天の園 地の楽園 第1部 第03話
「ねえねえ、恵美はだれにチョコあげるの?」
「毎年正人にチョコケーキ焼いてるから、今年もそうなると思うわ」
親友の亜由美が聞いてきたのでそう答えると、隣の真由が意味深に笑った。
「何よ、変な笑いしてさ」
嫌な予感がすると思いながら、恵美は教科書を机の上へ出した。
高校三年の一月中旬。もう授業は無くもっぱらセンター入試に向けての補習授業ばかりだ。恵美は私立大の推薦入試でもう合格しており、他の進学組の生徒のように追い込まれてはいないので自由そのものだ。
「佐藤君にはあげないの~? あんた、やたらと世話焼いてるじゃない」
隣で貴明が席に着いて本を読んでいるので、ひそひそ声で真由が言う。
「必要ないんじゃないの? 他の子から沢山もらうだろうし。あんた達もあげるんでしょ」
「うん!」
バレンタイン当日は凄い事になりそうだ。
(仕方ないか、そこいらの芸能人よりも綺麗だもの。性格はめちゃくちゃ問題ありだけど!)
あの日以来いじめは無くなったようで、正人は貴明とたまに行動していた。正人もいい線を行っているのだが、いかんせん貴明には及ばない。
やたら派手な金髪のせいだろうかと貴明を見てみる。貴明が恵美の視線に気づいてこちらを見たので、その綺麗な薄茶色の目に胸がどきりとした。
「何?」
「別に、いじめなくなって良かったね」
「あんなのいじめじゃないよ。悪戯のレベル。別に何とも思ってない。命の危険があるわけじゃなし」
貴明は椅子をひいて立ち上がった。
「何処行くのよ? もうすぐチャイム鳴るわよ?」
「どこだっていいじゃん」
貴明はさっさと教室を出て行ってしまう。また煙草を吸う気だ。
「駄目よ!」
仕方がないなと、恵美は真由に振り向いた。
「先生に佐藤を保健室に連れて行くって言っといて!」
「オーケー。お母さん」
「誰がお母さんよ!」
廊下に出たが、もう貴明はいなかった。恵美は一瞬焦ったが、すぐに貴明の行き先を思いついた。あそこしかない。それは大当たりで、屋上へ行った恵美は、くそ寒い中でコンクリートの床に寝転んで煙草を吸っている貴明を発見した。ほっとしながら恵美は貴明の隣にしゃがんだ。
「佐藤いい加減にしなよ。先生達にばれたらどうすんのよ?」
貴明は煙草を吹かしながら笑った。
「ばれたって何もできやしないさ。ここの校長、僕の親父の部下だったんだから。この高校も親父の金がかなりまわってる」
「親の威光を傘に着てるってワケね。情けないと思わないの?」
「着てないよ。親父の思い通りになるのがしゃくでたまらないから、反抗してるだけ。ちゃんと単位はとってるし、成績優秀だからこれくらい大目に見て欲しいね」
「品行方正とは言えないわよね」
「教師陣にはバレてないよ。どこかのおせっかいが保健室だって言ってくれてるしね」
貴明は恵美の目を覗き込んでタバコを手に取り、天使の様に笑ったので恵美は顔を赤くした。どうも自分はこの天使の微笑みに弱い。
そんな恵美の思いを知らずにすました顔で貴明が煙草を吸っているので、癪に障った恵美は先日のようにタバコを取り上げた。しかし貴明はこの間の様に怒ったりしなかった。そのまま恵美をじっと見ている。恵美は得体のしれない甘い感情に支配されそうになり、さっと目をそらした。
「お前さ、なんでそんなに僕にかまうわけ? 僕が好きなわけでもないくせに」
「だってほっとけないんだもん。なんだか危なっかしい」
恵美は貴明の視線から逃れるように立ち上がった。すると貴明も身体を起こして立ち上がり、歩き出した恵美の横に並んだ。相変わらずじっと見つめられてなんとなく身の置きどころがなく、顔に熱がまた集まっていくのを感じる。そんな恵美を貴明が笑いながらからかった。
「僕にあんまり近づくな。痛い目に遭っても知らないよ」
「喧嘩に巻き込まれるってこと?」
げんなりした顔で貴明は首を振った。
「お前って……お前って……つくづく女らしくないのな……。もういいよ。信じられない。お前の友達のほうがはるかに正常だよ」
「?」
恵美は意味がわからないので、ぽかんとして貴明を見上げ立ち止まった。校内へ続くドアはもう目の前だ。今度は貴明が顔をなんとなく赤らめて頭をばりばりかいた。
「この間されたこと忘れたの?」
「この間って?」
貴明は深く溜息をつき、もうつきあいきれんとばかりにドアを乱暴に開けた。チャイムが鳴る。
「お前と正人がお似合いってことが、よっくわかったよ!」
何を怒っているのかさっぱりわからない。戸惑いながら恵美は階段を降りていく貴明に続いた。
二人が教室に入った時にはまだ教師は来ていなかったので、恵美は胸を撫で下ろし、亜由美と真由がニヤニヤ笑っているのを軽く睨んだ。教科書とノートを開いている恵美の横で、突然思い出したように貴明が言った。
「そうだ、二月十四日、おまえんち行くからな」
「なんで?」
「お前の母さんが僕にごちそう作ってくれるって。お前と違っていい女だよなあ~」
いつのまにかメルアド交換していたらしく、貴明がスマートフォンを出してメールを見せてくれた。たしかに房枝のメールアドレスで、おばさんと仲良くするなんて変なのと恵美は思った。その時教師が教室に入ってきた。恵美は慌てて黒板に向かい姿勢を直した……。
十四日、やはり貴明はチョコレートに埋もれていた。机の中も横も上もロッカーも綺麗な包紙やリボンの箱で溢れてかえっているので、面白がって笑っている恵美に貴明は情けない声で助けを求めてきた。
「おい恵美、これなんとかしてくれよ。朝からこれだよ。帰るまでに車が必要だよ。僕はジャニーズのアイドルじゃないんだけどトラックが必要になるかもしれない。マンションに帰るのも恐いよ」
「自分の身からでたサビでしょ? 頑張るのね」
置きどころがなくて困っている貴明を見かねたのか、正人がどこからか段ボール箱をいくつか持ってきて、二人でチョコレートを箱に詰めてどこかに運んでいった。
「何処に持っていったのよ?」
帰ってきた正人に恵美は聞いたが、秘密と言われただけだった。真由と亜由美が戻ってきた貴明にチョコレートを渡している。貴明は仕方が無いから受け取りつつ、勘弁してくれと言う顔をしていた。
「なあ、今年も俺に焼いてくれるの?」
正人が聞いてきたので、恵美はうなずいた。
「まかせて! 家に帰ったら焼く予定よ。でも何故かお母さんが佐藤を呼んだらしくてね」
「おばちゃん、若いツバメを囲ったつもりなのかなあ」
「変な事言わないで!」
恵美は正人の頭を拳骨で叩いた。
放課後、正人と貴明と恵美と三人で下校した。途中、貴明は商店街の花屋に入っていき、大輪の紅い薔薇の花束を担いで出てきた。美しい薔薇は貴明によく似合っていたが、高校生の持つ物ではない。正人がびっくりして薔薇を指した。
「お、お前、誰にやるんだよそれ!」
「房枝さん」
貴明は薔薇を一輪抜いて恵美にくれた。ハリウッドの男優の仕草のようにいやに気障で、その動作は違和感がない。
「お前も一応女だからやる」
「一応は余計よ!」
思わずときめいてしまった自分に、恵美は自己嫌悪した。正人はきざな奴と口笛を吹く。
家に帰ると、房枝は大喜びで薔薇を受け取り、早速花瓶に活けていた。そしてごちそうを作っている最中だったのを思い出し、再びキッチンへ戻っていく。恵美も手伝おうと、着替えるため自分の部屋に入ってびっくりした。
「な、なにこれ!」
ローテーブルの上にチョコレートの箱が山のように積まれている。載りきらずに絨毯の上に落ちているものもあった。ラッピングからして、明らかに貴明がもらったチョコレートだ。恵美は大急ぎで着替えて階下に降りた。
「ちょっと佐藤! なんで私の部屋に入れんのよ~っ!」
洗面台で顔を洗っていた貴明は、水を顔から滴らせながら笑った。
「いつも世話になっているから、お裾分け」
「いくらなんでも、あんなにいらないわよ! あんた私を虫歯だらけにしたいわけ?」
顔をタオルで拭きながら貴明はさらに笑う。
「あれの何倍かは僕の実家に寄付した。今頃屋敷じゃ大喜びだろうね」
「使用人の人がたくさんいる、あんたんちと一緒にしないでよっ」
ぎゃあぎゃあ二人で言い合っていると、正人が入ってきた。
「恵美、そんな狭いところでじゃれあってないで、おばさん手伝え」
「あ、そうだ。ケーキ!」
しかし、台所へ入った恵美は、美味しそうに粉砂糖がかけられているチョコレートケーキを発見した。
「ちょっと早くパーティーを始めたくて、午前に焼いたのよ。ダメだった?」
房枝がニコニコ笑いながら、サラダボウルをテーブルに置いた。
「ううん。ありがと。昨日やっとけばよかったって思ってたくらいだから」
恵美はお箸やスプーンがまだ出されていない事に気づき、食器棚の引き出しを開けてそれらを束にして取り出した。房枝がそんな恵美を見て意味深に笑う。
「なあにお母さん、変な笑い方」
「たくさんチョコレートをくれる彼氏がいてよかったわね」
彼氏などという単語を使われ、恵美は驚いた。
「何言ってんのっお母さん。あんなの彼氏じゃないわよ!」
「照れない照れない。いいわねえあんな美少年、お買い得よねえ。お母さんももっと若ければねえ……」
なにやらおかしな想像を繰り広げている房枝に、恵美はげんなりした。断じて彼氏などではないのだ……。
「あんな性格悪い奴、彼氏になんていらないわ」
「うふふ。まだ恵美も子供ねえ」
激しく勘違いしている母親に、恵美はもっと抗議したかったが、言えば言うだけ話がおかしな方向へ曲がっていきそうな気がして、黙ってテーブルをセッティングした。房枝はそんな恵美に追い打ちをかけるような一言を、居間に向かって放った。
「まさちゃんもたかちゃんも、もう席に着きなさいね」
正人と恵美は、同時に顔を引きつらせた。
「た、たかちゃん?」
「可愛いだろ」
貴明は二人にふふんと笑って房枝の隣に座った。あの無愛想さは何処へやらの満面の笑顔の貴明を見て、正人も恵美もあきれるばかりだった。
賑やかで楽しいパーティーは夜も遅くなってからお開きになり、貴明はまた泊まる事になった。正人は翌日用事があると言って帰っていった。恵美はお風呂へ入ろうとしてバスルームへ行き、顔から火が出る思いをした。なんと自分のブラジャーを、しげしげと目の前に宙吊りにして眺めている貴明がいたのだ。
「スケベっ! 勝手に人の下着眺めないでよ!」
恵美は、さっと貴明の手からブラジャーを取り上げた。
「お前胸でかいな~75のDカップか!」
「エッチ! スケベ! 最低っ」
「はん? スケベはどっちだ」
貴明は丸裸だった。恵美は今度こそ卒倒しそうなぐらい顔を熱くした。そんなもの見たくはない。父親の半裸でさえ恥ずかしいのに、同世代の男子の全裸などそれの極みだ。大慌てで持っていたバスタオルを貴明に向かって投げつけた。
「なんでそんなとこで裸で突っ立ってんのよっ!」
「ここ脱衣所だろ? 服着て風呂はいるのかお前。第一お前、この前僕達から服剥ぎとって全裸にしといて、何を今頃はずかしがってるのさ」
「あの時とは状況が違うでしょっ! もうしらないっ! 佐藤の馬鹿ぁ!」
バスルームの戸を閉めて、恵美は廊下へ逃げた。
(馬鹿! ほんっと! 馬鹿!)
居間へ戻ると、お酒を飲んでいた父親の祝夫がまたとんでも無い事を言った。
「恵美はもてるなあ。正人も佐藤君もお前に首ったけみたいだし!」
「はあ? 何言ってるのお父さんてば! バッカみたい。お母さんも変な事をお父さんに言わないでよっ」
「照れない照れない」
恵美は二人の笑い声を後ろにぷりぷりしながら自分の部屋に戻り、積み上げられたチョコレートの山から一つの箱を取り出して開けた。明らかに手作りのトリュフチョコが数個入っていて、その贈り主の女の子にごめんと頭を下げながら、恵美はチョコを食べた。とろけるような甘さが恵美から怒りを溶かしていく。
(そりゃあ確かに二人ともカッコいいし、素敵だけどさ。佐藤もまあ悪くないけど……)
そのまま背後のベッドに仰向けに倒れ込み、またもう一つのチョコを口に入れた。だんだん眠くなってくる。お風呂に入らなきゃと思いながらまどろんでいるところへ誰かが部屋に入ってきた。房枝だと思っていた恵美は、薄く開いた目に飛び込んできた貴明の顔に一気に眠気が吹き飛びはね起きた。
「あんたっ! 女の子の部屋にノックもなしに入るな!」
「あのさ、布団が敷いてないんだけど……」
「知らないわよ、お母さんに頼んでよ!」
「だって今言おうとしたら、お前の親父さんとラブラブしてて……」
(あのバカップル夫婦め!)
恵美は仕方が無いので、客間に行って押し入れを開ける。取り出そうとすると貴明が後ろから言った。
「そこに入ってんのか。もういいよ、自分で出すから」
「いいわよ、別に……出せる」
「危ないって! 僕出せるって」
恵美は自分の身長より高いところにある布団を取ろうとして失敗し、落ちてきた布団を避けようとして転んだ。
「いったー……く……ない?」
見ると、貴明が恵美の下敷きになっていた。
「僕は痛い。だから自分でとるって言ったのに……」
至近距離で見る貴明の綺麗な顔に、屋上でのキスを思い出して恵美はどぎまぎした。
「ご、ごめん」
恵美が起き上がろうとしたら、貴明に背後から抱きしめられた。
「ちょ……あんた、何?」
「一緒に寝る? バレンタインだし」
「馬鹿なの? 彼女つくってその人に寝てもらいなさい!」
だが貴明は放してくれず、こう言っただけだった。
「お前チョコレート食べてたの? 口元についてる」
「本当? やだ、みっともない!」
手で拭こうとすると、それを押さえて貴明がいきなり唇を押し付けてきた。恵美はびっくりして突き放そうとしたが、貴明はきつく抱きしめて離してくれない。息苦しくて唇を小さく開けた途端に、貴明の舌が入り込んで恵美の舌に絡まった。そんなキスが初めての恵美は貴明にされるがままに唇を貪られてしまう。身体中が熱い。
しばらく経って、唇の端から銀の糸を引いた貴明が言った。
「すっごいチョコレートの味がするな、お前」
「もうやだ離して!」
何もかも恥ずかしくて恵美は顔どころか手足まで赤い。
「やーだ。お前柔らかくって、あったかで抱き心地最高だもん」
「私は抱き枕じゃないっての! お母さん達に見られたら困る!」
「二人とも、今頃もっと過激なラブラブの最中だから、来やしないよ」
足から腰までをすっと擦られ、それだけで恵美はぞくぞく感じてしまう。妖しい何かが背筋を走り抜けていく。
「あ……やだ! ああっ」
妖しく笑う貴明の手が、そのまま上に滑り、恵美の胸を握り込んできた。甘さが吹き飛んで代わりに頭のなかで警鐘が鳴り響いた。
「お前、寝るときはブラジャーしてないの?」
それは完全に欲情した大人の男の声で、恵美は怖くなってきた。
「やだ! もう! そんなところ触らないでよ!」
首筋にねっとりと口付けられる。
「お前、経験ないんだ……」
飲み込まれまいと、恵美は身体を懸命によじらせて声を張り上げた。
「普通の女の子はないの! 男の子は知らないけど正人だってまだなんだから、あんたはあるみたいだけどね!」
「冗談、僕だってセックスは未経験だよ。だけどいい事聞いちゃったな」
貴明はやっと恵美を離してくれた。恵美は思いっきり後ずさり貴明を睨みつける。顔は真っ赤で心臓はばくばくいっており、身体中震えていた。
そんな恵美を見て、貴明が例の天使の微笑みを浮かべた。
「僕、恵美が好きだ」
「ええ? すすす……好き?私を?」
「うん」
貴明の薄茶色の瞳の奥に、妖しい影がちらちら見える。
(恐い……)
恵美はばっと立ち上がり、おやすみも言わずに客間を飛び出し、自分の部屋に戻ってドアを閉めた。
そしてそのままずりずりと座り込む。
自分の唇をそっと人差し指で触った。
キスはとても甘く優しく……そして熱かった。
(冗談よね私が好きだなんて……。でも明日からどうしよう)
そっと押さえた胸は、たちまち貴明の大きな手のひらを思い出した。
ドキドキして今夜は眠れそうにも無い。