天使のかたわれ 第11話
夕闇の中を、途切れることなく走っている車が、歩道を歩いている二人をライトで次々照らしていく。あんなにいた観光客は別の地区へ移動してしまったのか、ぽつぽつとところどころに見かけるだけだ。
恵美は雅明におとなしく手をつながれていた。
雅明はかなり怒っているようで、一言も口を聞かない。何度電話をかけても出なかったから、そうとう心配したのだろう。恵美は自分の軽はずみな行動を申し訳なく思った。何かあったら攻められるのは彼なのだから。
ホテルに着き、雅明はフロントで鍵を受け取って、そのまま恵美の手を引いてエレベーターに乗った。すぐにエレベーターは最上階に着き、雅明はずんずんと歩いていく。部屋へ入ると、寝室まで引きずられ、乱暴にベッドへ放り投げられた。
「きゃあっ!」
驚いて起き上がろうとすると、雅明に押さえつけられた。
「一人で外国をうろうろするもんじゃない。日本人はいいカモなんだぞ?」
「アネモネは悪い人じゃないわ」
「そーら、騙されやすいね恵美は。このホテルの連中は、昨日の騒ぎでお前が佐藤貴明の大事な人だと知ってる。お前を人質にして、貴明を脅迫するくらいわけないんだよ?」
その言葉に恵美の身体は緊張した。考えてもみなかった……自分の行動が貴明を縛り付けることもあるのだと。
「ギリシャの街はまだ安全な方だけどね。裏の筋では、お前を狙ってる連中がうろついてるっていう話だ。少しは自分の置かれている境遇を考えるんだな。恵美は日本でも海外でも気をつけるべきだ。そのために私がいる」
「だけど、やっぱりアネモネは脅迫なんてしないわ」
「……だろうな。彼女は貴明にぞっこんだったらしいからな。昨日のあの態度も、嫉妬による腹いせだったんだろう。麻理子さんが来なくて良かったよ。麻理子さんは恵美と違って気が強いから、絶対に引かない。大喧嘩に発展してたと思う」
「まさか」
いつもの穏やかな麻理子を思い出し、恵美は笑った。すると雅明は言った。
「あの貴明と結婚するような女だぞ。あれは常に戦っている女だ。彼女は見かけは優雅でお上品だが、人の何倍も激しい気性の持ち主だ。そうでなけりゃ、あの馬鹿でかい企業の社長の妻に収まれるもんか」
──その中で戦っていく人間でなければ、ナタリーは認めない。お前にその覚悟はあるのか?
恵美の脳裏に、圭吾に乱暴された恐怖が蘇った。お前は貴明にふさわしくないと嘲笑われ、全てを否定されて犯された……。麻理子だったらどうしただろう。きっと、あの圭吾でさえも、跳ね除けられた気がしてならない。あの犯しがたい気品と一緒に、バラの香気を纏った麻理子なら、自分のように無様にされるがままにはならなかっただろう。
恵美が力なく瞳を閉じると、雅明は押さえつけていた手を離してくれた。
「私は戦えないものね」
「そうだな。恵美さんは守られる女だから」
雅明は煙草に火をつけて燻らせた。
静かに恵美は起き上がり、雅明とは反対側へ移動して、腰掛ける。
「私も戦う女になりたかったわ」
「そういうのは、生まれた時から決まっている。諦めるんだな」
「……そうね」
守られてばかりの自分が情けない。でも、どうにもならないのだ。己の度量はどうしたって麻理子のように大きくならない。迷惑をかけるばかりで、人を不幸にする為に生まれてきたような自分だ。
両親。
正人。
圭吾。
皆、自分を愛して先に逝ってしまった。
「貴方は貴方にふさわしい人と結ばれるべきね」
「それ、貴明にも言っただろう?」
どきりとした。
背中に雅明が振り向く気配がしたが、恵美は振り向かなかった。
「……言ったわ何度も。だけど、貴方と同じで諦めが悪かった。おかげでひどい目に遭ってたわ……。最初から麻理子さんに出会えてたら、二人とも早くに幸せになれてたと思う」
「えらく悲観的だな。まだ疲れてるのか?」
恵美は首を横に振った。
「現実を言ってるだけよ。貴明は言ったわ。貴方には何もないから大丈夫だって。そうかしら? ナタリー様は確か、貴族の血筋でドイツの大企業の一族だったはず。子供である貴方にも流れているはずよね。そんな一族が私みたいな女を許すかしら」
雅明が突然笑い出したので、恵美はびっくりして振り向いた。
今のどこに笑うような要素があるのだろう。
ひとしきりに笑った後、雅明は言った。
「血筋で私を振ろうとしたって、無駄だよ。私はシュレーゲルの一族の中では異端者だ。私には分けられるべき名誉も財産も何もない。何しろ一族にべったりと汚名を塗りつけてしまった男だからね」
「汚名?」
「そうさ。私は許されない結婚をして、妻も子も不幸にした。おまけに闇の組織のメンバーだ。いつかは抜けるつもりでいるけれど、一族は認めないさ」
サイドテーブルの灰皿で煙草の火を消し、雅明は立ち上がった。そのままベッドの周りを歩いてきて、恵美の隣に座る。
「私は生まれた時から、星のように輝く弟の影の運命だ」
恵美が心配そうに見ると、雅明はそうじゃないと微笑む。
「勘違いするな。私は貴明が好きだよ。一時的には負けても、最後には必ず勝利を手に入れるあいつが……」
それはつまり、雅明は敗北だらけということだろうか。
そっと横から抱きしめられた。
「……私は戦う女なんていらない。疲れた時に癒してくれる女がいい。負けて帰ってきても、変わらない笑顔をくれる女がいいんだ」
「雅明さん……」
「ずっと願ってた。あの田舎の小さな古ぼけた家で、愛する人と一緒に暮らせたら……って」
それは恵美の夢と同じだ。
「本当?」
「ああ。それだけをずっと願ってた」
雅明の顔が近づいてきて、口付けられた。そのキスは欲望とか男を感じさせるような熱はなく、恵美の求めていた安らかな温かさに満ちていて、何の疑問も彼女に抱かせなかった。
繊細な美貌が聖者のように見える。
「でも、でも、私に関わると不幸になる気がするの……皆」
「馬鹿げた事を言うな」
「正人も圭吾も死んだわ。雅明さんまで逝ったら私はどうしたらいいの……」
「くそくらえだ、そんなのは!」
途端に聖者の仮面が砕け散り、がらりと男の欲を露呈させた雅明に恵美は怯え、逃げようとして、かえって強く抱きしめられた。
「恵美はどれだけ自分が魅力的か知らない。恵美はファムファタルそのものだ。―運命の女―――。男を狂わせて虜にするんだよお前は……! 貴明も佐藤圭吾も……お前の花に魅せられて、お前の甘い蜜の虜になって狂わせられたんだ」
「わたしそんなんじゃ……」
「そうなんだよ!」
この激情に、恵美はいつもいつも押し流されてしまう。雅明がそれだけの男ではないことを、もう知っているからなおさらだ。
「佐藤圭吾を忘れられないお前を求める私は、はっきり言って愚か者だ。私はお前が自分を滅ぼす女だと分かっていても、お前が欲しい」
雅明の腕が熱い。
「雅明さん」
「もう……我慢できない」
今度は、男そのものの激しい口づけに、恵美は頭の中をかき回されるような感覚にとらわれた。唾液が恵美の口の端からこぼれ、首の方へ流れていく。
雅明の手が恵美の手に絡み付き、シーツに押し付けられた。
そしてまた激しいキス。嫌だと思っているのに、甘い官能の炎は確実に恵美を絡めとっていく。
「私……私は、待って、お願いだから」
言いながらも止められない。はだけ、露呈した胸元に、雅明の唇が滑っていく。
「まさあき……おねがい……」
この感覚は覚えている。
心に圭吾が住んでいるのに、貴明を受け入れたときと同じだ。
今、拒絶しなければ駄目だ。
流されてはいけない。
涙が頬を滑った。
「何もしないって、言ったじゃない!」
ぐっと雅明の肩を引き剥がそうと力を込めた。
すると、雅明ははっとしたように顔を上げ、恵美を弄る手を止めてくれた。しかし、どうしようもなく傷ついているのが、揺れる双眸でわかる……。それを見て恵美も傷ついた。
雅明は、乱れた恵美の服を震える手で直し、言った。
「ごめん……怖がらせるつもりはなかった」
「違うの。怖がってなんかいない」
「我慢するな」
立ち上がる雅明に、恵美は思わず縋った。
「雅明さんが怖いんじゃないの。ただ……もう少し、待って。お願いだから。私はまだ圭吾を追いかけてしまう。こんな気持ちでは……貴方に失礼だと思うから」
「少しは……私に心があると信じていいのか?」
一瞬、ぐっと言葉が詰まったが、恵美ははっきりと頷いた。雅明は仕方ないという微笑を浮かべた。
「そうだな。亡霊が見えるくらいだものな。でも恵美……もし──」
「もし?」
雅明はしかし、ふっと笑っただけだった。
「いや、なんでもない。今日の夕食はルームサービスにしよう。何がいい?」
「…………」
きっと雅明は何かを知っている。恵美は確信したが聞けなかった。
やはり雅明への気持ちを自覚するたびに、圭吾が追いかけてくる。恵美はメニューを眺めながら、心の中で雅明に頭を下げた。
そして、この時雅明が言わなかった事実が、二人の間に風を吹き込んでいく……。