天の園 地の楽園 第2部 第36話

 とある社長夫妻の金婚式を祝うパーティーに出席した貴明は、主催者達へ丁重な挨拶をした後、想像通りご令嬢方に囲まれて辟易していた。そっけなくかわしても取り囲む彼女達の根性をたいした物だと思う。できればそれは別の場所で発揮してもらいたいものだ。
 取り囲む令嬢達のグループがようやく途切れたのは、パーティーの中盤を過ぎた頃だった。
 シャンパンを片手に持ち、疲れ気味に壁へ凭れていると、秘書室長が料理を何点か盛り付けた皿を持ってきてくれた。
「貴明様はたいした人気ですね」
「……愛想笑いも疲れてきました」
 いつものように早く食べるのは下品だと言われているため、ゆっくりと食べる。とりあえず一休みというところだ。室長は軽く食べてきたから何もいらないと言い、少し離れますと断り会場から出て行った。ようやくほっと一息をついた貴明は、人混みの中から懐かしい顔が近寄ってきたので珍しく破顔した。
「……ベン・スミスじゃないか。日本に来ていたとは知らなかった」
「やあ貴明」
 ベンは貴明のボーディングスクール時代のクラスメイトだ。貴明が天使のような美しさなのに対して、ベンはいかにもアングロサクソンという感じのワイルドさで女子に人気があった。成績は貴明と同じくらい優秀で、家も父親がイギリス貴族の企業家であり、ほぼ貴明の佐藤家と同格だ。彼の妹との縁談が持ち上がった事もある。くせがなく聞き取りやすい貴明の英語は、ケンブリッジの正確な発音で話すベンによって養われたと言っても良い。
「アメリカで、何か新しい事業を起こしていると聞いたけど?」
「昨年来ると言ってたのに来てくれないものだから、父さんに頼んでくっついてきたんだよ」
 昨年、恵美と一緒に行くつもりだったのが中止になった事をベンは言っている。そこはかとない気持ちに囚われながら、貴明は失礼したねと謝った。
「で、社長はどこに?」
「父さんなら今日はここには来てない。熱出しちゃってね」
「日本の冬ってそんなに寒かったっけ?」
「さあね。どちらにしろベッドで寝てるよ。ああ、見舞いは必要ない、インフルエンザだからうつる」
「そりゃ大変だ……」
 ベンが貴明の隣に引っ付いてきて、ひそひそ声を出した。
「で、さ。その麗しの恵美は一緒に住んでるのか?」
 貴明は説明していなかった自分に苦笑いを浮かべた。だが苦笑い程度で済むようになったのは、失恋の傷がほとんど癒えている証拠だ。なんとなく切ない気持ちになるのは、今独り身だからだろう。
「恵美は今や親父の愛人だよ」
「はあ? なんだそれ」
「ナタリーと親父は契約結婚って言ったろ? 恵美とは相思相愛の事実婚ってわけ」
 クリスチャンのベンがなにやら誤解しているようなので、貴明は面倒くさいが恵美のためにかいつまんで経緯を説明した。何か腑に落ちないものがありながらも、納得したベンが頭を横にふりふり言った。
「……じゃあお前、かなり辛いんじゃないか?」
 貴明は済んだ事だと肩を竦めた。
「フリーなせいで、さっきからご令嬢の相手に大変だよ」
「そうか、これからは紳士の相手をしてくれ」
「お前、紳士かよ」
 二人は笑った。

 今度は打って変わって男達が集まり始め、望んでいた実のある談笑をしていた貴明は、その男達の声に入り混じって爽やかで優しい声を聞いた。何気なく目をやると、すぐ近くの壁際のソファに横になっている壮年の男性と、高校生ぐらいの若さの少女が目に入った。
「大丈夫? お父様」
「大丈夫だよ麻理子。すまないな……」
「仕方ないわ。病気なのに無理に来たんですもの。さあ帰りましょうよ。もうじき運転手の井原さんも来るわ」
 クリーム色のパーティードレスを着た少女の微笑みに、止まりかけていた貴明の心の時計が時を再び刻み始めた。かっと身体が熱くなり、いやに胸の鼓動が高鳴る。なんだろうこれは……。
「おい貴明、どうしたんだ?」
 ぼうっとしていた貴明はベンに肩を揺すられ、その時初めて呼吸を止めていた自分に気づいた。胸の動機はまだ治まらない。深呼吸しながら談笑相手数人に少し話し疲れたので休むと断って場を離れ、少女と父親の隣のソファに座った。ベンがどうしたんだとしつこく聞いていたが、なんと言えばいいのかわからない。隣の親子はとても仲むつまじそうで幸せそうだ。自分にはありえなかった家族像だから、気になるのだろうか。しかし貴明が気になるのは少女のほうで父親ではなかった。
 じっと見ると失礼なので、貴明は聞き耳だけを立てていた。様子がおかしい貴明に呆れたベンは料理にがっつく事にしたらしく、皿に大量の料理を盛り付けて貴明の隣で食べ始めた。
(なんと言う名前なんだろう。どちらも記憶にないな……)
 声が掛けづらくてためらっている間に、少女と父親はやって来た運転手と思しき男性と一緒に会場を出て行ってしまった。名残惜しげにその後姿を見やっている貴明に、ベンが納得がいったように笑った。
「成る程なあ、ふんふん。いい事だよ貴明」
 皿に残ったアイスクリームを食べているベンに、貴明は呆れ気味に振り返った。
「はあ? 何言ってるんだお前」
「いーのいーの。堅物のお前だから難しそうだなと思ってたけど安心した。父さんの病気が治り次第アメリカに帰るよ」
「もう帰るのか?」
「無理やり休みを作ってきたんだ。日本に来た目的は達成したからな。また何かあったら電話してくれ」
「ああ。社長によろしく」
「確かに伝えるよ」
 握手してベンと別れた貴明は、離れた場所に立っていた秘書室長に車を呼んでもらった。他愛のない会話をしている車中でも、貴明の頭の中を占めているはあの少女の微笑ばかりだ。話しかければよかったなといささか後悔したが、すぐにどこの誰かはわかるだろう。
 佐藤邸に戻って室長と別れ、自分の部屋に入った貴明は堅苦しいタキシードを脱いだ。
「……あ」
 唐突に貴明はある事を思い出した。この何ヶ月もの間、自分の頭の中から決して離れなかった圭吾と恵美の姿が綺麗さっぱり消えていたのだ。


「クッキー焼いたから食べよっか」
 もぞもぞと動いている美雪をあやしていた圭吾が、恵美の言葉に嫌そうに顔を歪めた。
「また歯が溶けそうなくらい甘いのか?」
「愛があるなら食べてほしいわ」
「……だからって溶かす必要はあるまいに」
 美雪をベビーベッドに寝かせて逃げるようにドアに向かった圭吾を、恵美は素早く捕まえた。
「エスプレッソマシンで、コーヒーいれたげるから食べなさい!」
 しぶしぶ圭吾はソファに座り、目の前に置かれたクッキーを眺めた。どれもこれも甘そうである。彼は甘いものがとにかく苦手で、見ているだけで頭が痛くなってくるのだ。しかし、食べないと恵美の機嫌が悪くなり抱かせてくれなくなるので、仕方なく一番甘くなさそうな黒いクッキーを摘んだ。
「ん?」
 一つをおそるおそる食べた圭吾は不思議そうな顔をした。それは甘くなかったのだ。
「これは甘くなくていいな」
「でしょう? 男性向けなのそれ。貴明にもあとであげようと思うの」
 たちまち圭吾は不機嫌になった。
「あいつにあげる必要はないだろう? お前がケーキやらゼリーやらあいつの好物ばかり作るから、あいつがこちらに入り浸るんだぞ」
「だって貴明は家庭的なもの知らないし」
「ナタリーにまかせておいたらいいだろう」
「だってナタリー様、料理は全滅だって……。それより貴明ったら、ひと月前にケーキを食べて以来こっちに来ないのよ? マンションに帰ってるの?」
 恵美は圭吾の隣に座り、同じようにクッキーをかじった。
「ああ、あのあすかとかいうメイドが辞めたからな。こっちにいてもつまらないんだろう。あいつ好みのメイドはおらんし……っと!」
 恵美ににらまれて、圭吾は口を噤んだ。
「でも仕事には来ているんでしょ?」
「いや、滅多に来なくなった。学業に専念するとの事だが。ナタリーは気を揉んでいるようだな、跡継ぎなど優秀な奴を選べば良かろうに」
「…………」
 ひとりぼっちでいる貴明はどうしているんだろうと、恵美は心配になった。でも圭吾は意地悪そうににやにやしている。何かを知っているようだ。
「とにかく放っておいてやれ。あまりかき回すとまとまりそうなものもまとまらん。とくにお前がしゃしゃり出る必要は無い」
「は?」
「まだ分からんのか? あいつ、この間のパーティーでまた春が来たんだよ」
 恵美は目をぱちくりさせた。本物の春? ……それは。
「名前も知らない女に一目惚れだそうだ。今頑張って探してる様だな」
 圭吾がおかしそうに笑う。おそらくは圭吾はどこの誰か分かっているに違いない。本当に意地が悪いんだからと恵美は口を尖らせた。
「教えてあげたらいいのに」
「先方がまだ早いと言うんでな。時期を見たいと言うから、それまで黙っているしかあるまい。一応許嫁という形にはしておいた。お前も知っているだろう、あいつは好きになったら女が怯えるほど一直線だからな。相手方がそれを知っているかどうかは知らないが」
「すっごいお嬢様なんだ」
「ああ……」
 圭吾のひざの上に抱き上げられた恵美は、すっぽりと圭吾の腕の中に納まった。どうも圭吾はこのまま恵美を抱きたいらしく、大きな手が恵美のひざから上を撫で始めた。
「だから、お前はそんなに心配する必要は無い」
「そのお嬢様が誰か、私にも教えてくれないの?」
「だめだ、お前は情にほだされて言ってしまうからな」
 その通りで、恵美はそれ以上は何も聞けなくなってしまった。圭吾の顔が近づいてきて、深く口付けられていく。美雪はベビーベッドでおとなしく寝てくれているようだ。恵美は圭吾の愛撫に逆らう事無く、そのままおとなしくソファに押し倒された。
(どうか、そのお嬢様が貴明を愛してくれますように)
 恵美は圭吾の腕の中で祈った。
(こんな穏やかな日が続きますように……)