天使のかたわれ 第49話

 振り向いた奏の目には、恐ろしく清らかで穏やかな光が宿っていた。

「恵美」

「はい」

 恵美が返事をすると、奏はスーツのポケットから一枚の紙切れを取り出した。それは、とうの昔に出されているはずの婚姻届だった。

 奏は、恵美たちの目の前で、婚姻届をびりびりに破り裂いた。

 雪のようにはらはらと畳の上に落ちたそれを見て、信じられない思いで恵美が奏を見あげると、奏は苦く笑った。

「貴女が本当に俺を愛してくれる日が来たら、二人で出しに行こうと思っていました」

 不意に太陽が出てきて、逆光を浴びた奏の顔が一瞬影った。

「これで貴女は自由です」

「奏さん……」

「俺は……、────っ!!」

 突然、奏は苦しそうに顔を歪めて膝をついた。

 発作だ。

 驚いて恵美が動揺していると、雅明がさっと奏に近づいて抱き上げた。

「アネモネ、フリッツ!」

 障子の向こうに控えていたのか、すぐに二人が現れた。

「佐藤邸に帰る。こいつは邸内の病院に連れて行く」

「帰るって……」

 恵美が躊躇っていると、子供二人が恵美の手をそれぞれ引っ張った。

「帰ろうよお母さん」

「かあさん」

 本当にいいのだろうかと奏を見るが、奏は発作でそれどころではなく、雅明に抱かれて部屋から出て行く。

「さ、行くわよメグミ」

 雅明を裏切ったはずのアネモネが言い、恵美は追い立てられるように〔あやめ〕を後にし、止まっていたワゴン車に乗り込んだ。

 アネモネが車を運転し、助手席に恵美、後ろの席に穂高と美雪、一番後ろの席に雅明と奏とフリッツが乗った。

「どういうことなのこれは?」

「ごめんなさいねメグミ。私だってあんなことしたくなかったけど、あの偽ソルヴェイと彼女の組織を撲滅するために、仕方のないことだったの」

「撲滅? それに偽ソルヴェイって……」

 何がなんだかわからず混乱している恵美に、アネモネが車を運転しながら説明した。

 ソルヴェイが偽者だったこと。

 それを知っていた雅明がわざと泳がせていたこと。

 その偽者が雅明の美貌に目をつけていて、人身売買オークションで売り飛ばそうとしていたこと。

 他にも売られた人間が居たこと。

 麻薬の取引を活発にしていたこと。

 奏も操ろうとして、裏でいろいろと工作していたこと。

 偽者の組織を撲滅するために、わざと雅明が囮になり、恵美にも悪いが協力してもらうことになったこと。

「……と、こんなわけ。偽者の目を欺くために、私もラウルともわざと婚約破棄していたの。言わなくてごめんなさい。マサアキと契約していたとはいえ、貴女を裏切ったわ。脅迫されて奏と結婚して傷ついて……ずいぶん私を恨んだでしょう?」

 恵美はとても面白くない上、腹が立ってきた。

 アネモネが頷いた。

「怒って当然よ。佐藤邸に帰ったらいくらでも詰って、殴るなり蹴るなり、無視するなりして頂戴」

「貴明は知ってるの?」

「知ってるわよ。おかげでマリコにきついお灸をすえてもらってたわ。彼女にも秘密にされていたの」

 一番後ろの席から、奏の苦しそうな息遣いが聞こえる。美雪と穂高が心配そうにしているので、恵美がバックミラー越しに雅明を見ると、雅明は二人に大丈夫だと言って安心させた。

「このフリッツは医者だ。こういう人間を何人も見ている」

 雅明に絶大な信頼を寄せている子供達は、それだけで安心した顔を見せた。

「あの人、本当に医者なの?」

 恵美が小声でアネモネに聞くと、

「一応ね。いろんな薬品に詳しいわ」

 と言い、後ろに聞こえないように、恵美よりも声を顰めた。

「マサアキを許せないでしょうけど……。これでシュレーゲルも貴女を認めるでしょうね」

「どういうこと?」

 ふっとアネモネは笑った。

「シュレーゲルは、余所者を……特に外国人をなかなか認めないわ。認めさせるには、それなりのものを持っていることを証明しないとね」

「それなりって何よ?」

「メグミはどんな目に遭おうが、自分を見失わなかった。愛するマサアキを救おうとした。敵地で何をされても戦って、多数の人間を味方につけていた……とかね」

「亜梨沙さんから聞いたの?」

「そ。仙崎の家では大変だったそうね。彼女、メグミをとても褒めていたわ。ハナヨメ修行とやらのセンセイ方も大絶賛だったそうじゃないの。ま、虐めといっても主人のアツシだけだったみただけど、どちらにしろ、主人の意向が絶対のあの家で、主人に冷遇されて、狂人の奥方は貴女を助けないという劣悪な環境で、周囲を味方につけられる才能は素晴らしいわ。マサアキのことだから、そこまで計算してたんじゃないの?」

「どちらにしろ許せないわ」

 あっはっはとアネモネは大笑いした。しかし次にはとても小さな声で囁く。

「マサアキを心底愛しているから、許せないのよね?」

「大嫌いよ」

 恵美は力なく言い、アネモネも絶対に許さないと言うと、アネモネは再び大笑いした。

 バックミラーで奏を見ている恵美に、アネモネが大丈夫よと言う。

「あれでも軽いほうよ」

「軽いって……とても苦しそうだわ」

「断薬症状だもの。偽ソルヴェイに薬と騙されて、麻薬の又従兄弟を服用させられていたの。発作が起こって何を飲まされていたのかわかったようね。麻薬を飲んでたなんてばれたら、知らなかったとしても大ダメージだもの。大企業の息子なら外聞を憚って隠すに決まってるわ」

「…………」

 だから、奏は必死に気分が悪いのを隠し、恵美と一緒に居ないようにしていたのだ。

「マサアキの誤算は、それを知らずに貴女に婚姻届を書かせたことよ。麻薬に侵されていなかったら、カナデは貴女を抱いたりしなかったでしょうから」

 ひそひそ声でも、背後の子供に聞かれたらと恵美はひやりとした。しかし、子供二人は外を見て何かを話し合っている。

「……なんでそんなことまでわかるのよ」

「偽者が言ってたの。カナデはついに欲望のままに恵美を犯した。この調子で薬をどんどんこれから増やして、カナデを傀儡にしたら、仙花グループが自分のものになるって。ま、マサアキがすべてぶち壊したけど」

「その偽者は……どうなったの?」

「やくざに連れて行かれたわ。私達の目の前には二度と姿を現さないはずよ」

「そう」

 アネモネは、雅明が偽者を殺したことを言わなかった。特に口止めはされていなかったが、普通の人間には耐えられる告白ではないとわかっている。一般の考えでは、雅明は犯罪者になるだろう。だが、アネモネのような闇の人間には、今まであまたの人を殺してきた偽者が、今回殺される側になっただけで、同情どころか心に残す価値もない。自分だっていつかはそうなるのだ。

 恵美は、偽者には良い思い出など一つもない。これからの人生に関わらないのなら幸いだと思って、ほっとした。

 休日なのにあまり信号にも渋滞にも捕まらず、快調に車は進んでいく。

 話すだけ話したアネモネは黙り込んだ。

 すべてを告白して、恵美の審判を待っているらしい。

 いつも勝気で自意識の高い彼女が、恵美の顔色を伺って神妙にしているのが恵美にはおかしかった。たちまち今までのもやもやが氷解していく。

「……アネモネは、しばらく私にギリシャ語と英語を教えることね。一日三時間。期限は無期限よ」

「あら? そんなものでいいの?」

 軽すぎる罰に、アネモネは素っ頓狂な声を出した。

 恵美は意地悪く笑った。

「……隠し撮りの貴明の写真は没収!」

「何でそんなの知ってるのよ。苦労して撮ったのに……」

 しょげかえったアネモネに、今度は恵美が大笑いした。

 久しぶりにお腹の底から恵美は笑った。 

 佐藤邸に帰ると、恵美は出迎えた麻理子に大泣きされて、しがみ付かれたまま、玄関から住んでいた部屋に入るまで彼女を引き連れて歩いた。幸い人があまりいなかったものの、メイドや社員達が目を丸くしていたので、非常に目立って恵美は困った。

 用意されていた、あたたかな紅茶を飲んで一心地つくと、麻理子が言った。

「雅明さんにも、きついお仕置きを考えなければいけませんわ! 恵美さんを囮にして、あんな男と結婚させようとしていたなんて、男の風上にも置けません」

 麻理子は奏を蛇蝎のごとく嫌っている。たしかに誘拐監禁に結婚強要などする男など、好かれる要素など何一つない。だが一緒に暮らしてみて、奏の私生活やこれまでの人生を知ってしまうと、お人よしな恵美はそこまで嫌えなくなってしまっていた。だからといって犯罪行為は許すつもりはないが……。

 それに恵美が直接手を下さなくても、これから奏は十分な報いを受けるのだ。

 叶わない恵美への想いと、敦史と勘当される事により発生する社会的制裁。操り人形である事を拒否した奏は、裸同然で一からすべてやり直さなければならない。

 圭吾が死んだ時、跡継ぎだと認知されていた貴明でも、グループ内で重役達が反発して揉めて、貴明は倒れるほど働いていたのだ……。

「ご心配をおかけして、申し訳ないです。麻理子さん、臨月で大変なのに子供の面倒まで見てくださって」

「いいえ、気がまぎれて助かっていますの。暇になると具合が悪くなるから」

 麻理子は大きなお腹を抱えるように撫でた。

 ノックの音がして貴明が入ってきた。

「貴明……」

 貴明は恵美を安心させるように笑った。

「本当にすまなかったな。僕も今回のことで麻理子に軽蔑されて辛かったんだけど、恵美が一番辛いよな。奏の家でひどい目に遭ってたって、使用人から聞いたよ」

 そういえば亜梨沙は車に乗っていなかった。

「亜梨沙さんはどこへ行ったのかしら」

「彼女なら仙崎の家へ帰ったよ。彼女の親ともども、あそこでずっと働いているからね。彼女、奏の幼馴染で、幼い頃から傍であいつに加えられる虐待を見ているしかなくて、なんとかならないかなと気を揉んでたらしい。だから今回協力してくれたんだよ」

「そうだったの……」

 貴明は麻理子の隣に座った。ノックの音がして、メイドが貴明の分の紅茶を置いて、頭を下げて出て行く。

「ま、収まるところに収まるだろう。僕としては、奏なんて親父の弟ってだけで大嫌いだけど、仕事はできそうだから囲っておきたいところだな」

「じょうだんじゃありませんわ!」

 麻理子が目を吊り上げた。

「この家に居るだけでも我慢なりませんのに。何を考えてるの?」

 ふふと、貴明が冷たく笑った。

「私人としては嫌い。公人としては欲しい人材」

「もう! 仕事馬鹿なのよ貴方は!」

 ぷんすか怒っている麻理子だが、自分の大きなお腹を貴明に撫でさせているところをみると、もう夫婦仲は修復しているらしい。

 子供達が、食べ損ねた昼食をメイドと一緒に運んできた。貴明と麻理子もまだ食べていないので、一緒に取りたいと言う。

「雅明おじちゃんは?」

 穂高が貴明に聞く。

「雅明は後処理があるから、病院に泊まると言ってたよ」

「つまんないの」

 ナタリーがやってきて、恵美の無事を喜んでくれた。恵美は皆に丁寧に礼を言った。

 すぐにぎやかな昼食になった。

 仙崎の家ではなかったこの明るさが、恵美は有難かった。一方で、この楽しさに触れられなかった奏の境遇を思うと、物悲しい気分に囚われてしまう。

 この想いはいったい何なのだろうか。

 同情?

 後ろめたさ?

 愛情などなかったけれど、夫だったから?

 いくつか考えてみたが、結局答えは見つからなかった。

 

 夜の九時過ぎに、ナタリーが子供たちを引き取りにきた。このところずっと、ナタリーと川の字になって寝るのが、二人の習慣になっているらしい。今晩ぐらいは一緒に寝たい恵美だったが、それなら仕方がないと諦めた。

 シャワーを浴びてさっぱりとし、ハーブティーを飲んで一人でゆったりとしていると、さまざまな出来事が脳裏を過ぎる。

 今日は、いろんなことがあった一日だった。

 扉が開く音に振り向くと、ノックもなしに雅明が入ってきた。

「もうシャワー浴びたのか?」

「……禁止されてませんし。……今何時だと思ってるの? 着替えてるところだったら、殴るところですよ」

「恵美は怖いなあ」

 あっはっはと笑いながら、雅明の足が浴室に向かうので、恵美は驚いて止めた。

「ちょ、ちょっと! どこ行くんですか?」

「どこって風呂?」

「自分の部屋にあるでしょう!」

「私の部屋三階で遠いし。見てくれよこれ、奏がゲロったから……」

 よく見ると雅明の服はしわくちゃで、あちこち得体の知れないシミがあり、嘔吐されたもの特有の変な臭いがする。

「ずっと付き添ってたの?」

「ほっとけないからな。恵美さんには今あいつも逢いたくないだろうから、逢わせられないけどね。でも恵美さんは気になるだろう?」

 それで午後いっぱい居なかったのかと、恵美は合点がいった。

 詳しく話が聞きたいので、浴室に入る雅明を仕方なく見送り、ん? と疑問が沸く。今、雅明は、着替えを持っていなかっただろうか? つまり、遠いという自分の部屋に一旦戻ったのだ。なら何故そこでシャワーを浴びない?

「騙された……」

 恵美は脱力して、ソファに座り込んだ。

 しばらく経って浴室から出てきた雅明は、珍しく品が良い漆黒のシャツに、同じ漆黒のスラックスを着ていた。死神のような妙な格好で、麻理子が見たら文句を言いそうだ

「なにその格好……」

「なんかあったから取ってきた。意味はない」

 雅明らしい。

 雅明が浴室でシャワーを浴びている間、恵美が準備しておいた軽食を雅明はうれしそうに食べた。今日は朝食を食べただけだったらしい。

「で、奏さんはどうなの?」

「落ち着いた。すやすや寝てる。何かあっても、フリッツが付き添いしてるから大丈夫だよ」

「麻薬って聞いたけど大丈夫なの?」

「依存性が弱い奴だったし抜けるのも早いと思うよ。大体一月もあれば大丈夫。どちらにしろ定期健診はかかせないけどな」

「ぜんぜん知らなかったわ」

「恵美にも周囲にも、ばれないように必死だったんだろうな」

 雅明は微笑し、持っていた水のグラスをテーブルに戻した。

「奏に頼まれ事をされた」

「頼まれごと?」

「そう」

 吸い込まれるように見つめられ、恵美はどぎまぎした。

 この目の色はよくない。向かい側に座っていた雅明が恵美を見つめたまま隣に移動してきて、顔を近づけてきた。

 避けるべきかどうか、悩んでいるうちに唇が重なった。

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