天使のマスカレイド 第10話

「たっだいまー……っと」

 帰宅し玄関のドアを開けると、将貴の靴があったので千歳は口を噤んだ。

 将貴は確かにご飯を食べるようになったが、それだけだった。たまにお茶が補充されていて使用された食器がきちんと洗われ棚にしまわれている。それ以外は相変わらず千歳を遮断して部屋に引っ込んでいた。千歳はスーパーの袋から食材を取り出して冷蔵庫へしまいながら、柳田が言った将貴の高校時代を思い出し、追い出すように首を横に振る。

 千歳はいじめにあった記憶は無い。普通に友達は居たし、普通の学校生活だった。そもそもそんなものがあったかどうかですら記憶に無い。田舎そのものの学校で人数が少なかったからだろう。いじめっ子というものは存在していた気がするが、それはごく軽いものでテレビなどで取り上げられる陰惨でいやな気分になるものではなかった。

 柳田は千歳と将貴が結ばれればいいと考えているようだ。一体何を考えているのかと頭を傾げたくなる。将貴はまがりなりにも御曹司だ。ふさわしい令嬢は腐るほどいるだろう。

「悪い人ではないと思うけど、なんかね……」

 ともかく自分にはどうする事もできない。自分にできるのは将貴がまともに生活できるように、人とコミュニケーションが出来るようにするくらいだ。できるかどうかは知らないが、少しは進歩があったのだから亀の歩みでもなんとか進めていけるに違いない。一方で柳田の不思議そうな顔が再び脳裏に浮かぶ。

「……将貴さんもおかしいかもしれないけど、私もとことん人に興味ないみたい」

 手ひどい裏切りをしでかしてくれた鈴木のせいで、千歳は人と深く交流したいと思わなくなってしまった。自分には人を見る目が無い。もしくは恋に盲目になってまた同じ事をしでかしてしまったらと怖くなってしまう。それが薄く軽く人と接し、必要以上に心の領域に踏み込ませない今の状況を作り出しているのだ。ほとんど千歳と将貴は同じだ、と、そこまで考えが至った千歳は不意に笑いがこみ上げてきた。

「似すぎ? 家族と勘当状態とか人間不信とか、こんなんでどうやってまともに戻せるのかしら」

 ひょっとすると声が出せないだけで、将貴の方がまともなのかもしれない。ふと、将貴も恋をした事があるのだろうかと思う。あの顔なら言い寄ってくる女は沢山居たはずだ。

 冷蔵庫にすべての食材を入れた後、千歳は浅漬けにしていたカブを取り出してガラスの容器へ移した。冷凍の柚のスライスでは駄目かもと思いながら作ったものだが、思ったよりも柚の芳香は生きていて、ふわりと爽やかな匂いがする。小皿を用意して箸で摘み、一切れ口にしてみた。柚の舌を弾くような酸味とカブの甘さがたまらない。暑さが一気に吹っ飛んだ。

「これは大成功ね。これからも余った柚はまるごと冷凍保存して、使う時に必要分だけ使おうっと」

 ラップでガラスの容器を包み冷蔵庫へしまう。こうしておけば将貴がまた食べてくれるだろう。同じ気持ちを共有してくれるというだけでいい。愛とか恋とか必要ないではないか。ただ生きて、こういう小さな喜びを日々にちりばめながら過ごしたっていいと千歳は思う。ただの臆病者と言われるかもしれない。若いのに枯れてると言われるかもしれない。たった一度の失恋で馬鹿じゃないかと笑う人間もいるだろう。千歳が鈴木に対して傷ついたのは、本当に好きだったわけではないからだ。最初は都会の男と同棲から結婚なんてかっこいいという浮ついた気持ちだった。まだ友達に彼氏がいない中、自分にだけはいるのだと馬鹿げた優越感がたまらなかった。でもそれはいつしか本物になり、とても深い想いを千歳に抱かせるようになった。鈴木は同棲していた間、千歳に尽くしてくれたし、偽者なのかもしれなかったが多分な愛情を注いでくれた。

 裏切られたと思った自分に千歳は酷く傷ついた。鈴木を信じ切れない自分が嫌になった。

 欠点も何もかも含めて愛するのが本当の愛情だとどこかで聞いた。千歳はそれが鈴木に対するものだと信じていた。しかし千歳が愛していたのは鈴木自身ではなく、千歳が心の中で作り上げた鈴木の虚像だった。真実千歳が愛していたなら、ひょっとすると鈴木は千歳を裏切らなかったのかもしれない。最近やけにそう思う。

 がたがたと将貴の部屋から物を移動させる音がした。戸が開いていないのでわからないが、掃除をしているのだろう。

「……馬鹿みたい。もともと私は人を愛せやしないのに」

 それでも鈴木を事あるごとに思い出す自分は、一体なんなのだろう。これは想いが返ってこなかったから思い出すんじゃない、自分を陥れた男だからくやしくて思い出すのだ。もしこの先鈴木に偶然会ったとしても、鈴木など爪の先ほども気にかけていなかったと平気な顔して面食らわせたいから、予行演習しているのだ。きっとそうだ。そうに違いない。

 将貴の部屋の戸が開く音がして、泣いている自分に気付いた千歳は慌てて立ち上がり、将貴がキッチンへ入ってくる前に自分の部屋に素早く入って戸を閉めた。何の事は無い、千歳も将貴を避けてしまっている。

 締め切られていた部屋は酷く暑く、すぐにつけたクーラーもなかなか温度を下げられなかった。夕飯の支度をしなければと思いながらも、電車での遠出はひどく千歳を疲れさせていたらしく、暑い部屋の中にいるのにも関わらず千歳はそのまま畳に横たわり、愛用している白黒の縞模様のクッションに頭を凭せ掛けて目を閉じた。

 オマエは、ヒトリデモイキテイケルダロウナ。

 耳の底に蘇ってきたのは鈴木の嫌な言葉だったが、それはすぐに眠りの淵に消えた……。

 ふと懐かしい匂いがして千歳は目を覚ました。クーラーの温度の設定が低くされたままの部屋は冷蔵庫より冷え切っていて、冬の戸外並みに寒くなっていた。ほんの少しだけ眠るつもりだったのに寝すぎたと慌てた千歳が壁掛け時計を見上げると、もう夜の八時過ぎだ。帰ってきたのは四時だったので四時間も寝ていた事になる。今晩将貴は夜勤ではないので家にいる。やばい、せっかくご飯を食べてくれるようになったのに作るのをすっぽかしたら、また食べなくなるかもしれないと千歳はエプロンを羽織った。

 クーラーに当たりすぎていたせいで身体中が冷たく凝っている。クーラーの電源を切り、千歳は慌ててキッチンへ向かった。

「え?」

 キッチンの戸を開けた千歳は目を丸くした。懐かしい匂いと思ったのは料理の匂いで、テーブルの上に和食がずらりと並んでいる。鍋を見ていた将貴が千歳に気づいて振り向いた。

「……これ、将貴さんが作ったの?」

 信じられないという言外の声を滲ませて千歳が言うと、将貴はわずかに怒ったような目をしたあとうなずいた。

『腹減ったのにお前が起きてこないから、仕方ないから作った』

「仕方ないからって……」

 今まで食事に無頓着だった将貴が腹が減ったと言うのも不思議だが、仕方ないから作ったというのもまた不思議だ。並んでいるのは鯵の干物の焼いたもの、茄子の揚げひたし、生野菜のサラダ、幾種類かの豆が煮込んである小鉢。将貴が見ていた鍋は味噌汁が作られているようだった。

『今まで一日一食を会社で摂ってたけど、お前の飯を食うようになってから三食摂らないと腹が減って仕方ない。だから作ったんだよ。一人分じゃうまくないし』

「起こしてくれたらよかったのに……」

『疲れてるみたいだったからな』

 ぶっきらぼうに形のいい唇が動き、それでも静かに汁椀をテーブルに置いた。

「でも、あの……」

『早く座れ、冷めるし』

 二人で食べるのは初めてだったので千歳はわけもなく慌てた。似たもの同士で触れ合いたくないと思われていると千歳は思っていたので、一体将貴の中で何が起こってこうなったのかわからない。今までの将貴から食事のしの文字どころか気配すらなかったのだから。意味もなく顔に熱が集まり恥ずかしい。

 向かい側に将貴が座り、異様に緊張する。将貴は手を静かに合わせたあと食べ始めた。想像していた通り綺麗な所作で、それだけで見ほれてしまう。将貴はぼけーっと見ているだけの千歳に気づき、口の中のものを飲み込んで言った。

『なんだよ。俺の飯は食えないのか?』

「いえっ、食べ、食べます。いただきますっ」

 不機嫌になられると困る。千歳はまた慌て、自分も両手を合わせたあと箸を持って汁を飲む。かなりおいしいというか、自分の作ったものより相当おいしい。多分数種のだしが入っているのだろう。お腹がかなりすいていたのもあり、千歳は向かい側に将貴がいるという事も忘れ、いつもより早いスピードで食べていった。どれもこれもおいしいのだから箸が進む。

 かちゃかちゃと立てる食器の音が自分だけのものだと気付いたのは、かなり食べ進んでからだった。千歳が何気に顔をあげると、いつも無表情か無気力な目しかしない将貴が、愛おしさに満ちた甘く暖かで優しい表情を浮かべている。将貴は目が合った途端いつもの表情に戻り、ご飯を食べ始めた。

 千歳の胸がちくりと痛んだ。なんだろう? と自分でも思うがわからない。

 わかっているのは優しい表情を浮かべさせたのは千歳ではなく、他の誰か……おそらくは彼が好きだった女性だろうという事だけだった。それは別れる前の鈴木がたまに浮かべていたものなので、嫌というほどわかる。当時はわからなかった。でも今はわかる。彼にはあの時既に他の女が居たのだ。

(なんなのよ、どうしてこんなに腹が立つんだろう)

 早く食べ終わった千歳は、食器を洗っている自分を縋るように見つめている将貴にまったく気付かなかった。

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