天使のキス ~Deux anges~ 第25話
佐藤邸では、貴明がかつての灼熱の恋の相手を連れて帰ったため、大騒ぎになった。
特に穂高の存在が人々の興味を引いた。しかし、穂高は雅明の子供として人に紹介され、貴明の隠し子だというゴシップを期待した騒ぎはすぐに治まった。貴明も麻理子も雅明の子供という嘘に抵抗を示したが、雅明は意味深に含み笑いをして、近い将来に本当に自分の子供になるのだからと、自ら噂を広めていた。
麻理子は、同僚たちの質問をすべてかわして、手際よく恵美の部屋を用意した。その間に恵美は病院で検査を受けていた。
昼過ぎにこちらへ戻ってきて、もう六時間以上が経過していた。
恵美がなかなか頑固で、こちらへ連れてくるのが一苦労だった。彼女の立場を考えれば頑固にもなって当たり前なのだが、重度の貧血で最寄の病院から再三入院を急かされていたとあっては、子供が二人も居ることもあって見過ごすことなどできなかった。
貴明は使用人を同居させてはどうかと言ったが、雅明が反対した。恵美が未だに妙に男に付きまとわれやすく、今現在もあの家を見張っているのだという。貴明たちがいなくなったら、誘拐の危険があると言うのだった。
そんなことがあるものかと疑った麻理子だったが、みどりがほんの二時間探ってきただけでも、数人の男たちがうろついていたと報告し、信用しないわけにはいかなかった。長女の美雪によると、母の恵美はいつも誰かしら若い男に襲われかけ、かろうじて撃退していたのだという。正人が居なくなった途端、男の影に怯える日々を送っていたとは、貴明も麻理子も驚くしかなかった。
「まあ……相手が相手だしねえ。あんな男に言い寄られたら、恵美さんでもやばい」
雅明が意味ありげにニヤニヤ笑った。貴明は相手の男を知っているのか渋い顔をした。
「すぐに助けを呼んでくれたらよかったのに。恵美には、親族も頼りになる人も、もういないんだ」
「お前の幸せを壊すのを極端に恐れてたからな。絶対に知らせるなって、しつこかったのなんの。こっちとしては、相手に強行突破される前にと焦った」
貴明がため息をついた。
「どうして恵美に言い寄るのは、どいつもこいつも、無駄に金があるしつこい奴ばっかりなんだ」
雅明がまじまじと感心したように、貴明を上から下まで見た。
「何だ雅明」
「お前ほど自分のことをわかってる人間は、珍しいな」
「気づいてない奴もいるけどな」
漫才のように言い合う二人を、麻理子はぽかんとして見ていた。とにかく恵美という女は金持ちホイホイらしい。そしてそうとう厄介な男に目をつけられ、ただでさえシングルマザーで大変なのに、余計な心配で疲労困憊していたようだ。
やがて、検査がすべて終了した恵美が、部屋に戻ってきた。
検査結果は、やはり重度の疲労と貧血だった。
点滴に繋がれて眠っている恵美は、化粧を落とされ、その素顔はとてもやつれていた。
「恵美は、頑張りやだから無理したんだな」
貴明がもっと眠らせてやろうと言い、麻理子と雅明は部屋を出た。雅明は用があるからと出かけていった。
「一体雅明さんは何者なんですか? 普通の画家には見えないんですけど」
「あっちでマフィアみたいな組織にいる。情報戦を得意にしてて、必要があって呼び寄せた」
「はあ……」
信じられないことばかりだ。
麻理子はこっそりとため息を漏らした。
もうくたくただ。朝早かった上、命を狙われるカーチェイスに、貴明のかつての恋人との再会に、隠し子の出現だ。いい加減、頭の処理能力がいかれてしまいそうだ。
恵美の佐藤邸への移動で気が紛れて忘れていたが、勇佑が麻理子の命を狙ったのは、本当なのだろうか。ここで会った勇佑は、心から婚約を祝っていてくれていたようだったのに……。
帰った貴明の部屋は、いつもと変わりなかった。
「何か飲まれますか?」
「冷蔵庫の麦茶でいいよ」
「はい」
貴明が机に座ってパソコンを開くのを横目に、麻理子は隣接しているキッチンの冷蔵庫から、麦茶のボトルを取り出した。
(たしかにお気の毒とは思うけれど)
麻理子は、すこし厳しい目で恵美を見てしまう。
確かに母としてのその志は立派だったろうが、いかんせん実行力に見合う精神力と基礎体力が追いついておらず、二人も子供を持つ親ならもう少し考えるべきだったと思われた。
有能な社長である貴明でも、やはりおおきな贔屓目で元恋人を見てしまうらしい。
しかし、これは恵美には厳しすぎる考えだということもわかっている。
誰しもが麻理子のように頑丈な身体をもっているわけではないし、自分の管理をできるわけでもない。鋼のような根性だと従兄の勇佑や、同僚の園子にも言われていた。世間知らずなのがよかったのかどうかはわからない。
わかるのは、己の限界をとっくに超えているのに無理をしてしまった恵美を、貴明が見捨てられるわけがないということだ。貴明は恵美の弱さを熟知していている。そして、麻理子の強さもよく知っている。
麦茶のグラスを貴明に手渡すと、貴明は美味しそうに一口飲んで、テーブルの上へ置いた。
「麻理子にとっては迷惑な頼みだろうが、恵美を頼むね。他の女は信用できないから君にしか頼めない」
貴明が申し訳なさそうに言った。元彼女の世話を恋人に頼むなど、普通ならあり得ないであろうそれは、恵美への気持ちが完全に清算済みだという意味だった。麻理子はしおらしい貴明に笑った。
「私の貴明様が、相当迷惑をおかけになった女性ですからね。もちろん喜んでお世話しますわ」
「……麻理子のいやみは相当きつい」
「嫉妬と思ってくださいね。それよりお子様方はまだ……?」
「ああ。今晩は恵美を一人にしてやる必要があるから、ナタリーがずっと相手するそうだ」
ナタリーを覚えていた長女の美雪がおばあちゃんと懐いていたので、穂高も安心してついていっているようだ。ナタリーの子煩悩なのが、なんだか麻理子は意外に思えたが、二人が戻ってこないところを見ると、優しいおばあちゃんでいるのだろう。
「それより雅明さんは、何を考えているのでしょう?」
「何ってそりゃ、恵美を落とすことだろ。あんまり感心しないな。身体は簡単に落とせるだろうけど、心は難攻不落だよ」
「経験者は語る……ですわね」
麻理子は面白くなくて、つんと澄ました。簡単に落とした自分は、さぞ落としがいがなかっただろう。貴明が笑った。
「若造の恋と今じゃ比べ物にならないよ。昔の僕ならまだ落とせてないと思う。というより、そもそも恋っていうやつは落とすもんじゃない、落ちるんだ……どうしようもなく深く」
そう、自分も落ちた。あっけないほど突然に。
「……にしても、まったく麻理子の同僚三人は……」
貴明が深くため息をついて、ソファの肘掛で頬杖を付いた。
「彼女たちが何か?」
「ついにあのナタリーを大噴火させたんだよ。こっちは噴火させまいと頑張ったんだけど、もう救いようが無かった。僕が君を捨てて恵美と結婚するんだと、言いふらかしてたらしい」
あきれ返って麻理子は何も言えない。雅明が同僚の中に監視役がいると言ったばかりだというのに、どうして言動を慎まなかったのか謎だ。そしてその監視役こそがナタリーだったのに。
「懲戒免職。警告を再三無視したら仕方ないね。ナタリーがなんとか僕の意見を採用して、彼女たちの家にはお咎めは無いけど」
「……ご苦労様です」
「あんまりこういうのは好きじゃない。どこかにしわ寄せが来るのがわかってるんだ」
貴明はもう一度ため息をつき、麻理子に手招きした。
貴明の膝上に座り肩に手を回すと、貴明の腕が麻理子の腰をやわらかく抱いた。
「麻理子。僕は君のものだよ」
「私だって貴明様のものです。どんどん独占してくださいね」
「ふふ。うれしい」
本当にうれしそうに貴明は笑い、麻理子に唇を重ねた。
そして、今日はとても疲れているだろうから、夕食は作らせておいたと言い、食べたらすぐに寝てしまおうと言った。
麻理子には何よりの御褒美だった。
貴明の婚約者になった麻理子へ与えられた部屋は、貴明の部屋と同じ一階の中ほどにあった。住んでいたアパートの部屋がまるまる三つ分入る広さだったが、それでも貴明の部屋よりは狭かった。昔住んでいた家の部屋の広さに戻ったというのが、この部屋に入った時の麻理子の正直な感想だった。
通勤の必要が無くなってぐんと楽にはなったものの、常に人の目が光っているのが、どうにも落ち着かなかった。
お嬢様育ちの麻理子は常に人に囲まれていた。だから人の視線に慣れているつもりでいたのは、本当につもりに過ぎなかった。なにしろ人数の桁がひとつ違う。
貴明は、時間がある限り麻理子の部屋に来たり、自分の部屋へ麻理子を呼んだりして、一緒に過ごしてくれた。恵美が来てからは、必要以上に麻理子が恵美にかかわって疲れないように、きめ細やかな心遣いをみせてくれる。一人になりたいなと思っていたら、どうやってそれを察知するのか、そうそうに引き上げて行く。貴明には、恐ろしく人を見る目が養われているらしかった。
恵美の子供たちは転校手続きをして、こちらの近くの学校と保育園に通っていた。恵美の為にも短い期間だといいと、麻理子は思っている。親子にとって、あの家で過ごすほうがいいに決まっているのだから。