天の園 地の楽園 第2部 第39話

……絶対に離さないと言ったのは、貴方だったのに。一生護ると言ったのは貴方だったのに……。

 恵美は美雪と二人で寺の境内にある圭吾の墓を見つめていた。圭吾が亡くなって半年が経過している。愛人である恵美は告別式にも四十九日にも出席せず、ほとぼりが冷めた今、ようやく墓で眠る圭吾を訪れたのだった。
「母様、父様はどうしてお家に帰って来ないの?」
 まだ父の死を理解していない美雪が聞いた。それが恵美をより一層物悲しい気分にさせる。
「……父様は神様に御用でもう帰って来ないの。ごめんね」
「帰ってきてほしいな……。さびしいよ」
 恵美も同じ気持ちだった。だが圭吾は絶対に戻って来ないのだ。自分が生きている間は二度と逢えない。圭吾と言う太陽を喪った恵美は光らない月も同様だ。彼が残してくれた美雪という存在が無ければ、さっさと後を追って死んでいただろう。恵美は滲みかけた涙をハンカチでさっと拭いた。
「さ、お屋敷に帰ろう! お掃除しなきゃね」
「うん」
 佐藤邸も佐藤グループもこの半年で様変わりしていた。
 佐藤圭吾というカリスマ的存在が居なくなったのを幸いに重役達が好き勝手し始め、優秀な社員達も次々に他社に引き抜かれ、統一性と緻密性にかけている仕事の質の悪さに佐藤グループの信頼は地に堕ち、株価が暴落して今も安値を更新している。屋敷もメイド達の大半が辞めてしまい、手入れが行き届かなくなっている。残っているメイド達も頑張ってはいるらしいが、どうにもならない。最近では恵美もメイドとして働いている始末だ。その働いている恵美を見て、影口を叩く者がいる。
「あの愛人、ずっとこの屋敷に居座るつもりらしいな」
「財産目当てかよ」
「あの若い奴に乗り戻すんじゃねえの?」
 恵美は圭吾が愛した屋敷と会社が崩れていくのが辛かった。だからなんとしても圭吾が生きていた時のように戻ってほしい。その一心でこの半年間、毎日メイド仕事を頑張っている。
 貴明も社長に就任して必死に頑張っているのだが、老獪な重役達に翻弄され彼らをどうする事もできないようで、早朝に出社して深夜に部屋に戻り泥のように眠る毎日だ。彼を支持している若手の社員達が居てくれるおかげで、辛うじて佐藤グループが存在しているように恵美には見えた。


 ゴールデンウィークが過ぎたある日、不渡り手形を出しかけるという事件が起きた。重役の一人が勝手にレジャーランドの工事を発注したものだった。
 ナタリーと恵美と美雪の四人で朝食を取っていた貴明は、その報告を秘書室長から聞いてため息をついた。その契約は貴明には知らされていないもので、相手の業者は黒い噂が絶えない飯島建設と言う会社だった。恵美の隣に座っていた貴明は椅子から立ち上がり、壁に背中を預けた。
「やっと引っかかったか、当然契約したのは……」
「橋中専務です」
「第二情報部からは何の連絡も無かったが」
「やはり橋中の手の者が部署内に居て、握りつぶしたのではないかと」
 橋中は、圭吾が排除しようとしていた問題ある男だ。いつも巧妙にその圭吾の牙を逃れて利益のそこかしこを齧っていて、圭吾の死と同時に好き放題をやり始めた筆頭である。ナタリーがいささかの動揺も見せず他人事のように言った。
「十年以上も前に、橋中工務店を買収したのをまだ恨んでいるようね。破格の報酬を与えているのに欲が深いこと」
「……どれだけ卑怯な手を使ったんです?」
「そんなもの使っていないわ。あの男の行き当たりばったりな経営で潰れそうになっていた会社を、圭吾が頼まれて買収しただけ。橋中のワンマンぶりに社員は疲れきっていたわ」
 恵美は二人が異様に落ち着いているのが不思議だった。もっとショックが起きそうなものなのに、ナタリーに至っては笑みさえ浮かべている。貴明が腕を組んで恵美に微笑んだ。
「恵美は気にする必要は無い。この半年ずっとこういう奴らを排除する事に専念していたんだ。手形も不渡りになったところで第二号不渡りになるだけだよ」
「相手がまともな商品を納めなかった場合でしょう? ……でも」
「橋中が経理と銀行を買収して、隠し口座に横領したうちの金を勝手に移動しているのは掴んでる。監査が入る前にどっかへ逃げる気だろう。室長、第二情報部の山岡さんは今どこにいます? 表向きには東京に居るとあるけど」
「ここ一ヶ月ほど栃木です。レジャーランド建設予定地がありますね」
 室長が手元の携帯を操作して答え、その返答に貴明がふうと息を吐いた。
「熟練の人は違うね。僕の考えなどお見通しだ」
「社長も責任を問われるでしょうが、いずれにせよ橋中を追い出すには必要です」
「ああ……。まったく……組織の膿を出す外科手術ばかりに追われて参るよ。室長、今すぐ警護部に連絡して奴らを捕まえさせて」
 警護部と言うのは佐藤グループ独特のもので、表向きにはボディーガードや警備に当たっているが、実際の仕事は秘密部隊のようなものだった。裏の顔を知っているのは一部の人間だけに限られていた。
「尾行させておりますのですぐに。警察に告訴状は……」
「手はずどおりに、新しく雇った顧問弁護士の本城を通じて出せ」
「かなりの金が戻って来ないかもしれませんが」
「構わない、どのみち僕達にははした金だ。白蟻は徹底的に駆除する。他の奴らへの見せしめのためにね。すぐに証拠を整理して緊急の株主総会を……開かな……いと……っ…………」
「社長!?」
 突然ぐらりと貴明の身体が傾き、そのまま床に倒れた。
「貴明!」
 恵美が倒れた貴明の額に手をやると、恐ろしい熱さだった。


 いつもの初老の医師が駆けつけてくれた。診断は過労で、一週間は絶対に仕事はしてはならないという厳しいものだった。これはナタリーも想定外だったらしく、珍しくおろおろしていた。恵美のほうがしっかりしているぐらいで、恵美は貴明の額に濡れたタオルを何度も変えたり、水を飲ませたり、身体を拭いたりした。
 夜に入った頃、ナタリーが貴明を看護している恵美に言った。
「……私は地獄に堕ちるわね」
 ベッドのランプが極力絞ってあるため暗闇が濃い部屋の中で、地獄などと言う言葉を聞いて恵美はぞっとした。ナタリーは少し離れた場所にあるソファに力なく座っている。
「貴明が佐藤グループを継ぎたがっていないのは知っているの。だから私は社長就任を嫌がった貴明に嘘の提案をしたの。佐藤グループを巣食っている白蟻を退治できたら開放してあげるって……」
「…………」
 くすくすナタリーは笑い、ついで泣き出した。
「そんなつもりは微塵も無いのに私は嘘をついた。だから、だから貴明は倒れたんだわ!」
「……ナタリー様はどうしてそこまで貴明を社長に? オーナーとしても……」
「貴明に経営者以外の仕事ができると思う?」
「……それは」
「私は自分の人を見る目に自信があるの。会った人間の本質はすぐ見抜けるわ。貴明は私と同じで、人に支配されるなんて我慢できない男よ。だから経営者以外にはなれっこ無いの。そう思ったから過保護なまでにその知識を身につけさせたけど、この子ならできると要求しすぎて、ここまで追い詰めてしまったのね……」
 ナタリーの顔は憔悴しきっている。圭吾が生きていてこの彼女を見たのなら、別人かと思うほど弱弱しい。圭吾の言葉を信用するならナタリーは血も涙も無い悪党との事だが、恵美の記憶にある限りそんな印象は皆無だ。だからこそなのかもしれないが……。
「貴明まで失ったら……私は」
「何仰ってるんです? 貴明はただの過労ですよ。すぐに治るってお医者様が」
「いいえ、いいえ! だってこの子は風邪一つ引いた事無いの。アメリカにいる間だってこんな熱は……」
「だったらなおさらありえませんよ。ナタリー様、圭吾が亡くなったばかりだから不安でいっぱいなんですね。お気持ちは分かりますが本当に貴明は大丈夫です」
 おろおろとしていたナタリーは、恵美の言葉にゆっくりと微笑み、そうね……と言った。
「……貴女の言う通りね」
 恵美はほっとした。普段冷静な人間ほど一度乱れると手に負えないと聞いた事があるが今のナタリーがまさにそれだ。恵美の目から見るとナタリーも疲れていて倒れる寸前だ。もしも貴明と同じ仕事量をこなしていたのなら、彼女も危ない。恵美は夜勤のメイドを一人電話で呼んだ。
「ナタリー様もどうかお休みください。貴明は私が見ていますから」
「でも、恵美さんは」
「私は働いてても夜は寝てましたから大丈夫です。明日だってサボったって構いませんけど、ナタリー様はそうは行かないじゃないですか。貴女まで倒れたらこの会社はどうなるんです? 貴明がここまで白蟻退治してきたのに」
「…………」
 ナタリーはメイドが来るまでの間じっと黙っていた。逡巡していた目が次第に強い光を帯びていく……。一体何を考えているのだろうと恵美は不審に思った。メイドがドアをノックしたので恵美が立ちあがった時、ナタリーが落ち着いた声で言った。
「決めたわ。本当に貴明を解放します」
「え?」
 驚いている恵美の横をナタリーが微笑みながら静かに通り過ぎ、パタンとドアが閉まった。
「開放って……」
 恵美は天井を見上げて目を閉じた。圭吾が居たらどう言うだろう……、記憶の中の圭吾は大抵自信満々な魅力的な笑みを浮かべている。
「貴明……貴方どうするのよ?」
 恵美は目を覚まさない貴明に一人ごちた。