の柔らかさを堪能した。ふかふかして気持ちがいい。
しかし、こんなに布団はさらさらしていただろうか……。
「今、何時かな……」
目覚まし時計を見る為に、いつものように左手を伸ばす。すると、なにやら温かい物に包まれた。「何だろこれ……」
麻理子は目を開けて、視線をそちらへ走らせた………。
「おはよ。よく寝てたね」
「……………」
真横で貴明が左手を握り、天使の様に微笑んでいた。
温かいのは、貴明の手だった。
「きゃあああああっ! いや────っ!」
麻理子は一瞬で眠気が吹っ飛び、貴明を枕でめちゃくちゃ叩いた。寝起きで隣に男性がいて、完全に混乱している。男と付き合った経験が皆無なものだから、余計に感情のふり幅が大きかった。
「うわ! ちょっと待て! 何もしてない、何もしてない!」
「うそっ!」
「本当だって、服を着てるだろう? よく見なさい」
貴明は麻理子から枕を取り上げて、背中に隠した。
麻理子は、自分の身体を見下ろした。昨日と同じメイド服だ。脱がされたとか、変な感じもしない。何も変わっていないのを確認して、そこで初めて安堵した。
だが安心できない、ここは貴明のベッドの上だ。
メイドたちがほとんど毎日シーツを交換しているのだから、気持ちいいのも当たり前というものだ。おまけに六畳ほどの広さがあって、のびのびできる。貴明は白が好きなのか、壁どころかシーツも真っ白だ。
「僕は、意識の無い女を襲う趣味は無いよ。つまらないし」
貴明は麻理子の興奮が、治まった確認すると、枕を麻理子に返した。
まだ外は薄暗かった。朝陽が出る直前のようだ。
「嶋田さんは、いきなり眠ってしまったからさ。アルコール中毒にでもなったのかとあせったよ。とにかく水をたくさん飲ませた。大丈夫みたいで良かった」
麻理子は水など飲んだ記憶は一切無い。しかし、確かにサイドテーブルには、半分以上空になった水差しとコップが置かれていた。
麻理子のいぶかしげな視線に気づき、貴明はにやにや笑いながら説明してくれた。
「僕が口移しで飲ませた。意識の無い人に飲ませるのって、かなり難しくて何回か失敗したけど、大丈夫、ちゃんと最後には出来たから」
麻理子は、顔を赤くして、自分の桜色の唇を両手で塞いだ。
そんな麻理子を見て、貴明はくすくす笑う。
「君の唇って甘いし柔らかいし、……最高だねえ。何回でもキスしたいなあ」
魅力的な茶色の瞳で流し目をしてくる貴明に、麻理子は妙に反応してぞくぞくし、視線をそらした。
「冗談じゃないです。ひどいです。この間だって、……私、初めてだったのに!」
「うそだろ? モテまくってるから、とっくに経験済みかと思ってた」
普通の男なら謝るところなのだろうが、貴明は反対に嬉しそうだ。
「ごめんごめん、知らなかったものだから……」
麻理子が睨むと、ふてぶてしい態度で謝ってきて、本心からではないのが丸わかりで面白くない。
ファーストキスも、セカンドキスも、その次も、皆この貴明に奪われたのだと思うと、麻理子は悔しくてたまらない。死ぬまで清らかで居たかったのだ。
(それを……それを……っ!)
このままだとその先もされかれないので、黙ってベッドを降りた。出て行こうとすると、からかうような貴明の声が追いかけてきた。
「まだ、朝の六時すぎたばかりだから開かないよ」
麻理子は歩きかけた足を止めて、ぎっと貴明を見下ろした。
「じゃあ、カードキー貸して下さい!」
「キスしてくれたら貸したげる」
「はあ?」
麻理子の中で、園子や他のメイド仲間に対して、怒りが湧き上がってきた。
どこが、社長がキスするなんてありえないだ。めちゃくちゃしてくるし、さらに要求してくるではないか!
今日から麻理子達のグループは、長期休暇に入るため、当分の間、文句が言えないのでやきもきする。
どうやって問いつめてやろうと考えている間に、後ろからベッドを降りた貴明に抱きつかれ、頬にキスをされた。
「きゃあっ!」
「キスしてくれないの?」
「すすすっ、するわけないでしょう?」
麻理子は貴明を突き放し、ゼイゼイと喘いだ。
「そ、園子とか他の皆にしてくださいよっ! 皆待ってるんですから」
「園子……?」
貴明は長い髪をかきあげながら、誰だろうと考えを巡らせ、やがて思い当たったらしい。
「あの呼びもしないのに、夜中に僕の寝込みを襲ってきたメイドか! 全く好みじゃない!」
(園子~! なんてことしてるの貴女は!!!)
麻理子は、心の中で絶叫した。
そうこうしている間に、麻理子は貴明に壁際に追いつめられた。
「わ、わたしなんかを相手になさらなくても、若くて綺麗な子が、いっぱいいるじゃあないですか!」
「僕は二十九で、君は二十七、これくらいがちょうどいいよ。それより下は子供だね……。僕はロリコンじゃない」
ついに貴明に手首をとられ、壁に押し付けられた。
絶世の美青年の麗しい顔が近づいてきて、麻理子の心臓はもう爆発寸前だ。
「あーもう! 鍵はいりません! 八時まで待ちますから、やめてください!」
キスされる寸前で、麻理子が叫ぶと、つまらなそうに貴明が手首を離した。
「あ……そう」
意外とあっさりと貴明はひきさがり、再びベッドに潜り込んだ。
「少し寝るから、七時半になったら起こして」
「……は、はい」
それきり貴明は静かになったので、麻理子はホッと胸を撫で下ろした。
暇なので本を読む事にし、本棚を物色して、読めそうな本を手にしてソファに腰を掛けた。
そのまま一時間ほど経過した頃、扉がノックされた。
時計を見るがまだ六時半だ。貴明を起こさない様に、麻理子は扉の内側から応対した。叩いてきたのはこの屋敷の執事だった。
「すみません、ドアを開けて下さるとうれしいのですが」
と、麻理子が言うと、あっさりと執事は開けてくれた。カードキーでなくても開くではないかと、拍子抜けした。執事と貴明だけが、鍵を持っているらしい。
「この時間に起こしに来て欲しいと、おっしゃっていたのですが」
「社長はおやすみ中ですよ?」
「おかしいですねえ。本日から旅行されるとかで、早く起こす様にとの話でしたのに」
そんなことは、一言も聞いていない麻理子は首を傾げた。
「そうですか、七時半に起こすようおっしゃってたので、起こして差し上げて下さい。私は今日から長期休暇ですし、もう帰りますから」
すると執事は、とんでもない事を口にした。
「貴明様は、嶋田さんと行くとかおっしゃってましたが」
(なんですってえええええ!)
麻理子は驚愕した。なんだってそんな計画が立てられてるんだと、背中に冷や汗が流れる。
冗談ではない、にやにやの貴明と旅行なんかしたら、それこそ身の危険だ!
「多分他の方の間違いですよ。私何にも聞いておりませんから!」
「え? では何故、貴明様のお部屋においでなんです? ここは夜間は……」
「ひ、控え室の扉は閉めてません。出入り自由です!」
「どう見ても閉まっておりますが……」
「今、うっかりして閉めたんですっ! それではこれで失礼しますっ」
不審がる執事を押しのけ、麻理子は猛ダッシュで屋敷の廊下を走った。
一刻も早く屋敷を出て、アパートに帰ろう。
そして、しばらく旅行に行こう!
更衣室に飛び込み、麻理子は宝塚の早変わり並のスピードで、メイド服から私服に着替えた。
(急がなきゃっ)
バッグを掴んで、従業員の出入り口を目指し、猛スピードで廊下を走った。
血相を変えて走る麻理子を見て、違うグループのメイドが目を丸くしている。しかし、気にする余裕もない。
角を曲がったところで、誰かに思い切りぶつかった。
「あ、ごめんなさい!」
すると相手は、麻理子の華奢で小柄な身体を、しっかりと羽交い締めにした。
「急ぐ必要は無いんじゃない? これから朝食だよ嶋田さん……」
貴明だった。相変わらず綺麗なのに、その美しさのおかげで、意地の悪さが人より五割増しに滲んで見える。
麻理子はじたばたと暴れた。こんな所を誰かに見られたら誤解される!
「あの、あの、私……これから用事がありますので」
「そうそう。僕と旅行に行く用事があるよね」
執事の話は事実だったようだ。麻理子は何も知らないというのに。
(一体どうなってるの!)
結局、麻理子は貴明の部屋へ、ずるずると連れ戻されていくのだった。